第226話 8月5日(……それって、誰なんですか)

 目を覚ました瞬間から気分がずんと落ち込んでいた。

 顔を洗うのも、歯を磨くのも億劫おっくうで……嫌々洗面所に立った結果、歯磨き粉を洗顔フォームと間違えてしまう。

 すると、母におでこへ歯磨き粉を塗った瞬間を見られていて「何やってるのよ」と笑われてしまった。

 でも、


「ちなみ……大丈夫? 熱中症じゃないでしょうね?」


 食欲がないからと朝食を残した途端、母はひどく心配そうな顔になる。

 しかし、まさか落ち込んでいる理由を話せる訳がない。

 だから「大丈夫……何でもないから」と、心配する母へ言って聞かせた後で、たっぷり水分補給をしてみせた。

 それから「そう?」と母へ気になって訊ねてみる。


「ねぇ、私……そんなに大丈夫じゃなさそう?」


 直後、母はテーブルへ頬杖を付き、呆れたように微笑むなり――、


ちなみちーちゃんは表情薄いからわかりにくいけど……今、その顔を見て『大丈夫?』って思わず訊いちゃう人に、母さんは三人心当たりがあるわ」


 ――娘の表情筋が貧しいことへ文句をつけつつ、訊いてもいないことまで答えてくれた。


 そして……。



「大丈夫か?」


 ……母が言った三人の内の一人は、だったらしい。


「……大丈夫じゃない。暑いのでさっさと部屋に入れてくれませんか?」




 冷房の効いた部屋へ通された後、アイスコーヒーを差し出す彼に「どうしたんだ?」と訊ねられる。

 だが、母にすら言えなかったことを、彼へ聞かせられる訳がない。

 だけど……独り、胸の奥に溜めこんでおくのもそろそろ限界が来ていたから――、


「部活をしていた頃の私を、すごく好きでいてくれた友達がいたんですけど……その子に『また剣道をしてほしい』みたいなことを言われてしまって」


 ――つい、いくつかの事実にフタをしながら話してしまう。


「……喧嘩した訳じゃないのに、気まずくて。好きだと言ってもらえたのに上手く応えられなかった自分が、なんだかとても嫌だったんです」


 この時、私は彼にどんな言葉を掛けてほしかったんだろう?

 自分でもわからないまま、彼と目が合う。

 そうしたら、優しいけど寂しげな瞳が私を見つめていて……思わず――、 


「あなたも、私にまた部活を……剣道をしてほしいですか?」


 ――これまで訊いて来なかったことを訊ねてしまった。

 返答を待つ間、色んな言葉を想像する。

 けど、


「……たぶん、それをちなに言っていいのはたった一人だけで、それは俺じゃないんだよ」


 彼が選んだ言葉は、想像していたどれとも違っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る