僕は暴君に恋をしないっ! ……こともない。
百地
第1部 迷い兎と眠り姫
第1話 迷い兎と眠り姫①
「以上で説明は終わりだ。では、
書類にざっと目を通すと、担任教師の
「はぁ……」
質問と言ってくれるが、所属クラスは二年一組、ホームルーム前に軽く自己紹介、説明を受けたのはこの二点のみである。いや、情報量少なすぎでしょ。頭何キロバイト?
これは形式的なものだと言わんばかりに、先生はまるで俺に興味がないご様子。
ちょっとイラッとしちゃったので、反骨精神あふれる俺は他愛のない会話に興じる。
「俺、編入試験は成績優秀特待枠で合格しちゃったんですけど。俺の学力なんて全国平均ちょい上くらいなのに、ほんと信じられませんよ……」
とぼけた顔を作りながら、ポリポリと頭をかく。俺、なんかやっちゃいました?
先生は不快気に眉根を寄せてこちらを一瞥する。それから、面倒くさそうにため息をついた。
あれ? ここはため息じゃなくて「そんなことないよ、すごいよ」だよ。
「この
「ボンボンって……、教育者としていいんすか、その発言……」
先生はあっけらかんとした顔でとんでもないことを言い放つ。軽く引いてしまい、俺はずり落ちた眼鏡を掛け直す。しかし、そんなカラクリがあったとは。つーか、それじゃさっきの俺、ただの馬鹿じゃん。俺の自虐風自慢を返せよ。
「なあ、宇佐見。腐ったミカンの話を知っているか?」
「はぁ、他のミカンまで腐るから放り出せってやつでしょ。でも人間はそうじゃないみたいな。よく知らんけど」
唐突な質問に俺がそう答えると、満足したのか、工藤先生はうんうんと頷く。
「そう、人間はそう簡単に放り出せない。だから新しいミカンを上に乗せるんだ。腐ってるのがバレないように……」
「……ただの臭いものに蓋じゃねえか。俺はボンボンどもの蓋かよ」
この担任教師のことが少しばかりわかってきた。凛とした雰囲気を持つ美人さんだが、性格はかなりキツイぞ、この人。
「まぁ、この学園はそんな生徒のバカ高い学費と保護者の支援金で成り立ってる。我々教師にとって大事なお客様なのは間違いない。君もその恩恵に預かれるのだから感謝したまえ」
先生は机に書類を放り投げると、すらりとした足を組みなおす。こちらを眺めながら、フッと馬鹿にした感じで笑った。
言ってることは最悪なはずなのに、初めて見たその挑発的な笑みに思わずドキリとさせられる。
まぁ、工藤先生の言い分はご最もだ。ここがいわゆる、お嬢様お坊ちゃま学校なのは知っていた。実際、俺はこの特待生枠に惹かれてこの学園を選んだのだ。
年が明けて間もなく、母さんの仕事の都合で県外への引っ越しが決まった。家族は俺と母さんの二人っきり。親元を離れて一人暮らしをする選択肢は最初からなかった。俺に家事を任せっきりの母さんを一人にさせられん。……あのおばさん、米も炊けないからなぁ。
決して裕福な家庭ともいえないので、学費免除の特待生枠は魅力的だった。ダメ元で受けつつ、家から通える公立校を探す予定だったので、感謝しかない。サンキュー、ボンボン。
そんなことを考えていると、工藤先生は時計を確認して立ち上がる。
「時間だ。教室に行こうか」
工藤先生は肩にかかった髪を払うと、くるりと背を向けて扉の方に向かっていく。
黒いパンツスーツを華麗に着こなす長身の美女に不覚にも目を奪われる。すると、扉の前で先生がこちらを振り返った。
「なにを呆けている。早くしろ」
キリッとした切れ長の目で睨まれて、俺は慌てて後を追った。
× × ×
廊下を歩いていると周囲の視線を感じる。視線の先はもちろん転校生の俺ではなく、目の前にいる工藤先生だろう。
性格はともかく、モデルのようなスタイル抜群の美人教師を周りが放って置くわけがない。とりわけ、男子生徒は颯爽と歩く彼女に熱い眼差しを向けていた。まったく、朝っぱらから元気だな、盛りのついた犬かよ。
背中まで下ろした先生の黒髪が歩くたびにゆらゆらと揺れる。そして俺の視線はその黒髪の下、むちむちのパンツスーツに引き寄せられる。
いかんいかん、俺も朝っぱらから女教師の尻を追っかける変態だ。でも俺は悪くない、先生がエロい。
俺はぐーっと顎を上げて、魅惑のお尻から視線を外そうと努める。先生はこちらをちらりと見ると、ぎょっとした顔で凍りついた。
「何をやっているんだ、きみは……、一昔前のチンピラか?」
「あ、あははー……。これはなんというか――そうですっ! 転校初日から舐められてたまるか、というか、ちょっとした威嚇のつもりでして」
あなたの歩くたびに揺れるお尻に夢中でしたっ! なんて言えない……。
一昔前のチンピラ、なんてものは見たことないけれど、先生に乗っかる形で、ごまかすように頬をかいた。
その様子を見た工藤先生は呆れたのか、大きなため息をついた。
「先ほどの話を気にしているのか? ちょっと世間知らずの生徒はいるが、暴力がはびこる学園ドラマのようなことは起きないから、安心しなさい」
黙って先を歩いていた先生は俺に歩調を合わせると、諭すように言った。
暴力がはびこる学園ドラマ、なんてものは見たことないけれど、黙ってひたすら頷くことにした。つーか、さっきから例えがいちいち古いなぁ、この人。このご時世、学生だろうが暴力沙汰を起こしたら即警察だろう。
不意に、工藤先生は視線を窓の外に向ける。すると、今さら転校生に対して、定番のような質問を投げかけた。
「ところで、新しい生活環境はどうだ? やはり慣れない土地は気苦労が絶えないだろう?」
「え、まあ……」
意外にも会話を続けようとする先生の姿に、少しばかり戸惑う。
第一印象として、工藤先生はあまり生徒に関心がない印象を受けた。もしかして、人見知りなのかな。まさか、じろじろと見てた俺の第一印象が悪かったのか……?
