カヨさんの社会学 👒
上月くるを
VOL.1
第1話 レモンバーム
ほぼ同時期に種を蒔いた妹の庭では、あっと言う間に発芽して、成長する気満々の双葉を間引いて数個のプランターに植え替えようと、わくわく思案中らしい。
だが、カヨさんのミニガーデンは、いまだにうんでもすんでもない。
たっぷり日が射す特等地だから?(こちらは午後の数時間がせいぜい)
母丹精の庭なので土壌がいい?(四十年前の分譲地でガラクタだらけ)
いや、それより以前に、きっと種の鮮度(?)のせいだろう。
ああでもないこうでもないと、発芽しない原因を考えている。
ある朝、目を覚ますと、記憶にある甘酸っぱい香りが鼻孔を満たしていた。
数年前まではこの時期、毎朝昼晩、出入りのたびに嗅いでいた爽やかな香り。
といっても家ではない、そのころ経営していた小さなオフィスの玄関である。
煉瓦造りの古ビルの玄関わきにこじんまりとした植栽があって、お決まりの柊木や沈丁花が植わっていたが、いつのころからか、青々と茂る葉の間に可憐な小花を咲かせるハーブが、行き交う来客やスタッフの目を楽しませるようになっていた。
――レモンバーム。
その名を教えてくれたのは、印刷会社の営業マンだったような気がする。
朝一番に出社するカヨさんは、日昇前はあるかなきかの薄紅なのに、スタッフの出勤時間になると白く変わる小花を愛しみ、日に何度もたしかめに表へ行った。
世の中の歯車が軋み始めると、まずは隙間産業から立ちいかなくなった。
社屋の買主さんは関心がないらしく、通りかかるたびに植栽は荒れていった。
水ひとつやれない身が申し訳なくて、いつしかその道を避けるようになった。
記憶の底のハーブの香りが、とつぜんよみがえったとき、
――そうだ、実家の妹に種を送ろう。
にわかに思い立ったのは、どういう心理だったのだろう。
地方公務員を定年までつとめ、百歳まで生きた老母の世話も引き受けてくれた。
正しい半生を送ってきた妹なら、さみどりのやわらかな葉っぱに小花をびっしり咲かせるレモンバームを、大事に育ててくれそうな気がしたのかもしれなかった。
カヨさんはいま、老後といわれる境遇にある。
疫病の感染予防のため一日の大半を家に居るせいか、忘れたくて忘れていたり、忘れたくなくても忘れていたりした過去の出来事がふいによみがえることがある。
至らない自分と正面から向き合う時間は、カヨさんを追いこむ。
そこに手を差し伸べてくれたのがレモンバームだったのだろう。
妹に種を送ったあと自宅の庭にも蒔いてみたのだったが、やはり植物は正直で、素直に芽を出してくれる子と、ああだのこうだの言って渋っている子と……。
翌朝、玄関の鍵を開けたカヨさんは、よく目を凝らさなければわからないほどちっぽけな、でも、たしかにそれとわかる双葉が芽を出しているのを見つけた。
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