2021/01/28 明日の音

 行く川の流れは絶えずしてしかももとに水にあらず。時間は常に連続的に流れており、誰も抗うことができない。それはとても怖いことのように思う。光陰矢のごとしとも言われるが、時が経つのはとても早く刻一刻と刻まれるの時計の音にさえ、私は冷や汗を搔いていることに気付いてしまう。

 毎日を消費している、と認識し始めたのは小学生のときだ。学校からの帰り道を一人で歩いていると、ふと自分が何者になるのだろうと思いついてしまった。みんながみんな、必死に、または穏やかに過ごしている時間と同じ空気を吸っている僕に何かを成し得ることがあるだろうか。それは、他の誰かでもできるのではないか。そう思って、ぶるりと震えたのが始まりだった。

 それから何年も過ぎたが、答えは見つからない。今は、それを忘れようと音楽を聴き、映像を見て、本を読み、人と話して、楽しい時間を必死になって記憶に焼き付けている。記憶に焼き付けている、そんな気がした。


 早朝会社に出勤するとき、何度目かの不眠でぼんやりする視界に目をしばたたいていると、黒い塊が映り込み、足下へと消えた。びっくりしてちょっと身体が強張り、次の瞬間には大袈裟に後ずさっていた。

 それは、カラスだった。羽も目も嘴も艶のあるいい色で満たされていた。僕が眼前に迫っていても鳴かず、暴れず、今際の際を受け入れるように静かにしていた。足には網が深く絡まっており、それが諦めの理由なのかと思った。横顔を向けて、僕という遙かに大きい動物を捉えていても動じない。その潔さか、艶のある目で魅入られたからか、僕は誰にも見られていないことを確認して、鞄に入っていたカッターナイフで網を切ってやった。手や刃物を近づけてもカラスは頭を幾度か動かした程度で騒がなかった。実に利口な鳥である。

 完全に解放してやると、トントンと数度跳ねてから飛んでいった。

 蜘蛛の糸なんてね、などと思いながら実行された奇行だが、冷たい空気がいつもより少しだけ美味しく感じる。

 その日は気分を持ち直して出勤したが、些細なことでこっぴどく叱られて墜落したような気分を味わいながら労働した。ようやくアパートに帰宅して――厳密には日付が変わっていたのだが、冷蔵庫から買い置きの安酒を取り出して一杯やっているとインターホンが鳴るのである。はて、日付も変わった夜更けに一体どんな訪ね人があるだろうか、とドアの小窓を覗くとそこには闇夜に映る女の姿があった。

 そのような知り合いに思い当たる節がなく、セールスやなんぞ勧誘でも来たかと考えていると、さらにインターホンが鳴った。再び小窓を介して見た女は、濡れ羽色の長髪を弄っていた。女、三界に家無しとある種の情けと些かの好奇心が湧いて、ドアを開ける。よしんば何らかの恐怖体験を経ようとも平気でいられる自信があったのはアルコールのせいか。


「どなた?」と訊ねる。やはり記憶にない顔だった。「こんな夜更けに訪ねてくるとは無作法ではないですか」

 女は少々困った顔をしている。僕が赤ら顔で出てきたからかもしれない。

「まぁ、こんなところで立ち話もなんですから」

 女から言葉を返されなかったので、ドアを開け放って僕は奥に戻った。今にして思うとどうかしている。

 真っ当な人間ならば、この時点で逃げているだろうが、女は靴を脱いで入ってきた。寒くないようにドアもしっかりと閉められた。鍵を掛けた音も聞こえたかもしれない。

「こんなものしかないけど、君もどう?」

 安酒の缶を冷蔵庫から取り出してみせると、首を横に振って要らぬと示した。

「もう、聞いてくださいよ」

 彼女が一部屋しかない狭い部屋に座ると、僕は話しかけた。

 昔から過ぎ行く時間に怯えて過ごしてきたこと、仕事のこと、上司のこと、今朝助けたカラスのこと、今日も酷く叱られたこと。

「本当はさ、魔が差したというかなんというか、鞄にカッターナイフなんか入れてさ。今日で終わりにしようと思ったんだよね、うん。よくよく考えてみるとカッターじゃ非力な人間が頑張っても人一人死にやしないし……、今朝網を切ってやったのもただ魔が差しただけなんだけど、そっちの方がなんぼか気分が良かったんだよね。でも、今日も手酷く言い込められちゃって、悔しくても刃物を掴むだけの気になれなかった……」

 いつの間にか女は、空の缶を握る僕の手を両手で包むように触れていた。物一つ言わぬ女の表情は何かを伝えたいのかもしれないが、僕は彼女の顔を綺麗だなと思って見つめていた。

 触り返してやりたいとも思った。

 瞬きして潤んだ黒目に光沢が見え、今朝助けた鳥を想起させる。

「ところで、あんた……、ひょっとして今朝のカラス?」

 冗談も半分に言って、答えも聞く前に立ち上がり玄関のドアを開け放った。

「鳥なら、こんな狭いところにいちゃならん――」

 翼があるなら飛んでみろ、と口まで出掛かった言葉が踏み留まったのは酔いも醒めて冷静になってきたことと、彼女が突如として廊下を駆けてきたことだった。

 玄関で僕の脇をすり抜け、彼女を目で追うと眩い光が目を刺してきた。

 太陽が昇っていた。

 太陽から目を背けて、女を探すと、彼女は見えない。

 アパートの廊下にも、部屋の中にも。

 女が脱いだと思っていた靴もなかった。そんなものはまったくの想像で、初めからなかったのかもしれない。


 鳥の鳴き声が聞こえた。

 鳥の羽ばたきが聞こえた。

 鳥。

 羽。

 音。


 気がつくと、口角が上がっていることに気付いた。

 草臥れた頭が生み出した世迷い言か、それとも閃きへの苦笑か。

 それを思い出したことが少し嬉しい。

 羽に音と書いて、翌日と読めることを思い出していた。



お題:【音】をテーマにした小説を1時間で完成させる。

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