2021/01/19 踵の高い靴を履く

「【踵の高い靴を履く】って言葉を思いついた」


 工学部の男子大学生、深山みやまは同じ学科の高柳たかやなぎという女子に話しかけた。工学部の女子というものに、マ〇クのJK並みにその存在性について長らく疑問を持っていた深山であったが、百人超いる同じ学科に高柳を見つけ、その実在性を確信していた。


「踵の高いって、ヒールみたいな?」


 深山は昼休み明けにある実験演習のために、作業着を着ていた。それは高柳についても同様である。ほとんど男性用に誂えられたサイズの大きい作業着を着用する高柳は、深山にとって可愛げのある存在に見えていた。


「そうそう、ハイヒールね。高柳ちゃんもヒール履くの?」


「履いたことないなあ」


 作業着に付属している鍔付き帽を目深に被って隣を歩いている、深山よりも一回り小さい彼女。深山は実家にいる弟のことを少し思い出した。


「あんな機能性の悪いモン、どこに履く機会があるんだろう」


 高柳は自問するように言った。

 構内でハイヒールを履けば、山中に隔離されていると取り沙汰されている我が工学部キャンパスでは衆目の的だろうと深山は思った。

 こと工学や工業に関しては機能性を優先して邪険に扱われる。現場にそこかしこに結界のように張り巡らされているグレーチングがハイヒールのような踵の高い靴を使用する者に警戒感を与えるのである。

 大学の講義の一環で、工場見学に出てうっかりハイヒールを履こうものなら怒濤のお怒りが発生するのである。

 少なくともそういうことがあった、と深山はサークルの先輩から過去のやらかし案件を聞きかじっていた。高柳もそういう危険を冒す性格ではないからハイヒール姿はお目にかかれないだろう、と思いながら是非に一度見てみたいとも妄想していた。


「で、その言葉がなんだって?」


「【踵の高い靴を履く】」と深山は仕切り直す。


 深山には、慣用句を自作する趣味があった。


「アキレスが弱点の踵を晒しても気にならないくらい安心している様子」


「アキレスって?」


「アキレス腱とか【アキレスと亀】とか、聞いたことない?」


「【アキレスと亀】? ああ、高校の数学で聞いたかも」


「アキレスはギリシャ神話に登場する凄いアスリートみたいな奴で、踵に致命的な弱点を持っているんだけど、そいつがハイヒールみたいな踵の高い靴で弱点を晒して歩けるような状態だから、さぞや安心し切っているんだろうなあって」


「ふぅん……。アキレスって女なの?」


「男だが、男がハイヒールを履いて何が悪い?」


 ちなみに深山は男子校の出身で、文化祭で女装をして校内を駆けずり回り教師陣にしこたま怒られた経験がある。


「まあいいや。【枕を高くして寝る】みたいなニュアンスってわけね」


 話が深山の考えた言葉に帰ってきた。


「そういえば、日本にもあるよね。そういう歩きにくそうな履き物」高柳は続けてそう言った。


「どんな?」


「カラス天狗が履いてるような」


 一本歯下駄か、と深山は想像した。下駄の中央にある高い歯一本だけで立っている下駄である。


「ヒールとかブーツとか、あんなイタリアみたいな形した靴の何が良いんだか」


 スニーカーの爪先で足下の地面を叩く高柳は機嫌が悪そうに見えた。


 彼女はハイヒールに一体どんな恨みがあるのだろうか、深山は己の願望に映り込む虚像を打ち砕かれたような気がして、少し心細くなった。


「ファッションみたいなものだからね」


「下駄も?」


 彼女は鼻で笑ったようだが、いくらか機嫌が戻ったように見える。


「中学生の時にさ」高柳が言った。「お母さんの持ってたハイヒールを勝手に借りて散歩したことがあって」


 それは是非見てみたかった、と思ったが黙っていた方が良さそうだ。


「視線はいつもより高くて、足下を見ればいつもより高い地面があって、大層ご機嫌だったんだ。ちょっと遠くまで歩いてたら、後ろから犬が走ってきて。多分散歩中の犬を放しちゃったんだけど、私に向かって真っ直ぐ走ってきてさ。吃驚して逃げようと思ったんだけど、履いてるもんが履いてるもんだから思うように走れない。お母さんのものを勝手に持ってきたから、転んだのも必然なんだろうね。牙剥いた犬ってもう怖くてさあ」


 アキレスは亀には追いつけないのに犬には追いつかれるんだね、と笑って話を済ませる高柳が少し痛々しくて言葉を失ってしまった


「何、黙ってんの」


「いや……、嫌なことを思い出させてしまったなって」


「そんなんじゃないよ。犬は今でも怖いけど」


 コホンと改めるように咳をついた高柳は続けた。


「そろそろ、気付いて欲しいんだけど、の話をした辺りで」


 彼女の言うことが理解できず、深山は真下を向いた。


「うおッ!?」


 事態を把握した深山は天狗のお面のように真っ赤になる。


 作業着のズボンのチャックが開いていたのだ。


「どうやら、踵の高い靴を履いていたようだね」と高柳は笑った。



お題:【踵の高い靴】をテーマにした小説を1時間で完成させる。

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