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耳をそばだてると、ひたひたと押し寄せてくる終わりの音が聞こえる。今、外の天気が晴れているのかそうではないのかさえ分からないが、ぼくの聴覚がいまだに正常ならば、雨は降っていないはずだ。昔から雨のほうが好きだった。雨が降ると人工的な音が減るからだ。みんな外出を控えて、車もほとんど走らない田舎町の、自然の、あるがままな音だけが残り、それはうるさくても静かだった。二十歳を過ぎてすこし経った頃に実家がなくなり、市内のアパートで暮らし始めてからは、ほとんどその土地を踏むことはなくなっていた。
かたん、かたん、と馴染みのない靴音を聞きながら、ぼくは久し振りの、そして二度目の邂逅を待っていた。
「こんにちは……」
すこし太くて低い声は恰幅の良い男性を想像させた。以前に会った時があまりにも昔過ぎてどんな姿だったかほとんど覚えていないが、華奢な優男という印象があったから、とても意外な感じがした。ぼくは会う前に頭に浮かべていたその線の細い姿の、その身体を膨らませて、新たなイメージを更新する。
「会うの、二度目ですよね?」とぼくが聞くと、
「えぇ二度目です。でも俺のことなんて覚えてないですよね?」
「もちろん会ったことは覚えていますよ。ただ顔や姿までは申し訳ない」
「いえいえ、それはお互い様ですよ。正直、あなたをどうやって探そうか、最初は途方もないような感覚さえ抱いていましたが、意外と見つかるものですね。病気、相当悪いと聞いています」
「まぁこの年齢にもなれば覚悟していなければいけないことですよ。ぼくと大して年齢の変わらないあなただって、そういつまでも他人事ではいられないはずですよ」
かたん、かたん、と靴音がさらにぼくのほうへと近付いてくる。強く鳴らしているわけではないはずだが、その音は強くぼくの耳に届いた。ぼくは室内の床の色を知らないけれど、その色がぼくの今いる場所にもっとも似合うと、白を勝手にイメージしていた。
「朗読CDですか?」
もうあなたの目に何かが映ることはありません……。オブラートには包まないでください、と事前に伝えていた主治医からそう言われた時、恐怖はあったが、不思議と絶望感はなかった。
「えぇ最近の趣味なんです。文字が読めなくなったのだから、と仕方なく聞き始めたんですが、声で物語を聞く、というのも悪くないですね」
「『そして誰もいなくなった』ですか? このタイトルを選んだのには何かわけが?」
「好きだからですよ」
「本当ですか?」と疑うような色を声に混ぜて、彼が言った。「そこに何か意味が込められている、と思うのは、ぼくだけでしょうか?」
「きみが文学青年だった、という話を有紀がしていたのを思い出してね。久し振りに、小説の言葉に、耳を傾けたくなったんだ」
「文学青年というほど文学に精通しているわけではありません。高尚ぶっただけの作品はその青年時代に嫌気が差してしまいましたから。小説が好きなことが文学青年という意味なら間違いではないでしょうが。あなたの頭の中にある意味とはすこし違っていますよね。すくなくとも今の俺にとっては、ミステリでも一冊、娯楽として読んでいたほうがずっと楽しい。あぁ誤解が無いように言っておくと、ミステリが文学足り得ないとか、そういう意味ではないですよ」
「きみとは趣味が合う。ぼくもミステリには目がなくてね。最初は『そして誰もいなくなった』よりも『ナイルに死す』のほうを選ぼうと思ってたんだ。だからお願いしたんだけど、見つからなかったみたいで、『藪の中』も悪くはないと思ったんだけど、ぼくは芥川よりもクリスティのほうが好きなんだ」
「その言葉ひとつひとつに色々と勘繰ってしまうのは、俺だけでしょうか?」
「いやきみの、というよりは、人間の悪い癖だと思うね」
ぼくの身体の右側で椅子を引き摺り、そこに腰を掛ける音が聞こえる。ひとつ漏れた息に緊張の色を感じ取る。
「王谷さんが去年、亡くなったそうです」
「王谷?」
「とぼけるつもりですか? あなたの小学校時代のクラスメートの」
「あぁコウジくんのことか。いつも下の名前で呼ばれていたから、名字を言われてもすぐに分からないんだ。まぁ知っていたよ。彼が死んだことは。去年のその頃はまだ、この目は正常だったしね。今みたいに知り合いとの関わりをすべて絶っていたわけじゃないから、古い知り合いからコウジくんが亡くなったことは聞いてるよ。まぁ彼も、ぼくたちと同様、死ぬのも妥当な年齢だ」
「死因は聞いてないのですか?」
