第288話 10月6日(グラタンとか、ビーフシチューが食べたい……)

 ベッドで横になれば、きっと疲れは取れるだろう。

 けれど、彼の家でソファに寝そべっている方が気分は楽だった。


「寝るだけなら家で寝たらどうだ?」


 困り顔で提案されるが、寝たくてこうしている訳ではない。


「別に、寝たい訳ではないんですが」


 床を見つめながら返事をするなり、彼の口から「ふぅ……」と細い溜息が漏れた。


「何か、甘いものでも食べるか?」


 訊ねられた途端、視線をあげる。

 しかし、今の体勢では上手く顔が見えなかった。


「……ケーキとかですか?」

「一口サイズのマドレーヌ」


 直後、いつか食べたしっとりと甘い生地の触感を思い出す。

 こくんと喉を鳴らし――、


「飲み物は紅茶がいいです」


 ――なんてリクエストを出した。



 貧乏舌なのかもしれないけれど、紅茶は渋い方が好きだった。

 甘いお菓子を食べた後に渋い紅茶を飲む。

 苦いと錯覚しそうな渋さが舌に残った甘さをすっと上書きしていく瞬間が気に入っていた。


「そんな理由なら珈琲でも良いんじゃないか?」


 カップを差し出す彼にすぐさま「良くない」と返す。


「苦い緑茶と珈琲。和菓子に合うのはどちらですかと訊けば、貴方だって緑茶を選ぶでしょ?」


 疲労が抜け切らない頭で考えた例え話に、彼は「ん?」と首を傾げた。


「つまり、味じゃなくて食べ物のイメージに合う飲み物を選ぶことが重要ってことかな?」


 言葉尻に疑問符が見えたけど……おおよそ言いたいことは伝わったようだ。


「そんな感じです」


 カップを受け皿ソーサーの上に座らせ、再びマドレーヌへ手を伸ばす。

 でも、一口サイズというだけあって、出された量を食べ切っても満足感は得られなかった。


「……物足りない」


 両手で持ったカップに唇で触れつつ、ぽつりと不満がこぼれる。

 だが、追加のマドレーヌが皿に盛られることはなかった。


「今満足したら夕飯が入らなくなるぞ? かな恵おばあちゃん、来てるんだろう?」

「それは……そうですけど」


 突然遊びに来て『泊まる』と言い出して以来、夕飯は毎日かな恵おばあちゃんが用意している。

 もしも『他所でお菓子を食べて来たから夕飯が入らない』なんて言ったら、くどくどとお説教をされることは請け合いだ。


「……わかりました。マドレーヌは諦めます」


 渋々頷いた後、ずずっとお下品に音を立てて紅茶を飲む。

 「行儀が悪いぞ」なんてたしなめる彼に「かな恵おばあちゃんみたいなこと言わないでください」と言ってそっぽを向いた。


さて、今夜の夕飯はなんだろう?

そろそろ洋食が恋しいんだけどな……。

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