やっちまったかと俺が固まっていると、窓の外を見ていた先生はこちらを心配そうに覗き込んだ。
「どうした? 何か気に障ったか?」
むしろ、俺が気に障りましたか?
「えっ、いや、そんなことは。新しい環境ですか? 実は、亡くなったおばあちゃんがこの辺りに住んでいたので、土地勘はあるんですよ。父さんの墓参りの後、よく母さんと二人で会いに行きました」
「……そうか」
工藤先生は消え入りそうな声で呟く。それから、複雑な顔をして俯いてしまった。
あ、あれ、親族が亡くなった話は空気読めなかったか? せっかく先生から話題を振ってくれたのに、余計な気づかいをさせてしまった。
「え、えーっと、あれですよ。おばあちゃんが亡くなったのは俺が中学生の頃ですし、父さんに限っては小さすぎて顔なんてほとんど覚えてないんです。だから……」
俺があたふたしながらそう言うと、工藤先生はふっと優しげに微笑んだ。先ほど応接室で見せた挑発的な笑みとは全然違っていて、思わず見惚れてしまう。俺は気恥ずかしさをごまかすように話を続けた。
「そ、そうだ! 母さんも地元はこの近くなんです。俺の母さん、若くって、まだ三十代ですよ、三十六歳っ! あっ、先生って何歳ですか? 母さんは学生のとき、『ピアノ界の
「おい、宇佐見」
先ほどのほんわかした空気が一瞬にして凍りついた。
「……お前の母親なんて知らないし、私はまだ二十代だ」
「あっ……、はい」
恐ろしいほど冷ややかな視線を向けられて、心臓が縮みこまるような焦りを覚えた。
それからは氷のような沈黙が続いた。一秒がとても長く感じる地獄のような時間だ。廊下を叩くヒールの音には、どことなく殺気がこもっていた。
昔、おばあちゃんに言われたな。女性に年齢を聞くのは失礼だ、って。母さんはそんなこと全然気にしないから。むしろ実年齢より若く見えるタイプだから。つい、べらべらと余計なことを口走ってしまった。
「着いたぞ」
先生が立ち止ったのは教室棟一階の階段を上って、すぐ右隣りにある教室。プレートには二年一組と書いてる。結局、彼女の剣幕に
工藤先生は扉に手をかけたのち、何かを考えるように目を伏せる。深く大きなため息をつくと、うつむき加減から上目づかいでこちらを見た。
「……宇佐見。次はないからな」
「は、はいっ! すみませんでしたっ!」
突然訪れた謝罪の機会に俺はしどろもどろになりながら、深々と頭を下げる。
少し間を置いて、恐る恐る顔を上げると、工藤先生は呆れた表情でぐしゃぐしゃと俺の頭を思いっきり撫でた。
「ちょ、いたたたたっ! 痛いですって!」
「これでチャラだ。以後、女性の扱いには気をつけるように」
頭皮が剥がれるかと思った。この歳でハゲたらどうしてくれるんだ。
俺は自分の生え際をさっと押さえながら、逃げるように距離を取った。眼鏡を掛け直して、恨めしげに先生を睨みつける。その様子を見て先生は楽しげに笑って、再び扉に手をかけた。
「心の準備はいいか? ほら、行くぞ」
準備はいいか? と聞いておいて俺の返答を待つこともなく、工藤先生は扉を開ける。
なんだよ、この人。生徒に興味がない鉄仮面の美人教師と思えば、笑ったり、悲しんだり、怒ったり、忙しい人だ。
金持ちばかりのお坊ちゃん学園でどうなることかと思ったけれど、少なくとも俺の担任教師は悪い人ではないらしい。それとお尻がむちむちで非常にエロい……。
自己紹介もなんのその、俺の脆弱な脳内メモリは煩悩まみれでオーバーフローを起こしていた。
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