2021/01/17 込み上がってくる不安

 酷く惨めな思いをした。

 若い頃、中華料理をかっ喰らいながら紹興酒をしこたま飲んで全部吐いたことがある。自宅に着くまではかなり酔いながらも平静を保っていたが、玄関のドアを開けた途端に食道を酸性が込み上げてきて、コートも脱がずにトイレに駆け込む羽目になった。フカヒレも天津飯も春巻もすべて、紹興酒と一緒に渦を巻いて消えていき、私はさよならを告げながら空腹を感じていた。


 それからの2年間は、酒の失敗を避けようと深酒をしなくなった。自制できるようになったと言えば聞こえはいいが、そういう機会が巡ってこなくなっただけだ。

 夜や朝方の町を歩けば、そこかしこで誰かが馬鹿をやった惨状が残っており昔のことを思い出してしまう。

 また、口に入れたものを戻す行為を酷く嫌悪するようになった。

 だから、チューインガムも噛まなくなった。

 摂取したものはすべて私のものだ。私の血となり肉となるために、生まれたものや作られたものを私が選んで摂取している。これはある種の所有欲なのだろう。


 ある日、付き合っていた彼氏が借金の苦に夜逃げを働き、蛻の殻となっていたアパートを尋ねた私は丁度居合わせた人相の悪い黒服に捕まってしまった。

 逃げようにも強引に迫る黒服共に目隠しをされ、どこかに監禁されていた。大声を上げられないように轡も噛まされていた。

 すぐ近くで会話する男たちの声はあまりにも品がない。

 また、電話をする声が聞こえた。彼らの言葉は耳慣れない単語が多く、ほとんど会話の内容が分からない。辛うじて分かったのは、「捕まえた」という言葉くらいだ。

 しばらくの後、重い金属戸が開く音が聞こえ、

「カンナ!」

 と私を呼ぶ声が聞こえる。

 夜逃げを図った彼氏の声だとすぐに分かった。

 馬鹿な男だ。そのまま逃げてしまえばいいものを。

 目的の男が現れたことで、激高する黒服たち(黒いかどうかは目隠しされている私の想像でしかない)。

 私が監禁された建物は乱闘の様相を呈していたが、多勢に無勢では彼氏に勝てる見込みはない。彼が嬲られる鈍い音と衝撃が伝わってきていた。初めのうちは、犬が啼くような声を出していたが、いつしか静かになっていた。

 慎重に耳を欹てていた。

 唐突に悲鳴が上がる。それから泣き喚くような声。のたうち回る音。

 半狂乱の声色は誰の物かは分からない。

 コンクリートの床面を歩いて近付いてくるのは誰か。

 私の口に噛まされていた布の轡が外された。

「口を開けな」

 私を連れ去った黒服にいた一人の声だった。

「彼は無事なの?」と私は恐る恐る口にする。

「良いから黙って口開けてろ!」

 苛立ち恫喝する男の指示に従って口を開けるや否や、何かを押し込まれる。反射的に吐こうとした私の口を男が閉じようと顎を掴んで、片方の手が顔に被さって鼻を塞いでいた。

 呼吸ができなくなり、パニックに陥る。

「飲めよ!」強い力で口を閉じようとする男。

 訳も分からないまま藻掻く私。口に収まる何かのせいで僅かに口を開けて呼吸をすることもできない。

 ゴクン

 飲み込んだ。喉につかえそうにそうになる程の大きさだったろう。

 私が飲み込んだことを確認した男は顔から手を離した。

 そして走り去る車の音を最後に音はしなくなった。


 警察に保護された私は病院で検査を受けていた。

 私が保護された時、彼氏も私を連れ去った男たちもその場にはいなかった。

 私が警察と医師に状況を説明すると、医師はレントゲンを取ろうと提案してきた。

 撮影して診察室に戻ると、神妙な面持ちの医師と警察が話し込んでいる。

 だが、医師は正常なレントゲン写真を示して、何も異常がなかったと説明した。

 私は一体何を飲まされたのだろう。

 かすかに不安と酸が込み上がってくる気配がしたが、彼らのように知らない振りをして血肉に変えた方がいいのかもしれない。



お題:【二度とやりたくない】をテーマにした小説を1時間で完成させる。

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