19. 花嫁、火遊び

 いつもより気持ち急傾斜な階段を上る。

 ひと月他人の手に渡っただけの実家はもう自分の場所ではないような気がした。差配する人間の色がついている。壁に掛けられた昨日と違う生花や、廊下をわたるにつれふっとただよう香油の匂いにも。


(いい暮らしぶりね、何が不満なんだか)


 卑下するわけではないにせよ、十五のエレベアにはわからない。はじめユディウに話を持ち掛けたときには分かった気でいたが、ここにはエレベアが思い描いた閉塞感へいそくかん窮屈きゅうくつさなどさほどないように思えた。

 あるいはユディウ自身の振る舞いや表情からそういうモノを感じ取っていたのか。だとすれば何が彼女を。


(ま、話が早いのはいいことね。不気味っちゃ不気味だけど)


 意図の読めないものは怖い。だからそれを明らかにしに行くのだ。

 もしその過程でちょっとした疎外感を解消するにせよ、それはもののついでに過ぎない。


「お義姉さまーお話があるのだけど入るわね」

「ぇ。きゃっ……!」


 カンカンと居丈高いたけだかにノックするのもわずらわしいと返事も待たずドアを押しのける。

 かつてイステラーハの居室だった広間。白い塗り壁にとりどりの布が飾られた空間の真ん中にシャラがいた。引き出された化粧台と衣装箱の間でこぢんまりと座っている。白地に赤のラインが鮮やかな、袖広の衣装に身を包んで。


「――、」

「なっなっな、なんで」

「あ~エレベアちゃん見て~」


 ラインには金糸で力の紋様が刺繍され、頭髪は薄い銀のベールで覆われている。その頂きには赤金の環冠サークレット


「私がここに来た時のを引っ張り出してみたの~可愛くない、ねえ~?」


 花嫁衣裳だった。なんで法衣を着付きつけに行ったはずがそんなものを、と突っ込むより先に目を奪われる。からかう言葉のひとつもでなかった。


「なんでエレベアがここに来るんですかあっ」

「あ、と、ごめん。用事が終わったものだから様子を見にね」


 言い訳も忘れた。いろいろとすっ飛ばして感無量になる。朝の気まずい雰囲気も棚に上げた。

 つかつかと足早に近づくと物も言わずに抱きしめた。


「ひゃっ、あ!? な、えれ、れ、エレベア、ちょっと!」

「あら~」


 むすむしと胸地に鼻頭を押し付けたあと、湿っぽいまつ毛の隙間から見上げる。


「……誰のとこへお嫁に行くの。ソイツのことぶん殴ってあげる」


 きょとんとした化粧顔へ挑む。戦果はあった。厚っぽく塗られた唇がぷっと吹き出す。くっきりと引かれた目の輪郭が笑みの形にゆるんだ。


「どういう感想ですか、それ」

「感想が聞きたいの?」

「い、や、いいです、恥ずかしいので見ないでください!」


 もぞもぞと暴れる身体をぱっと解放した。背中を向けると天井をあおいだ。


「綺麗よ、夢みたい。殴ってほしいわ誰かに」

「――っ」


 背中に全神経が集中してムズムズする。もう一歩だって自分からは動けないと思いさだめてしかし、背後で鼻をすする音に泡を食って振り向いた。


「ちょ、ちょっと……?」


 シャラは笑顔だった。必死に角度をたもとうとする口端へ、見開かれた翠瞳からこぼれた雫が水晶玉のように溜まっては転がる。


「……あ~あ、ユディウ知~らない」


 泣~かせた、と尖らせた唇で口ずさむユディウは部屋を出て行ってしまう。あとには二人だけが残された。


「シャ、あっ?」


 ドアが閉まると同時エレベアの全身がぶつかってきた温かいものに包まれる。

 背中へ回された腕がとふ、と力ない拳でエレベアを叩いた。


「夢じゃない。どこにも行かない。だから……!」


 あなたも、と。最後の言葉は音になっていなかった。ただ呼気とともに唇がそう形を変えたのをエレベアがなんとなく感じただけだった。


「……シャラ」

「黙ってッ」


 背中を掻きよせるように動く彼女の指。腕が強く締め付けられる。選びかけた言葉を放棄したとたん、ぼんやりとした幸福感が頭の中を支配した。幼な子のように薄く目を閉じる。


