第269話 9月17日(……これは、いいってことだよね)

「めぇぇえんっ!」


 打突部位へ竹刀を打ち込んだ直後、彼の後ろへと抜けていく。

 十分な間合いが空いてから素早く向き直り、再び竹刀を構えると――、


「今日は、ここまでにするか」


 ――疲労の滲む声色を聞かされた。


「……あと少し、ダメですか?」


 ここを出ればまた窮屈な練習しかできなくなる。

 本音を言えば、まだ思い切り体を動かしていたかった。

 だが、


「俺も、そうさせてやりたいんだが……」


 彼は頷くことなく、体育館の壁掛け時計を指し示す。


(……ああ、もう時間切れか)


 ここ市民体育館は公共の場だ。

 なら当然、利用時間には限りがある。


「また明日だな」

「…………はい」


 冷め切らない熱を帯びたまま、静かに彼へ頷いた。



 市民体育館の外へ出てみると、辺り一面が真っ暗になっていた。

 肌を撫でる風は寒いくらいで、吐く息に色が差すのではと考えてしまう。


 けれど、初秋の肌寒さについて感じ入られた時間は……そう長くなかった。


「……ちな?」


 スマホを見つめて固まっていると彼に心配そうな声で訊ねられる。


「もしかして、忘れ物でもした?」

「まあ……と言えなくもないですね」


 スマホの画面を見せると、彼は早々に忘れ物が何か理解してくれたようだった。


「確かに忘れものだ」


 小さな液晶に表示されているのは数字の羅列――簡潔に言うと、祖父の電話番号だ。


「まだ、じいちゃんに話してなかったんだな」


 こくりと頷くなり、彼は歯を見せて笑った。


「今から掛けるんだろう? 離れてようか?」

「……いえ、そこで突っ立っといてください」


 緊張したり、怖がっている訳ではない。

 ただ、一人で祖父に電話ができるかと問われれば……それは否だった。


「…………っ」


 指先で通話ボタンに触れると、コール音が鳴り始める。

 耳元でメロディが溶けていく間、気付かぬうちに息を止めていた。

 そして――、


『はい。向坂ですが』


 ――祖父の声が聞こえた途端、すぅっと呼吸を再開する。


「おじいちゃん、私」

『智奈美か。どうした、突然』


「うん……お願いがあって」

『お願い? なんだ、言ってみなさい』


 言葉を促された瞬間、用意していた筈の台詞が引っ込んでしまった。

 でも、彼の心配そうな眼差しが――そうそう子ども扱いされてたまるかと、私に発破をかける。


「今週の日曜……おじいちゃんの所に行ってもいい?」

『構わないが……来てどうする?』

「……剣道の試合を、させてほしいの」

『…………』


 短い沈黙が流れた後、祖父は『気を付けて来なさい』とだけ告げた。

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