「死んだ、という事実が重要で、それ以上のことに興味はない」
「事故死だと聞いています。本当に、知らなかったんですか……?」
「疑い深い男はモテないぞ」
と、ぼくは意識して口の端を上げてみる。
「あなたよりモテる男性なんてめったにいないと思いますが……。というよりは女性トラブルが尽きない、と言ったほうが適切でしょうか?」
「後者だよ」
「初めてあなたと会った時、そう、紗季さんの一周忌のために有紀とふたりで紗季さんのご実家を訪れた時です。実はその帰り道、有紀からあなたの話を聞いていたんです。有紀から小学校時代の話を聞きながら、だけど名前は教えてくれませんでした。一時は、もう会うことはない、と諦めていたんですが、こんな数十年越しで叶うとは思いませんでした」
「ふたたび会った印象はどうだった?」
「本当にいるんだ、という感じもありますね。ツチノコを見つけたような感覚です。俺があなたの話を聞いたのは、有紀と王谷さん……いやコウジくんと言ったほうが分かりやすいか……、そのふたりだけですが、彼らが話すあなたはどこか物語の登場人物めいていて、そして名前も誰も教えてくれませんでしたから、謎めいてもいました。ずっと会って話してみたかったんです」
「何故?」
「何故、とは?」
「きみが聞きたいことの予想は付く。有紀とのことだろう……」言葉を切って、すこし待ってみたけれど、彼から言葉は返って来なかった。「たとえばぼくが有紀との間に何かがあったとして、それをきみが知ったとしても、今さらすべてが遅すぎる。そんな気がしないか?」
「王谷さん……いや、すみません、コウジくんでしたね。コウジくんと以前お話させていただいた時、彼も同じことを言ってました。時を戻すことでもできない限り、真実を知る必要なんてひとつもない、と」
「ぼくもそう思う」
「でも、必要ないかどうかは聞くほうが決めるものです。……と言いたいところですが、実際のところ、俺は遅いとも思っていないのです。俺は俺にできる形で時を戻したいのです。そのためにはどうしてもあなたに会う必要があった。逆に俺から問いたいのですが、真実を知る必要がないほど時間が過ぎた、と言うのなら、色々とその真実を聞かせてくれないでしょうか?」
「語るのは苦手なんだ。知りたいことがあるなら、色々聞いてくれ、答えられることなら答えるし、そうでなければ答えない」
「嘘は吐かないでもらえますか?」
「ぼくの言った言葉を受け取りたいように受け取ればいい」
ふぅと息を吐く音が聞こえた後に、「……分かりました」という言葉が続いた。
「これは俺の想像です。別に証拠があるわけでもなければ、真実だからと言ってあなたを糾弾するつもりもありません」
「聞こう」
「俺は、ある時からこんな想像に憑かれるようになったんです。有紀を殺したのがあなたなんじゃないか? ……いやそれだけじゃない。紗季さんも。いやそれだけじゃないのかもしれない」
「答える前に聞きたい。きみがそう思った理由を」
「最初に疑念を持ったのは有紀が死んだ直後です。道の駅の階段で転倒した有紀の死は転落事故として処理されましたが、俺は実はあの日あの場所であなたを見ているんです。いえ厳密に言えばどこかで見覚えのある男性の姿を見ただけで、すぐにそれとあなたを繋げることなんてできませんでしたが……」
「よくたった一度、ほとんどすれ違いにしか顔を合わせていなかった男の顔を覚えていたね」
「有紀と別れる時、実は有紀に男の影があることには気付いていたんですが、そのことに触れないまま別れてしまったことを心の奥底では悔やんでいたんです。これからも仕事上の付き合いはあるから関係をこじらせたくない。できる限り円満な形で離婚を、と。だけど別れた後、意外と未練たらたらだったんでしょうね」渇いた笑いが耳に届く。「彼女の好きだった曲を必要以上に聴いたり、とかしてましたね」
「確か有紀はGLAYが好きだった」
「よく覚えてますね」
「高校の時、ライブを観に行った話を飽きるほど聞かされたからね」
「……まぁそんなこんなで未練たらたらな元旦那は浮気相手が知りたくて知りたくてたまらなくなって、ストーカーまがいに有紀の交際相手を調べ始めたんですが、有紀の用意周到さはあなたも知っているでしょう。まったく分からなかった」
「絶対にばれない自信はあっただろうね」
「もうこの件に関しては認めている、と思っていいのでしょうか?」
「きみの好きなように」