「お願い。一人にしないで」


 こんな時間が続けばどれだけいいだろう。この小さな環の中でお互いを求め、与えあうだけの世界であったなら。


「……わかったわ」


 そう思ってしまったらもう駄目だった。そっと覆いかぶさる身体を押しはがすと、ほどけた手のひらをとる。


「ぇ」

「行きましょう、一緒に」

「どこ、へ――」



 部屋の外、バルコニーを打った翼は中庭から空へと舞い上がった。


「――きゃ、ああああッ」


 二人は一羽のに変じている。シャラが右半分、エレベアが左の半身を操って。


「あわ、あぅあ、あわ」


 エレベアに合わせるように右の翼がたどたどしくバタつき、ひとつしかないクチバシは意図せずあいまいに動いた。

 道場に通う門弟のうち、特に親しい間柄あいだがらの者たちはときたま魔法をこんなふうに使って楽しむことをエレベアは聞き知っていた。


「なん、何の――」

「――つもりかって? 見せに行くのよ。可愛いアナタを独り占めしちゃバチがあたりそうだもの」


 ホントはそうしたいけどね、とさえずる。

 街も国も砂漠も、すべてを見渡せる高高度。大翼が弧を描いて向かう先にそれはあった。

 王宮のオアシスを見下ろす石の巨樹。イステラーハが幽閉される拘禁搭。


「むっ……無茶です!」

「あら、アタシはいちど侵入はいってるのよ?」

「だから警備が強化されてるかもしれないじゃないですか! ただでさえ聖樹祭が近いんです、この時期は衛士さんたちもすごーくピリピリするんですよ!?」


 ふいに脳裏へ、丹と金で装飾された西方風の門のある情景が浮かんだ。とても低い、子供のような視点から門扉に立つ魔杖士の後姿をみつめている。彼らのすそをつかもうとした小さな手が邪魔そうに振り払われた。


(っ、今……?)


 覚えのない記憶に戸惑う。


「……? エレベア、どうかしましたか?」

「いえ……あ」


 街ひとつ飛び越える視力をもつ鷹の目が、塔の頂上で空を睨む魔杖士の姿をとらえた。一度目の侵入時にはいなかったものだ。これではシャラの言う通り空の抜け道は使えそうにない。


「それもそうね」

「え」


 冷たい風も手伝ってようやく頭が冷えた。


「どうしたんですか。わたしの言うこと聞くなんて」

「アタシを何だと思ってるわけ。別に、行けるなら行こうと思っただけよ。ドンパチやろうってんならシャラを連れてきやしないわ」


 そう、どうでもいい。気にするのも馬鹿らしいくらいの心残りだ。


「おばあ様を助けたらね、アナタを紹介したかったの」


 ゆっくりと大きな円で旋回する。シャラの方の翼が一瞬かたまって傾斜が深くなった。


「余計なお世話なんだけど、おばあ様は自分が死んだ後のことが心配らしくて。特にアタシが友達をちゃんと作れるか、とか。馬鹿みたいでしょ」

「……」


 本当は婿を探せと言われたが、今の自分ならそう大差のないことだと口には出さない。体がふらふらと揺らいだ。


「殺しても死なないような人だけどね。それでもって思ったの。昔は心配されると嬉しかったけど、今は安心してほしい」

「……わかります」

 (――わたしだって、エレベアを母様にあわせたかった――)


 今度は胸のうちに響く自分のものではない声。


(誰の? シャラの?)


