艶女ぃLIFEは眠れない

メバ

第1話:芦田幸太は断れない

目の前の女性は、大きな買い物袋に、パンパンに食料を詰めて歩いていた。


恰幅の良いその女性。

もしかして、大家族のお母さんなのかな?


そう思って見ていると、女性の持つ買い物袋から、魚肉ソーセージがこぼれ落ちた。

女性はそれに気付いていないらしい。


僕は慌ててそれを拾って、女性に声をかける。


「あっ、あのっ。」

人と話すのが苦手な僕の、精一杯の声のかけ方だった。


そんな蚊の鳴くような声かけでも女性は振り返ってくれた。

そして、僕の手元を見る。


「あら、落としちゃったのね。ありがとね、青年!」

そう言って女性は、僕の手から魚肉ソーセージを取り上げて、そのまま歩き始める。


っと、こんなことしてる場合じゃなかった。

僕はその女性を追い抜いて目的地へと急いだ。



「そうですか。芦田 幸太様は騎士ヶ丘大学に就職を。大学の先生って、格好良いですね!」

「あっ、いえ。ぼ、僕は、事務職員で―――」


僕の声を聞いていないのか、目の前の不動産屋さんの女性は、そのままパソコンを見つめていた。

胸に名札があった。望月さんっていうみたいだ。


「条件は2LDKで、なるべく安いところ。それでお間違えなかったですよね?」

「は、はい。」

僕の返事に頷いた望月さんは、パソコンを操作し、すぐに近くのプリンターからいくつかの紙を持ってきた。


「2LDKですと、相場は6万円くらいになりますね。」

「ろ、6万ですか・・・」

「はい。この辺りだと、ほとんどがそうですね。あとは部屋の好みで決めるお客様が多いですが・・・」

そこで、望月さんは一呼吸おいた。


「一件だけ、家賃2万円という物件がありますよ?」

「に、2万!?」

僕の口から、普段出ないほどの大きな声が出てしまった。

それって、ただの事故物件なんじゃ・・・


「あ、事故物件ではないんですよ?」

望月さんが、僕の心を見透かしたように付け加えた。


「この物件はですね、家賃がお安い代わりに、『管理人補助兼雑用係として管理人を補助していただきます。』なんだそうです。」

望月さんが、持ってきていた紙のうちの1枚を見ながらそう言っているのを聞いた僕は、


「で、でも僕、4月から働くので、それと別に仕事をするっていうのは・・・」

「その辺も、大丈夫みたいですよ?」

望月さんが、僕の言葉を遮ってくる。


「『社会人可。雇用ではなく、あくまでもお手伝いの範囲で行っていただければ問題ありません。時間等も、応相談』だそうです!」


「え、えっと・・・」

怪しい、もの凄く怪しい。ここは、無しの方向で・・・


「この物件、いいんじゃないですか?ここからそう遠くもありませんし、見に行ってみませんか?ね、そうしましょう!」

いつの間にかフランクな話し方になっていた望月に押し切られる形で、僕はその物件を見に行くことになってしまった。


そのまま望月さんは、電話に手を伸ばして電話の先の相手と話し、そのまま流されるままに不動産屋さんの車に乗せられた。

少しの間車に揺られて、すぐにまた流されるままに車から降ろされる。


「ここが先ほどの物件、艶女ぃLIFEエンジョイライフです。」


「え、艶女ぃLIFE・・・」


確かに、目の前の看板にはそう書かれている。

望月さんが教えてくれなければ、何て読むかは分からなかったけど。

それでも、1つ言えることがある。


「ダ・・・す、凄い名前ですね・・・」

危なかった。もう少しでダサいって言いそうになった。

今まで『ダサい』なんて言葉、使ったこともなかったけど、その言葉がしっくりくるほどのアパート名だと思う。


「今、ダサいって言いそうになったでしょう?」

望月さんがニヤニヤしていた。

さっきからちょくちょく、望月は僕の心を見透かしてくるな。

でも、さっきのは僕のミスか。


「す、すみません・・・」

「私に謝る必要はないのよ。私だって、最初はそう思ったんだから。」


あ、思ったんだ。とは口にできず、僕はただその言葉に、曖昧な笑みを返した。


「でも、これから会う人にそんなこと言っちゃダメよ?」

望月さん、もう完全にフランクな口調になっちゃってるな、と思いながらも、望月さんの言葉が気になった僕は尋ねた。


「こ、これから会う人って、どなたですか?」

少しは望月さんに慣れてきた幸太の言葉に、


「このアパートのオーナー兼管理人さん。名前は、えっと、そうそう。津屋つやさん!」

望月さんは手元の紙を見ながらそう答える。


津屋さん。

アパート名の艶・・・もしかして。


「あ、気付いた?多分、津屋と艶、掛けてるわよね、これ。」

望月さんの苦笑いに、僕もつられて苦笑い。


でもね、望月さん。

不動産屋さんが、そんな態度でいいのかな?

僕がそんなことを思っていると、望月さんは急に真面目な顔をして、

「じゃ、行きましょうか。」

そう言って歩き出した。

どうやら望月さん、不動産屋さんモードに入ったみたい。


突然の望月さんの変わりように驚きながらも、僕は望月について、艶女ぃLIFEへと足を踏み入れる。


これから僕に起こる大変な日々のことなど、考えもせずに。

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