2020/12/16作 郷愁の我が故郷
私と彼は、二年半の交際の果てに自殺を図った。
どうにも死ねなかったらしい私が目を覚ますと彼の姿になっていた。
虚を衝かれた私が、元の私の姿を探すと室内には見当たらない。
まるで空気中の一酸化炭素のように透明に溶けてなくなってしまったようだった。
加えて、私という存在が初めから存在しなかったの如く、伊万里という女の存在は消え去っていた。
免許証も保険証もない。
私が住んでいた部屋すら今は空き部屋になっている。
今は彼の――富田彰という名前で、彰のアパートで生活している。
初めて男の身体を手にして、最初は酷く困惑した。
付随する機能が違いすぎる。
だが、しばらく生活していると私という性の本質すら変わってしまったのか、気にもならなくなってきた。女性であった時よりも高い視点、体力の向上、月の物がないことなど当初は発見にある種の感動を覚えた程だ。
私も彰も同じ大学に通っていたが、学部が異なる。彰は工学部に所属していた。彰の体になった当初こそは講義に出たりしていたのだが、あまり関心の湧かない話が多くて、いつしか出席しなくなっていた。
彼の生家からは変わらず仕送りがあり、生活に苦労はしなかった。彼氏だった彰からも家が少しばかり裕福な話は聞いていた。でも、私と彼の家族とは何の関係もなければ、私は罪悪感を覚え、アルバイトを始めた。男性でなければできなかったような力仕事のような物を好んで選んでいた。
男性としての生活にも馴染んできたある日、ふと思い出した。
彰の田舎は日本海に面した小さな町で、高校生の彰は小一時間電車に乗って通学していたという。
私が今やこんな状態であることを鑑みても、一度彼の故郷を訪れた方がいいのではないだろうか、と思った。
彰の部屋を漁り、彼の生家の住所を調べて移動方法を検索する。都内からは数時間掛かり、新幹線の乗車料金が掛かることが分かったが、それはアルバイトを増やせばなんとでもなるだろう、と思った。
旅行当日、私を乗せた新幹線が早朝の東京を発車した。景色は山とトンネルばかりで退屈なものだった。
「何湿気た面してるんだよぅ」
車窓に写った彰の顔を見て私は独りごちた。
終着駅に着いたのは、お昼前。新幹線のホームで掘っ立て小屋のような立ち食い蕎麦屋を見つけた。
「帰省するときはいつも、新幹線のホームで蕎麦を食べていく」
「受験の帰りにあそこで食べた掛け蕎麦が忘れられない」
「なぜかは分からないけど、あの駅に立ち寄るとどうしてもあの蕎麦を食べたくなってしまう」
彼の言葉を思い出しながら、いつの間にか暖簾を潜った。
食券を事前に購入する制度で、メニューがずらずらと並んでいる。少し豪勢に海老天の蕎麦を買った。
程なくカウンターのおばちゃんが出してきた丼。立ち上る湯気、ちびてはいるが二尾乗った海老天、太めの麺。美味しいと絶賛する程ではない。値段相応の味だった。
電車に乗り換えて数十分、少し大きな駅に寄った。待ち時間ができたしまったからだ。やりたいこともないので、駅構内のベンチに座って待つことにした。
「あれ、彰?」
話しかけてくる男がいた。大柄な男で頭にあまり毛がない。彰とは同年代くらいに見えた。
「やっぱり、彰じゃないか!」彼は大きな声を出して更に近付いてくる。
これは弱った。彼は彰を知っているのだろうが、私は眼の前の彼を知らない。
「何だよ忘れたのか? 俺だよ。昔剣道部の先輩だったナ・ガ・ム・ラ」
「……あぁ、お久し振りです、先輩」
「元気ねえなあ、どうしたんだ。彼女にでも振られたのか?」
ドキッとした。彼は伊万里という女のことも知っているのだろうか。
「いえ、そんなことは……」はぐらかす私。
「お、そうだ」ナガムラはポケットからスマートフォンを出した。
ディスプレイを操作して私に見せた。
「お前が、剣道部の時に好きだった
ナガムラの笑い顔を余所にスマートフォンのディスプレイを見ると、そこにはお腹を大きくした妙齢の女性が写っている。
(彰は、この人が好きだったんだ……)
「そうなんですかぁ。それはお目出度いですね」ともかく取り繕う。
「お前、変わったなあ。なんだか彰じゃないみたいだ」
ナガムラ先輩ごめんなさい、実際に私は彰じゃないんです。
突如として来襲してきたナガムラ先輩を退けた私は乗り換えた電車の中だった。窓の僅かなスペースに肘を突いて景色を眺めている。
通路を挟んだ反対側の席にはビールを飲んだ中年オヤジが大股を広げて寝ている。景色に感傷に浸ろうとしても風情がない。
十分程度走ると、海が見えた。線路は海沿いに伸びていた。どこまでも海を追走できる。空が曇っており、海もそんな灰色を写していた。
途中降り始めた雨が車窓については伸びていく。
(彼は、彰は、いつもこんな景色を見ていた――)
彰がこの景色を見て何を考えていたかは彼ならぬ私では知る由もないが、少しは彼を理解できたような気になってしまう。
彼と共に過ごした時間が少し恋しくなってきた。
「彰…………、彰ァ……」
私は静かに泣いた。
駅のホームに出ると、磯臭さが鼻をついた。海のすぐ近くの高台に立った駅。潮風をモロに受けて咳き込む。
ここが彼が育った町なのだ。
駅を出ると、近付いてくる女性がいた。
「彰!」
それは彼の母親だった。彼の部屋に残っていたアルバムでそれは分かっていた。
「どうして、ここに……?」私は驚いた。
少なくとも私は彼の両親には連絡をしていないからだ。
「剣道部の、永村先輩があんたが帰ってきたことを教えてくれたのよ」
なるほど。ナガムラ先輩はそういう人物だったのか。
彰の母親が運転する車に乗り込んだ。
「久し振りね、あんた」
「どのくらいだったろう」
「さてね」
「……父さんは、元気?」
「父さんだなんて」彼女は笑う。「だいぶ品が付いてきたのかしら。ピンピンしてるわ。あんたがいなくて寂しがってるようだけどね」
「そう」
その後、私は彰の生家に着き、彼の父親とも会った。少し様変わりしたように見えた息子の姿に、両親の落ち着かない気持ちも見てとれたが、怪しまれるような素振りはしてない。
体がアイデンティティを取り戻したのか彼になり切って生きていく元気も出てきた。
その夜、私は彼が好きだったという出葉先輩という女性を想った。
男の体での生活もかなり慣れてきた。
今度、私という女の故郷にも帰ってみよう、と思った。
文字数:2594
時間:1時間(当社比)
お題:【海辺】をテーマにした小説を1時間で完成させる。
感想:こういうテーマは、始まりと終わりをイメージするのが難しかったです。アルコールとお風呂に助けられました。
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