小糠雨の季節に


 そこは多くの小学生たちの通学路になっていましたから、子どもの姿は見慣れたものでした。ながく、その場所にいるわたしほど、たくさんの子どもの顔を見てきた者はいないのではないでしょうか。わたしには子どもの違いなんて分かりません。どの顔も同じに見えてしまいます。


 その代わり、わたしは草木の顔ひとつひとつ、その違いを知っています。たとえばあなたはクローバーの違いなんて分かりませんよね。分かるとしたら三つ葉か四つ葉のように葉の数の違いくらいでしょうか。わたしにとって、わたしの前を通り過ぎていく子どもたちは、あなたたちにとってのクローバーのようなものです。


 泣いても、怒っても、わたしが感情を動かされることはありません。


 だからわたしがあなたを気に留めたのは、わたし自身にとっても、あまりに不思議な事態でした。


 あなたは、どうもわたしにとっては特別な存在みたいです。何が特別か、というと、わたしにもよく分かりません。あなたは、わたしにとっての四つ葉のクローバーみたいなものなのかもしれません。


 それは、小糠雨、と呼べばいいのでしょうか。

 その日は細かい雨が絶え間なく降り続けていました。


 春のある一日のことです。


 灰色の雲が浮かぶ、そんなどんよりとした空の下を、何組もの親子が歩いていて、わたしの前を通り過ぎていきました。その時期、わたしの前で足を止めるひともめずらしくありませんでしたが、その日は雨、ということもあり、わたしに注目する者はほとんどいませんでした。


「あ、桜が」


 と言ったのは、ひとつの傘に寄り添って、手をつなぎ歩く母娘の幼い娘のほうでした。悲しそうなつぶやきでした。雨を受けて、揺れ落ちる花びらに同情しているのでしょうか。桜の花の散りゆく様子は、その短い命から、儚いものとされているそうです。わたしの前を通った誰かがむかし、そんなことを言っていました。


 わたしとしては不本意です。


 だってわたしはあなたたちよりもずっとながくそこにあり、春が来るたびに、ここに花を咲かせているのですから。わたしからすれば、あなたたちのほうが、ずっと儚い存在です。


 地面に落ちた花びらを一枚拾って、人差し指の腹に貼り付けたその娘の表情はひどく寂しそうでした。


 不思議な話です。


 わたしはあなたたちから、桜の木、と呼ばれています。


 わたしは、あなたたちひとに何か特別に想いを抱いたりはしません。なのに、なぜあなたたちはそうやってわたしに感情を寄せてみたりするのでしょうか。


 あなたを最初に見たのは、その母娘の姿が見えなくなったくらいのことです。最初に見た、というよりは、最初に他のひととの違いを認識した瞬間と言ったほうが正しいのかもしれませんが。


 あなたは、わたしの目の前へと駆け寄ってきました。


 あなたは傘もささず、雨合羽も着ていませんでした。まるでわたしのように全身を濡らして、だけどあなたたちには体温があるので、こういう雨は天敵でしょう。わたしを傘代わりにしたかったのですね。わたしにぴったりと身体を付けても、雨露をしのぐ傘の代わりとしては不十分です。小糠雨は変わらず、あなたの身体を濡らし続けていきましたね。


 あなたは泣いていました。


 あなたたちはよく泣きます。蛙の鳴き声もうるさいですが、あなたたちの泣く時の声もわたしからすると、とても大きい。めずらしくもない日常の風景ですが、あなたは声を我慢するように泣いていたので、わたしの印象に残ったのかもしれません。


 どうしてもそのなみだを止めてみたい気持ちになったのです。


 わたしがあなたたちにできるようなこと、って何があるでしょうか。わたしはそこからひとつも動けない、ただの木ですから。あなたのためにできる何かが、何も浮かびません。困りましたね。


 そもそもなんでわたしはあなたのなみだを止めたいのでしょうか。


 とりあえず、わたしは枝先に念じてみました。それ以外にすることが思い付かなかったのです。


 すると一枚、わたしの枝から離れた花びらが、あなたの頭のうえに乗りました。


 わたしの念が通じたのか、雨の重さに耐えられなくなった偶然か、なんて、わたしには分かりません。


 そんなのは、どうでもいいことです。


 大切なのは、


 一枚の花びらが意識を逸らして、あなたの悲しみのなみだを奪ったことです。


 それを手に取って、あなたは見つめていました。


 あぁ声が聞こえますね。

 あのひとは、あなたのお父さんですね。


 ほら、お父さんが来ましたよ。


「ずぶ濡れじゃないか……」


 こんな頼りない傘ですみませんね。ちゃんとしたその傘に入れてあげてください。


「ごめんなさい……」

「俺が悪かった。気が立ってたんだ。いやそんなの言い訳だな。まずちゃんと言葉にするべきだった」


 ふたりの間に何があったのかなんて、私には分かりません。そもそも興味もないので、まともに聞いてもいませんでした。「お母さんが」とか「いなくなった」とか、そういう声は聞こえてきましたが、どうでもいいことです。


 わたしは、桜の木でしかないのですから。


「この木が見守ってくれたのかもしれないな」


 なんて、あなたのお父さんの声が聞こえてきましたが、いい迷惑です。わたしはひとを見守ったことなんて一度もありません。誰かに何かをしようと思うなんて、これが初めてのことで、わたし自身、戸惑ってしまっているのですから。


 これが初めて見たあなたへの印象でした。


 それからながく、わたしはあなたを見てきました。いまだにわたしがあなたを気に留める理由がなんなのか、まったく分かりません。特別な理由なんてわたしが教えて欲しいくらいです。だけど誰も教えてくれる者もいないので、考えるだけ無駄なんでしょうね。


 細かい雨が降っていますね。今日が小糠雨になってしまって、あなたもすこし残念かもしれません。傘はちゃんと持っていますね。あなたはよく雨の日も傘をさしませんが、風邪になったりもしますし、天敵なんでしょう。


 それにその手に持っている大切な黒い筒は濡らせないですもんね。


 でも、この雨はもうすぐ晴れそうな気がしますよ。


 ほら、弱まってきました。


 もう傘は畳んでしまって大丈夫です。


 もうあなたが登校するために、ここを通ることはないのですね。


 あんなに幼かったあなたが、もう……。


 泣き方は何ひとつ変わりませんね。そんな我慢する必要なんてないと思いますよ。止めなくていいなみだもひとにはあるのかもしれません。ひとではないわたしには分かりませんが。


 まぁ、でも、せっかくなので。


 花びらが落ちるように念じてみましょうか。




 お祝いの代わりに。 

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