第58話 2月18日(やっぱり、あげなくて良かった……)

「……今年は、もらえたんですか?」


 彼の家へ上がり込むなり、背中に向けて訊ねた。

 肩が微かに震えたのを見て「……バレンタインチョコ」と付け足す。

 振り返った彼の表情は泥団子でも投げつけられた後みたいで……私は悪戯心が満たされていくのを感じた。


「ひとつも貰えなかったよ」


 期待通りの返答に、つい口元が緩む。


「そうですか。恋人がいるのに、残念でしたね」


 淡々と言ったつもりが、どこかからかっているような声色になってしまった。

 彼の表情が苦笑いに変わっていき、眉間へ浅いしわが刻まれる。

 その後――、


「……ちな、ひょっとして知ってたな?」

「……何を?」

「俺が、彩弓さんからチョコをもらえないことを」


 ――薄っすらと笑う私を見て確信したのか、彼はささやかな反攻に出た。

 直後、彼の言い分について考え、適当な見当をつける。

 『知っててチョコを渡さなかったのなら、いじるのはずるいぞ』といった所だろうか?


「……知ってたけど、だから何? 今年も『』なんて安心してたんですか?」


 最後に、わざと「かっこわる」と付け加えた。

 すると、ふいに彼が明後日の方向へと目線を逸らす。

 ぎゅっと結ばれた唇はなんともバツが悪そうで、今にも文句をこぼしそうだった。

 しかし、

 

「……いや、その通りか」


 彼の口を衝いて出たのは文句なんかじゃなくて……、


「そうだよな……もらえるのが当たり前じゃ、ないもんな」


 苦い表情で、部屋の壁を見つめながら彼がこぼした独り言みたいな言葉に――私は驚く。

 そう、驚いて目を見開き……――気付いた時には、もう笑っていた。


「ふふっ――」

「……ちな?」


 だって、おもしろくて仕方がない。

 本当なら、私は彼にチョコをあげるつもりでいた。

 ただ、いくつかの偶然が重なって、たまたまあげられなくなっただけだ。

 なのに、彼が真面目な顔で、ひとり事態を深刻そうに受け止めているから――おかしくって耐えられなかった。


「……そんなにおかしなこと言ったか?」


 彼に訊ねられ、笑いを噛み殺しながら答える。


「いえ、別に?」


 年の離れた妹を見るような目は――今、なぜ私が笑っているのか、まるでわかっていない。


(この顔……去年、クリスマスプレゼントをもらった私にも見せてやりたかったな)


「ただ私も、もう理由もなくチョコをあげるような歳じゃないってことです」


 そして、私は一つ確信する。

 私達にとって、チョコをあげなかった今年のバレンタインが――今までで一番特別だった。

 

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