黙示録
舶来おむすび
黙示録
目の前に、ありえない姿の死体が転がっていた。
頭と下半身がないことは別にいい。ブライト・タウンの絶望的な治安の悪さはよく知られていたし、この町に来て数ヵ月の若き新人鑑識──つまりは僕なのだが──ですらも、この程度じゃゲロどころかえづきもしないくらいには鍛えられていた。道端のゴミ袋がよく見たら腐敗ガスでパンパンに膨れ上がった骸だった、なんてことはざらにある。
ただ、今日の問題はそこじゃない。
「なんで天上人が
同じく鑑識服に身を包んだ老爺が、手袋越しに血だまりへ触れた。ともすればひとひらの雪にも見える、仕事の大先輩がつまみ上げた白い柔毛の羽も、まぎれもなく死体の一部。
首から下、腹から上だけとなった生物の屍を隠すように覆い被さる双翼は、その正体を何より雄弁に語る。
「『天使』だ」
忌々しげに、どこか悔しそうに語った誰かの声音が、何故かひどく耳底へ残った。
*
「で、新人君はこんな時間までお勤めだったわけだ」
「そうなのー。だから慰めて! 親切なご近所のオネーサン!」
「酒とつまみはくれてやってんだろ。夜中に部屋にあげてる時点で感謝しなさい」
隣人の油臭い部屋は、今日も絵の具とキャンバスで雑然としていた。適当にスペースを開けてくれた床の上で、塩漬け肉の切れ端を舐めつつ缶ビールに手を伸ばす。
「しっかし胡散臭いね。本当に『天使』なわけ、それ」
「まあ、そりゃ聞いてた話とは大分違うんだけど」
完全無欠の生体兵器。冷酷非情な断罪者。心臓には小型原子炉がたくわえられ、全身を巡るのは冷却水。ブライト・タウンの誇る眉目秀麗な警邏役、それが『天使』だった。
顔はわかりようがなかったからともかくとして、血だまりに沈む光景はどう考えても別名・『生きた監視カメラ』の彼らとは一致しなかった。とはいえ、元の情報がそもそも怪しいことは否定できない。もし宣伝通りの存在なら、例えば町中で転んだ途端に重大インシデント扱いだろう。あまりに使い勝手が悪すぎる。
「『天使』の真似した愉快犯が間違われて殺された、って線はどうよ」
「なくはないけど、そんなことする奴いないって。最下層だよ? 袋叩きに遭うことぐらいちょっと考えればわかる」
タウンの最下層はゴミとネズミの行き着くところ、という言い回しは伊達ではない。もちろん比喩だ。
ただ燃やされるしか価値がなくなった存在、もしくは降ってくるおこぼれに必死で群がる存在。そのどちらも、大抵『天使』に目をつけられ『上層階』から蹴り落とされた成れの果て。自業自得とはいえ、金持ちほどおちおち枕を高くして寝られないという点において、まったくこの町はおそろしく平等だった。
「ま、そうだけど。だったらさ、その最下層付近に住み着いてるあたしらは何なんだって話じゃない?」
「さあ。いいとこハエじゃないかな?」
ぼふ、と奇妙な音がした次の瞬間には、話し相手がビールを吹き出していた。げらげらと笑う声が、タウン屈指の最安アパートに響き渡る。
「最高! 最高だよ新人君! やっぱりあたしは君のセンスが大好きだ!」
「マジ? やったー、俺もオネーサン大好き!」
これが容姿端麗な異性であれば、抱きつくのにも少しは躊躇うのかもしれないが。良くも悪くも、目の前にいるのは『身だしなみ』という言葉をドブに捨てたとおぼしき売れない女流画家だ。今日も今日とて跳ね放題の癖毛から少し顔を背けて、ちくちくする感覚を首筋で受け止める。
「で。結局死因はなんだったわけ?」
「これでも守秘義務があるんでダメ! それに解剖まだ終わってないし」
身体を離した彼女の第一声はそれだった。ほとんど『天使』のおまけと化している職種とはいえ、さすがに公務員として最低限のラインは守りたい。
ただ、とつい口が滑ったのが、思えば分水嶺だったのかもしれない。
「そもそも解剖やってないんだよね、たぶん。上の人がせっせと運んでっちゃったからさ」