「……そうですか。まぁいいです。それで俺は単刀直入、思い切って有紀を問い詰めようと、それもかなり強く……。そのために有紀をドライブに誘ってみたんです。それがあの日でした。つまり何が言いたいか、というと、あの時期、有紀と関連付けて記憶に残っている男性すべてに敏感になっていたんです」
「そうかタイミングがとても悪かったわけだ」
「まぁ、とはいえ、その時はあなたが殺したという想像にいたることもなく、有紀の死はあくまで事故として受け入れていました。警察が事故と判断したのに素人の自分が抗うのも変な話だ。まだ家族として関係が残っていたなら別の感情もわいたかもしれないですけど、もう有紀とは赤の他人でしかなかったですし。もうね。実は一時、忘れてたんですよ。そんな道の駅で出会った謎の男なんて……そう思い出したのは、ずっと後、それから十年以上の月日が経った頃です」
「だいぶ時間が空いたね」
「えぇその時ちょうど仕事がうまく行かなくて……それは仕事内容というよりは職場の人間関係の問題で。精神的な不調を感じ始めて、思い切ってその仕事を辞めて、忙しさで貯まる一方になっていたお金を切り崩しながらだらだら生活している時期があったんです。まぁ、最近は死語になっちゃいましたけど、再就職をする気も漠然としかない、いわゆるニートってやつですね」
「懐かしい言葉だね。今はニートではなく、どんな呼称が使われてるんだろう」
「さぁ俺も最近の言葉には詳しくなくて。……それで、まぁその時期、昔取った杵柄、と言いますか、せっかく時間だけはあるんだから小説でも書こうなんて、まぁさっきあなたの言ってた〈文学青年〉時代の名残なんでしょうね。それで過去についてぼんやり考えることが多くなったんです。まぁそういうのが無くても、時間が山ほどあると、どうでもいいことばかり考えちゃうんですよ。それでね、有紀の事件について別の意味を与えることができるんじゃないか、と考え始めたんです。あの日偶然見掛けたあの男性が、有紀の浮気相手で、そして殺人者だったのではないか、と」
「強引な気もするが……」
「強引でいいんですよ。だって想像なのですから。それにこれをもってあなたを責め立てたいという気持ちもない。ただね、好奇心というのは怖いですよ。どこまでも際限なく欲求が広がっていきますからね。道の駅にいた見覚えのある男が、紗季さんの実家で会った男と同一だと分かってからの自分の行動力に自分でも驚きましたよ。普段は慎重な性格なんですけどね……」
「すくなくとも、ここで会話している限り、そんなに慎重には感じないが」
「ようやくあなたに会えたことで、気持ちがハイになっているのかもしれません。続けてもいいですか?」
「もちろん」
「ただ残念ながらあなたを知るための糸口にするはずだった紗季さんのお母様はもうすでに亡くなっていて、なので有紀と昔の知り合いをしらみつぶしに当たるしか方法がありませんでした。有紀と紗季さん。そのふたりと関係の濃い小学生時代の同級生。俺が有紀の元旦那だと知ると、みなさんとても協力的でした。そしてようやく辿りついたのが、刑務所からの出所したばかりのコウジくんでした。殺人罪で服役していた男に会いに行くなんてとても怖い話ですが、彼の話す口振りは落ち着いていました。どこか独特な圧はありましたが」
「その独特な圧は罪を犯したからじゃなくて、元々の性格だよ」
「一応建前は有紀のことを聞きたい、というものだったんですが、俺が本来聞きたいのはあなたのほうでした。ただ残念ながらあなたの名前まで彼が教えてくれることはありませんでした。印象的な人物としてあなたを挙げながら、どこかあなたを明言するのを避けるような……」
「何が言いたい?」
「だからさらに想像を逞しくしてみたんです。紗季さんを殺したの、実はコウジくんではなく、あなただったんじゃないか、って。馬鹿げた想像でしょうか? でもコウジくん一回も紗季さんを殺したと自分からは言いませんでしたし、それにすこし紗季さんが殺害された事件を調べると、コウジくんは一度自白した罪を公判中に翻しているんですよ。それが認められることはなく、まぁ俺も最初は嘘だとしか思いませんでしたが、もし嘘じゃなかったら……、と」
「紗季を、ぼくが殺した、と?」
「えぇ。そんな物語のような話を、ね」きっと彼は今、薄い笑いを浮かべているのだろう。ぼんやりとそんな感覚を抱いた。
「きみはさっきからぼくを血の通った人間じゃなくて、とことん物語の登場人物にさせようとするね」
「誰かの死のたびに顔を覗かせる、名前さえもはっきりしない謎めいた男。ミステリにこんなに映える人物もいないでしょう」今はきっと恍惚とした表情を浮かべているのだろう。その顔を一度拝んでみたいが、その願いが叶うことはない。「自分の物語に嵌め込んでみたいじゃないですか」
