第81話 3月13日(……味見のつもりだったのに)

 玄関戸が開くなり、エプロン姿の彼に呆れ顔で迎えられた。


「……明日、ホワイトデーだってわかってるよな?」

「……前に、いつでも来て良いと言いましたよね?」


 額に手を当てる彼は頭痛がするらしい。


「前日に買うだけなら暇だと思ったんですけど。まさか?」

「……まあ、な。せっかくだ。珈琲飲むついでに味見でもするか?」

「……そうですね。本でも読みながら気長に待ってます」

「そっか。けど、そこまで待つ必要はないかな」


 思わず「は?」と疑問がこぼれる。

 しかし、言葉の意味は家に入るとすぐわかった。


(……甘い香り――キッチンの方からだ)



 私はリビングのソファに腰かけながら本を開いた。

 すぐ栞を挿むことになるだろうけど……珈琲が来るまでの手慰みだ。


 そして、いくつかページをめくった頃――コンコンとドアが二回ノックされる。


「…………」


 顔をあげてみれば、ケーキセットと一緒に彼が現れた。


「できたぞ」


 無言で頷き、本に栞を挿む。

 その間に彼は珈琲とチョコレートケーキをテーブルへ並べた。

 どこか楽し気な横顔を覗き、つい「……ふぅん」と鼻が鳴る。

 すると、彼は「どうした?」なんて訊ねてきた。


「いえ……本当に手作りしたんだなと思って」


 (……しかも案外乗り気だし)


 じっとエプロン姿の彼を見つめ――、


 (変な柄……全然似合ってない)


 ――声になりそうだった言葉を珈琲で流し込む。

 彼はエプロンの紐を解きつつ、丁寧に畳みながら「失敗したら店で買うつもりだったけどな」と答え、


「……何ですか?」


 じっとこちらを見つめてくる。


「いや、感想を聞きたくて。まずかったらすぐ代わりのケーキを買って来るよ」

「そこまでしなくてもいいです。まずくても食べますよ。もったいないですし」


 でも、心配そうな彼の顔色とは違い、ケーキの焼き色は上々だ。

 甘いチョコレートを混ぜ込んだ生地の香りも悪くない。

 けれど――そんな期待値の高さは表情に出さず、一口目を口にした。


(……おいしい)


 しっとりした生地の口当たりが良い。

 甘過ぎないのも私好みだった。


 だから――、


「……」


 ――無言で、二口目を口にいれる。

 次の瞬間、しまったと思った。


「…………」


 フォークをんだまま、ゆっくりと目だけが動く……。

 直後、視界の端に満足気な彼を見つけて、眉間へしわが寄った。


「……何」

「いや、ケーキは買いに行かなくて済みそ――痛っ」


 彼を蹴ると静かな空間が戻ってくる。

 やはり、珈琲ブレイクは静かな空間で味わってこそだ。

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