「…………ふうん、そうなの。勿体ないなあ、せっかく君から『天使』の極秘写真とか貰えると思ったのに。ギリギリのところまで見えちゃうような」
「やめて! そんなのバレたら俺の首飛んじゃう!」
血と肉の
「あ、それいいね。あたしの絵がお上に見つかるレベルで売れるまでのチキンレース、楽しそうじゃん」
「賭けるならせめて自分の命を!」
「『天使』ってわからなきゃセーフなんでしょ? 安心してよ、これでもあたしは『ギリギリを攻めていく女』ってちょっとは名が知られてるんだから」
「どこで知られてんのさ、それ……」
さりげなく最後の肉片を掠め取り、味がなくなるまで舐めしゃぶる。柔らかでつるつるした舌触りと遊んでいるうち、ふと思い出したものがあった。
「そういえば。写真はないけどお土産はあるよ、日頃の酒のお礼と思って」
「早く言いなよ! なになに、髪の毛? 肉片?」
「候補が生々しすぎない?」
残念ながら期待には沿えそうもないが、喜ばれはするだろう。身体の一部であることに変わりはないのだし。
鑑識は現場保全が最優先、そんなことはわかっている。が、それも検証が終わるまでの話。最初のうちは上司の行為に目くじらを立てていたが、今ではすっかり仲間入りだ。たまに酒代くらいの『落とし物』を拾う快感を覚えてしまえば、あとはもうやめられるはずもなかった。
仕事用バッグの底から引っ張り出すは、小さな粉末コーヒーの空き瓶。脱脂綿を敷き詰めた中央に鎮座ましますは、あの雪と見まごう羽がひとつ。
それを前にしては、大抵のことでは驚かない隣人もさすがに目を見開くことだろう。何しろ『天使』はその名のごとくもっぱら空ばかり飛んでおり、間近で見ることなどそうないのだから───と踏んでの拾い物は、反応を見るに大正解だったらしい。
「…………これは、うん、さすかにびっくりした」
「だろ! よく見ると普通の鳥とはちょっと違うんだよな、羽が。ここちょっと光ってるの、なんだと思う?」
「いや、そこじゃなくて。えー……」
軸の部分に走る赤い発光体を差していると、思いがけず冷静な制止がかかった。目をかっ開いたまま、いつになく落ち着いた声で話す彼女は、そのくせなんだか奇妙にピリピリした雰囲気をまとっていて。
「────うん。君はバカだと思ってたけど、まさかここまでバカだとは思わなかったよ」
世界が吹き飛んだ、と思ったのは一瞬。
ぶれる視界の中、舞い上がった何かが額に直撃し、痛みとともにすべての感覚が舞い戻る。
耳をつんざくけたたましい悲鳴はサイレン。背を預けているのは大きく柔らかな『何か』。目の前に広がるのは隣人のキャンバスではなく、窓も壁もぶち抜いて露わになった夜の空。
そして、ぽつぽつと浮かぶ白い影。それらはおそろしいほどの速さで大きくなり───見えた。何体もの『天使』がこちらに迫ってきている!
背筋が冷えたのと、全身に冷たい風が襲いかかったのは、ほとんど同時のことだった。背後からおもむろに竜巻が吹き荒れ、僕を巻き込んでアパートの外へ飛び出していく。
何故、どうして、何が、いったい……そうした言葉が脳内で入り交じって高速の円舞曲を奏で始める。再び視界がおぼつかなくなったところで、何かに首根っこを掴まれた。結構痛い。細かなトゲのようなものがうなじをちくちく刺激する。幸いにもそのおかげで不毛な思考の大回転から少し気を逸らされたものの、状況は依然として変わらない。
いやむしろひどくなったかも、と足下を見てひとりごちた。どう見ても地上は遥か彼方。 落ちたらギリギリ死ぬ高さである。
そこへきて、僕はようやくあの隣人を思い出した。売れない絵描きは無事だろうか。何が起きたかよくわかってはいないが、僕がこれほどピンピンしているのだから生きてはいるはずだ。たぶん。
「ああ正解、生きてるよ」
そら見たことか。怪我はない?
