【交差し合うX感情】

第145話 5月16日(うん……良かったよ)

 昨日から彼とランニングを始めた。

 毎日21時に家の前で集合し、3キロ程走る。

 走る時間が夜中じゃなくなったのは、私を夜遅くに連れ回せないという彼の配慮子ども扱いからだったが……まあ、許す。

 夕飯を食べてから時間は空くし、遅すぎて翌朝がつらいということもない。

 21時と言うのは良い時間だ。


 ただ、


「ちな、ここ教えて。訳し方がいまいちわかんなくて」


 明日から中間試験なんて時期に始めたのはまずかったかもしれないと、少し後悔していた。



 茉莉を部屋に招いて行う勉強会は静かだ。

 言葉は発さず、ただノートにペンを走らせるだけだったとしても……四人でしていた時とは比べられない。

 だが、決して寂しいと感じることはなかった。

 それに、一度休憩へ入ってしまえば、静けさなんて水を浸したティッシュみたく脆いものだ。


「嘘っ――それでランニング始めちゃったの? 昨日からっ?」


 和やかに紅茶とケーキをいただいていたのも束の間――うっかりランニングを始めたと話した途端、茉莉の目がお説教モードに移行した。


「待って。私も始める時期が悪かったな、とは思ってる。けど、体を動かせる何かがしたかったって気持ちは前からあったし、自分が何かを頑張ってないと人を応援できないというか……これも、楠と向き合うために必要な――」


 だんだん言い訳にしか聞こえなくなっていく私の言い分を、


「はあぁ……」


 茉莉は深い溜息で遮った。


「いや、あたしもやっちゃうよ? 急に部屋の掃除始めたり、なぜか落ちてた輪ゴムで20分くらい遊んじゃったりとか」

「いや、輪ゴムはないでしょ」


 口からぽろりと反撃がこぼれた瞬間、針のように鋭い視線で唇を縫われてしまう。


「……変だなぁ。親友としてはランニングを始めたってこと『いいじゃん。がんばりなよ』って言ってあげたいんだけど――勉強から逃げた末の行動としか思えないんだよね」


 返す言葉もない。

 学校の部活動だって試験前は休みになる。

 なのに、試験期間中にランニングを始めたと言えば呆れられるのは当然だ。


 始めたばかりで格好が付かないけど、後で彼に『試験期間中だからしばらくは走れない』と連絡しよう。


 そう、胸の内で反省していた時――、


「でも、良かったね」


 ――ふいに優しくなった親友の声が、耳元を撫でていった。


「なんていうか……ようやく一歩前進って感じじゃん」


 剣道から離れて、約一年。


「……そう、だね」

「うん。そうだよ」


 ようやく私は、あの夏から歩き出したのかもしれない。

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