 ちょっとだけ嫌な予感がする。恋人たちがこの遊びを好むことに、それでいて時たまにしか耳にしないことに、ただの遊覧飛行以上の理由があるのかもと勘づいて。


「へ……ぇ、今わたし口に出してました?」

「いいえ……でもそうね、二人でひとつの口を使ってるんだから、頭の中だってひとつかもしれないわ」


 愛する相手の心の内まで知れてしまう、そういう火遊びの類ではないかと思い至り。


「え、ぇえ!? そんなイヤですよえっち!」

「覗かれて困るようなこと考えてるわけ? 逃げるんじゃないわよ墜ちるから」

「ぅうっ」


 それは無意識に弾いていたノイズのようなもの。一度意識してさえしまえば耳を傾けることはそう難しくなく。


 (――飛ぶのでいっぱいいっぱいなの、バレちゃったらやだな。いい雰囲気なのに――)


「ぷっ」

「なっ、ぁんですかあ!?」

「いいえ別に、うふふふふ」


 これは、楽しいが無粋ぶすいだ。少し考えればわかることを答え合わせすることもない。

 謝るかわりにわざとはっきりと胸中でそれを言葉にした。


(シャラ、羽ばたくのを止めて)

(?)


 右片翼がピタリとおとなしくなる。揚力をうしなった鷹は木の葉が舞うようにくるくると螺旋らせんを描いて落下する。


「えっえっいいんですか、いいんですよね!?」


 我に返ったようにシャラが叫んだ。もちろん。

 エレベアは左の翼だけで体の傾きを戻すと、穏やかな滑空かっくうから上昇気流へとのりかかる。ふっとそこから飛び出すと、急降下。それを繰り返す。


「ほら、簡単よこれくらい。アナタでもできるわ」

「でっできません、これいつ動かしたらいいんですか!?」

「あははははっ」


 愉快だった。女たるもの秘めやかであれ、と戒めにきた教えを蹴っ飛ばす。

 本心を隠してうまくいったことなど何もないとすら思えた。すべてをさらけ出してなお良い方にしか転がらない確信があった。混じり合い通ってくる彼女の血が、冷たい体にその健やかな体温をわけてくれるようだった。


「疲れちゃったわ。ほら、あとお願いね?」

「やあっ、やめてくださいホントに!」


 くすくすと笑いながら脱力する。羽の上側を地面へ向けて、高く高い太陽を仰いだ。翼はゆるい角度で大気を滑り降りはじめる。


「……なら、二人で墜ちる? アタシはそれでも構わないけど」

「っ」


 穏やかな気持ちだった。繰り返す天と地の反転。

 数を重ねるごと近づいてくる地面にまるで恐怖心がわかない。ただ温かいものが身に沿っているという安心感だけがあった。


「っばか……!」


 片翼がさきのエレベアをなぞるように羽ばたく。乱回転が減速し、体は揚力を取り戻す。


「できるじゃない、簡単でしょ」

「なわけ、ないでしょう、もうっ!」

「いたっ」


 不思議な感触があった。背中を強くなぐった拳骨ゲンコツと、ついで頬を流れる雫。鷹にはそのどちらも無いはずなのに。


「シャラの涙は好きよ。温かくて」

「知りませんっ人の気も知らないでもう!」

「シャラ……」


 知っている。ついさっき、まさに墜落する最中、お互いの気持ちはひとつだった。シャラもエレベアと同じ結末おわりを願った。だから彼女がどんな気持ちでそこから外れたのかわかる。


「……ちゃんと紹介してください、おばあ様に」


 震えるクチバシで彼女は言った。


「オトモダチとして?」

「っ意地悪――っ?」


 抱きしめたいと。強くそうすることを想起する。シャラにできて自分にできないはずがない。首に手を回して少しだけ伸びをしてそれから――その先は未経験ゆえ空想でおぎなったので伝わったかどうか微妙ではあるけれど。


「ぅむ……ぁ、れ?」

「大切な家族だっていうわ。文句なんて言わせない」

「今! いま!」


 身悶えるように暴れる半身をなだめすかして飛ぶ。

 名残なごり惜しいがかえる場所は決まっていた。く手に待つ嵐流も。だからせめて。


「シャラの全部をアタシに預けて。必ず幸せにするから」


 無数の未来からただ一本の糸を引き寄せると誓う。どれだけ難しかろうとそうすると宣言する。大空の下いかにもちっぽけなその誠意がどれほどの意味を持つかなど言うまでもないけれど。


「っはい……! 信じます!」


 その返事だけで一本の強大な芯が通った気がした。体脈にも似たその存在感はさながらもう一本の杖。


 ――中天にあった陽が傾くまで飛ぶ。地上から見上げたその影は舞い睦むように映った。

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