第281話 9月29日(うん。決めた……)

 母からビールをグラスに注がれる中――


「えっ! 来年の春にっ!?」


 ――彩弓さんは既に赤くなっていた顔を歪め、今にも泣きだしてしまいそうだった。


「そうなの。彩弓ちゃんにも話しておこうと思って」


 対照的に、母は笑いながらすっかり軽くなった缶を口元へ近づけると、


「そんなっ――そんなのって……」

「寂しい?」

「はいっ、寂しくなりますぅ」

「わかる! お母さんも寂しい!」


 二人は同時に缶とグラスを呷り「ぷはっ」と息を吐いた。


「……はぁ」


 寂しいなんて言いつつ、酔っ払いたちは楽し気だ。

 将来、お酒を飲むことになってもこうはなるまい。

 静かにボトルコーヒーをコップへ注ぎ、そんなことを考えていると――、


「ってことは……ちーちゃんも引っ越すのっ!?」


 ――急に彩弓さんが腰へ抱き着いて来た。


「いえ、それは……」


 一人暮らしをするつもりでいると言いかけて、きゅっと口を閉じる。


「ちーちゃん?」

「あの、そのことで少し……二人の意見が聞いてみたいんですけど」

「ん?」

「例えば、地元こっちに残って誰かとルームシェア……みたいなことをするってのはどう思いますか?」


 茉莉は彼と一緒に住む――同棲することを示唆したが……そんなこと、私から母と彩弓さんに言える筈がない。

 だから別の言葉を選んだのだが……結局、母は難しい顔をした。


「一人暮らしじゃなくて? えっと……お友達とってこと?」

「……どう思う?」

「そうねぇ。何事も経験だとは思うけれど」


 母から玉虫色の答えが返って来た途端、


「私は反対」


 彩弓さんから反対意見が飛び出す。

 最初から賛成してほしかった訳ではなかった。

 ただ、どこかで彩弓さんなら『それならうちにおいでよ!』と言ってくれそうな気がしていたから少し驚いてしまう。


「……どうしてですか?」

「例えば、ルームシェアの相手が突然引っ越すことになったり、相手と仲違いしてどちらかが家を出るってなった時に困るからだよ。折半してた家賃を一人で払うことになったり、最悪住む場所がなくなるかもしれない。私は、ちーちゃんがこっちに残ってくれるなら嬉しいし、何日だってうちに泊りで遊びに来てくれてもいいけど……でも、親元を離れるなら自立した生活はしなきゃだめ。ご両親に心配かけたい訳じゃないでしょ?」


 直後、彩弓さんの言った『自立した生活』という言葉が、すとんと腑に落ちてきた。

 だって、学生の内から彼の家になんてカッコ悪い未来は――私だって望んでいなかったのだ。

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