第290話 10月8日(なんだ、そんな理由か……)/【せめて一歩踏み出すために】

 文化祭前日、今日は普段よりも早く身支度を整える。

 早朝の空気が肌寒く、上着を着るかで迷いはしたけれど――、


「智奈美! 今日は早く出るんでしょ!」


 ――母の声が耳に入った途端、上着はハンガーラックへ戻っていた。


 その後、滑るように階段を降りてダイニングへ。

 開きっぱなしのドアを通るなり、天井から糸で吊るされたように姿勢正しく座るかな恵おばあちゃんと目が合う。


「智奈美さん、おはようございます」

「ん、おはようございます……」


 慌てて入って来たことを注意されるかと構えたが……祖母は挨拶を済ませるなり静かに食事へ戻っていった。

 直後、珍しい反応に自然と首が傾く。

 だが――、


「はい! これ智奈美の分ねっ!」


 ――母からせかせかとトーストを手渡され、急いでいたんだと思い出した。


 薄く塗られたバターの風味もろくに味わえぬまま、齧りついた端から喉へ珈琲を流し込む。


「ごちそうさま」


 そして、片道分の燃料は胃に入ったとイスから立ち上がった時――、


「智奈美さん」


 ――長い年月を経てなお美しさが損なわれていない、かな恵おばあちゃんの凜とした声に呼び止められた。


「明日、私も文化祭にお邪魔しますから」

「……えっ?」


 一瞬、時計の針がピタリと数字盤に縫い付けられる。

 言葉の意図を汲み取れずにいると、祖母は小さく微笑んで続けた。


「当初の目的ではなかったけれど、せっかくここまで来たんですもの。学校での孫の様子は見ておきたいわ。お友達の一人や二人は紹介して頂戴ね?」


 ずっと、かな恵おばあちゃんがうちに泊まっていた理由がわからなかったけれど――急に、すとんと落ちて来る。

 それから私は小さく頷き「いってきます」と言い残して家を出た。







 文化祭前日、茉莉は誰よりも早く登校していた。

 しかし、文化祭の準備をするためにそうしたのではない。

 彼女は校舎口に一人で立ち……じっと、夕陽が来るのを待っていたのだ。


「前日だっていうのに……案外、ゆっくりな登校じゃん。文化祭委員」


 待ち始めてから十数分経って現れた夕陽に、茉莉は声を掛ける。

 すると、夕陽は顔をしかめながら「あんたは随分早いじゃない。学校に泊まりでもした訳?」と、棘のある物言いで返した。

 だが――、


「いっそ……そうしても良かったんだけどね」


 ――茉莉の言葉尻が柔らかくなった途端、夕陽の態度も軟化する。


「……夕陽、あたしに相談したいこととかある?」


 この率直な質問に、夕陽は長い時間をかけた後……黙ってこくりと頷いた。

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