「いや別に。あの程度の荷電粒子砲であたしを傷つけようとか無理に決まってんだよ」
頼もしいなあ────ところで。
「うん」
自分の首筋を伝うように、背後へ手を伸ばしつつ。振り向くように天を仰げば、影がそこにいた。
透き通った2対の翅は風の暴力を振り撒いて、ぶよぶよと膨れた腹がその振動に細かく震えている。手すりくらいの太さはある6本の脚のうち、2本が自分の身体を支えてくれていることに気づくまで、さほど時間はかからなかった。
巨大な蝿。ただし、頭に相当するパーツはどこにもない。そして聞こえるのは、この数ヵ月ですっかり耳に馴染んだあの声。
「…………オネーサン、でいいの?」
「うん、まあ。君がさっきまで話していたのは私だよ」
水面から浮かび上がるように、脚の付け根に白い顔が現れた。慢性的にこびりついていた頬の絵の具はどこにもない。黒々とした闇に1枚の仮面がぽつんと張り付く、どこかの映画で見かけたクリーチャーを不意に思い出した。
「…………随分思いきったイメチェンしたね」
「冷静だね? もっとパニクるかと思ってた」
「いや、頭ん中は訳わかんないよ」
「驚きすぎて落ち着くタイプか。似てるね」
言葉が終わるより前に、三度視界がひっくり返る。どうやら背中に乗せられたらしい、と気づいたのは腹に触れる柔らかな振動と、先程よりずっと近いプロペラにも似た翅音のおかげだった。
「オネーサン!」
「はいはい、どうした」
目の前の毛むくじゃらをひっしと掴む手のそばへ、再びにゅっと顔が現れる。いったいどういう仕組みなのやら。
「さっきの、あれ! オネーサンの部屋! 何があったの!」
「ああ、君の持ち帰った羽が発信機の代わりだったんだ。それで居場所が割れて、襲撃をかけられたってわけ。……いやしかしびっくりした。せっかく苦労して潜り込んだのに全部パーだよ、あーあ」
話す内容とは裏腹に、どこか楽しげな口調だけはいつものままだったから、僕も思わず笑ってしまった。
「で、これからどうするの!」
「羽は持ってる?」
「もちろん!」
「じゃあ、あたしらの仲間になろう。拒否権はないよ、もし断ったらここから落とすし」
聞きたいことは山ほどある。が、不思議と怖くはなかった。この女性がどんなに面白くて、なんだかんだで世話焼きで、優しくて、信頼のおける相手なのか、他ならぬ自分自身がよく知っていたのだから。
世界が吹き飛ぶ直前、ポケットにねじ込んだ固い感触を確かめながら、翅音に負けじと声を張り上げる。
「最後にこれだけ質問! オネーサン、いったい何なのさ!」
「んー。一応『特殊潜入型生体兵器』みたいな肩書きがあるけど、まあ好きに呼びなよ。君のセンスには期待してるんだ」
頬を叩く夜風に髪をなぶられながら、考えることしばし。
「…………じゃあ、『悪魔』ってどうかな!」
直後、呵呵大笑。安アパートで聞き慣れた響きでありながら、どこかおぞましい影が差していた。まるで、魂の芯を揺さぶるような。
「さすが! ベタでいいね、採用!」
よろしく人間、ようこそ地獄へ。
歌うように口ずさんで、翅が夜をひときわ強く叩いた。
黙示録 舶来おむすび @Smierch
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