第264話 9月12日(あなただけは、知っていてください……)

「確かに言いましたけど……」


 本当に菓子クッキーと珈琲を用意してくれるとは思わなかった。

 

「ゆっくり珈琲を飲める空間を用意しただけだろ? それに、俺がこれくらいしない甘いお菓子くらいださないと、ちなは自分に厳し過ぎる」

「…………」


 一枚だけクッキーをつまんで口へ運ぶ。

 彼が淹れた珈琲を一緒に飲むと、思わず溜息が漏れた。


「……おいしい」


 それから一呼吸挿んで、口を開く。


「……秋と、試合をすることにしました」


 一瞬、彼の喜ぶ姿が目に浮かんだが……真っ直ぐ私を見つめる瞳に喜びはなかった。


「……何があったか話してほしい」

「心変わりの理由がそんなに知りたいですか?」

「だってそれは……きっと、俺だけが聴いてあげられるものだろう?」


 それは、彼の自惚うぬぼれだ。

 でも、同じことを考えていた。

 だって、他の誰に話しても『良かったじゃない』と祝福される気がして……だけど、と思ったんだ。


「……秋が、泣きながら言うんです。部長から一本取りましたって。でも、部長あの人は弱い子が戦って運良く一本取れるような甘い相手ではありません。だから――どれだけ努力をしたのだろうかと考えました。そして、あの子にどれだけの努力を私がいたのだろうかとも」


 秋は部活だけでなく個人でも道場へ通い教えを乞うていた。 


「私が、責任を感じさせてしまった……」


 私が剣道をせず一年間をドブに捨てたのだとしたら……秋はこの一年を剣道にのだ。

 本当なら、あの子はそこまでしなかっただろう。

 ただ、憧れて始めただけの剣道を……一度はやめたいとさえ思った剣道を、私が続けるように強いてしまった。


「ならもう、逃げられないじゃないですか。あの子に剣道を続けさせてしまった私が……戦ってと言われて断って良い訳がないっ」


 裂けるような声を、彼は黙って聴いてくれる。

 その瞳を静かに見つめた。

 だって――、


「でも私……本当にもう、剣道をするつもりなんてなかったんですっ」


 ――本当に聴いてほしかったのは、だ。


「一度決めたことを簡単に曲げるつもりなんてなかった! まして『また剣道をやるんだ』とか『良かったね』なんて――誰にも思われたくないっ!」


 せめて、彼にだけは知っていて欲しい。

 だから彼が、


「わかるよ」


 と返してくれた時――、


「大切な人に泣かれたんだ。それは簡単なことなんかじゃない。自分の言葉を曲げるよりも、そうしなかった方が後悔すると思ったんだよな。大丈夫……ちゃんと、わかるから」


 ――心底ほっとしてしまった。

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