「悪い趣味だ」
「創作者の性ですよ。でも残念ながら俺の好奇心の旅はそこで一度、打ち止めになってしまいました。さすがにお金も尽きて来ましてね。営業系の仕事に再就職したんですけど、これが前以上に肉体的にも精神的にも過酷な仕事でね。そんな仕事だから辞めちゃうひとも多くて、気付いたら長期的に勤めてるってだけでそれなりに偉くなっちゃって……。もう仕事のことだけで精一杯になってしまったんです。この事件のことはずっと頭の片隅にありましたけど、これ以上想像を膨らませたり、調べたりする余裕がなくなってしまったんです」
「そして気付いたら今になっていた、と?」
「老後の愉しみ、と言うんですかね。また小説を、ね。ミステリを書き始めたんですけど、そうするとまたあなたのことが気になって仕方なくなってくる。それで有紀の卒業アルバムを有紀のお姉さん……俺の元お義姉さんにお願いしてお借りして、あなたに該当する人物を探したんですよ。見つかって本当に良かった」
「こちらこそ光栄です」
と言いながら薄笑いを意識してみる。
「あなたの小説を書きたいのです。いえ、もちろんすこしモデルにさせてもらう、というだけの話で、あなただと分からないように書きます。あなたと俺だけが分かる程度の。俺にとってこの物語は特別なのです。もうこびりついて離れない」
「ぼくの許可がなくても、書くわけだよね」
「そうです。はっきり言って許可なんて必要ないんです。ただ俺にはあなたを調べる義理も義務もなかったが、欲だけはあった。そこに多少の罪悪感と、あなたと会話してさらに物語を深めたい、というさらなる欲求があった。たとえばコウジくんの死は、あるいはその死に不可解な部分があったと言われているあなたたちの小学校時代の先生の死は、何かあなたと関係があるのか、とかね。コウジくんはもしかしたらあなたを脅迫していたのかもしれないし、その先生はあなたとただならぬ関係にあったのかもしれない」
「どこまでも赤裸々に語ってくれるね。逆に清々しい」
「申し訳ない、とも思ってますからね。やはり自分の気持ちはさらけ出そうかな、と」
「たとえば、すべて間違っている、と言ったら――」今、彼はどんな表情をしているのだろう。「きみはその言葉をどう捉えるだろうか? きっとぼくの言葉なんて信じず、きみ自身の物語を信じるだろう」
「そうかもしれません……」
「あるいはすべてが正しい、と言ったら――」そして彼は、どんな表情を浮かべるだろうか。「きっときみはぼくの言葉を信じた上で、また、きみ自身の物語を信じるだろう」
「おそらくは……」
「まったく反対の言葉を言っているのに、きみ自身の物語が変わらないのだとしたら、ぼくの言葉なんて必要だろうか?」
みんなそうだった。誰もぼくの言葉を通してぼくを見ようとはせず、いつもぼくを、ぼくの言葉を都合よく利用して、自分自身の物語に浸っているだけだった。ぼくは誰かの想いや感情を映し出す鏡だ。鏡に心があるなんて誰も知らないだろうけれど、ぼくは鏡である前にひとでもある。もちろんツチノコでもない。
「それは――」
「きみの好きにしたらいい。ぼくの言葉はぼくの物で、そしてきみの物だ。だけどぼくはもうこれ以上は語らない。……あぁそろそろ帰ったほうがいい。雨が降ってきたようだから。あぁ。耳が鋭敏になったのもあるんだけど、それ以上に雨の音には敏感なんだ。昔から」
もう一度ぼくは心の中で、
言葉は、必要ですか?
と、呟いた。
※
この目に見えているものだけが真実だ。幼い頃からそんな想いを抱いてきたぼくにとって、両目を失明した、という事実はつねに現実的な恐怖とともに漠然とした違和感が付き纏うものだった。
声がなくなり静寂に返った部屋を見ることもできず感じ取ることしかできないぼくは、あの会話が真実だった、と信じるためによすがとするものを何も持っていないことに気付いた。
靴音が聞こえる。聞き馴染みのある音だ。
「――――さん」
と、ぼくの呼ぶその声は施設で介護士をしている女性の声だとぼくが信じているひとの声だった。
「もう慎司さんは帰られましたか?」
「えっと、慎司さん? ……あぁはいはい。帰りましたよ」
こんな会話のやり取りだって真実の保証がない。
真実でないとしたら、それは幻想である。
罪が過去から追い掛けてくる、という……。
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