25‐3.合法的です?



「シロちゃんは繊細な子だからね。急にぐいぐいいったり、無理に顔を踏ませようとしたりするなって。健全な精神に支障をきたす可能性もあるから止めろって、それはもう冷たい眼差しで何度も言われてね? 可愛いリッキー君にそこまで求められたら、私も守らないわけにはいかないなって」



 リ、リッキーさん……っ!

 わたくしの胸に、感動が迸ります。まさかリッキーさんが、わたくしの為に動いて下さっていただなんて。これ程ありがたいことはございません。



「きっと、あれね。リッキー君、私がシロちゃんを可愛がるから、嫉妬しているのね」



 きゃっ、とオリーヴさんは、満更でもないお顔で、ふっくらとした頬を押さえました。嬉しそうに身を捩っていますが、恐らく勘違いだと思いますよ。リッキーさんは嫉妬ではなく、本気で止めろと言ったのではないでしょうか。



『ま、まぁ、ですが、この際どちらでも構いません。要は、わたくしを解放して頂ければ良いのです。最悪誤解が解けなくとも、それはそれで良しとしましょう』



 と、自分に言い聞かせつつ、期待の眼差しでオリーヴさんを窺います。



 オリーヴさんは、酷く悩ましげに唸っていました。非常に残念、と言わんばかりですが、しかし、リッキーさんとのお約束を反故にするつもりはないようです。渋々感を出しながら、わたくしを地面へと下ろしてくれました。



 あぁ、肉球に当たる土と草の感触が、なんと心地良いのでしょう。地べたを歩けて、これ程嬉しいと思ったことはございません。

 わたくしは、その場で二度三度と足踏みすると、


『では、わたくしはこれで失礼しますね』


 と、不自然にならない程度の速さで、この場を立ち去るべく、足を動かしました。



 しかし。




「それでね、シロちゃん」



 わたくしを呼び止める声が、つと掛けられます。




「私、考えたの」



 オリーヴさんは、ふっくらとした頬を緩めて、微笑みました。





「どうしたら、リッキー君の言いつけを守りつつ、シロちゃんに踏んで貰えるかなって」





 ……え? ふ、踏んで貰える、とは……?

 話の流れに付いていけず、思わず呆然としてしまいます。



 そんなわたくしを余所に、オリーヴさんは、一層口角を持ち上げると。




「そこで私、閃きました」





 突然、この場に倒れ込みました。



 仰向けになるや、こちらを見やります。





「こうして地面と同化していれば、シロちゃんが私の上を歩いてくれるんじゃないかなって。つまり、合法的に踏んで貰えると、そういうわけね」





 いや、どういうわけなのですか。全く分かりませんよ、オリーヴさん。





 けれどオリーヴさんは、わたくしの戸惑いなど何のその、とばかりに寝転がったままです。

 若干頬を赤らめながら、こちらをじーっと見つめています。




 …………取り敢えず、気付かなかったことにしましょう。

 そう結論付けると、わたくしはオリーヴさんからお顔を背けつつ、横たわる体の脇を、そーっと通り過ぎようとしました。



 しかし、後もう少しという所で、わたくしの進行方向に、オリーヴさんのお顔が入り込んできます。



 物凄く、目が合っております。




『…………………………あ、ちょ、蝶々さんですぅ』



 丁度近くを通った蝶々さんに目を奪われたふりをして、さり気なく視線を逸らします。

 その流れで踵を返し、蝶々さんを追い掛けるていで、オリーヴさんのお顔から離れていきました。



『ま、待って下さぁい、蝶々さぁーん』



 うふふ、うふふ、と無邪気を装って、足早にオリーヴさんの体の傍を、駆け抜けようとしました。




 ですが、わたくしの軌道上に、またしてもオリーヴさんの体の一部が割って入ります。今度は足です。



 かと思えば、その足はゆっくりと曲がり、わたくしとの距離を詰めてきました。



 慌てて下がるも、その分足は迫ってきます。上半身も、気付いた時にはじわじわと近付いていました。

 オリーヴさんの荒い息遣いが、徐々に大きくなってきます。




『オ、オリーヴさん、落ち着いて下さい。一旦止まりましょう。そして一度起きましょう。地面に寝そべったまま移動しては、背中が泥だらけになってしまいますよ? 素敵な縦ロールにも土が付いてしまいます。それはいけませんよ、オリーヴさん。さぁ、今すぐ体を起こしましょう。ね? それが良いですよ』



 けれど、オリーヴさんは止まってくれません。仰向けのまま、こちらへ這いずってきます。しかも、体を不自然に折り曲げながら恍惚とした笑顔で、ですよ? 普通に怖いです。



「はぁ、はぁ、シロちゃん……」



 うっとりとわたくしを見つめるオリーヴさん。じりじりと狭まってきている間合いに、わたくしの焦燥感も強まります。

 ここで威嚇の一つでもしてみようかしら、とも思いましたが、すぐさま却下します。何故なら、わたくしが歯を剥き出して唸った所で、オリーヴさんが止まるとは思えないからです。寧ろ、嬉々として噛み付かれにくるのではないでしょうか。身悶えながら。



 ならば、一体どうやってこのピンチを乗り切れば良いのでしょう。オリーヴさんの体を飛び越えられれば一番良いのですが、いかんせんわたくしはシロクマの子供です。足の長さも、筋力も、成人女性を越えられる程はありません。かと言って、諦めて踏み越えていくのも嫌です。

 助けを求めるにしても、ぱっと見渡す限り、隊員さんの姿はございません。少し前まで、誰かしらがいましたのに。タイミング良く出払ってしまったようです。だからこそ、オリーヴさんがこうして好き放題出来ているのでしょう。奇怪な行動をする上級者など、通常ならば間違いなく追い払われる筈ですもの。




『……はっ!』




 懸命に考えを巡らせていると、不意に、お尻へ何かが当たりました。

 見れば、広場の柵が真後ろに佇んでいるではありませんか。

 どうやら、オリーヴさんから離れることに必死すぎて、周りが見えていなかったようです。



『どどど、どうしましょう……っ』



 柵があるせいで、これ以上は下がれません。かと言って、前にも横にも逃げられません。

 わたくしが慌てている間も、オリーヴさんは確実に距離を縮めてきます。しかも、一気にくるのではなく、わたくしを甚振るかのようにじわじわ近付いてくるものですから、余計に焦りが募ります。

 と、兎に角、少しでも離れなければ……っ。



『ふぬん……っ』



 柵に脇腹を押し付け、四肢を揃えます。そのままつま先立ちをして、出来る限り薄くなりました。ぷるぷる震えながら、一生懸命バランスを取ります。

 したことのない動きに、己の筋肉が悲鳴を上げているのが分かりました。それでも、止めるわけにはいきません。何故なら、オリーヴさんがもうすぐそこまで迫っているからです。



 本当に、すぐそこにいるのです。



「そんなに頑張って背伸びしなくてもいいのよ、シロちゃん。ほら、疲れたでしょう? そろそろ休憩したらどうかしら。丁度私の顔の上も空いていることだし、良かったら座ってちょうだい。さ、遠慮しないで」



 オリーヴさんは、いつわたくしがバランスを崩してもいいよう、足元へお顔を寄せて、待機しています。オリーヴさんの鼻息を足先に感じる程の近距離です。もう逃げられません。絶体絶命とはこのことです。




『ひぃぃ……っ、だ、誰かぁっ! 誰か助けて下さぁいっ! 隊員さぁーんっ! いませんかぁぁーっ! こちらの上級者を、早急にわたくしから引き離して下さぁぁぁーいっ! お願いしますぅぅぅぅーっ!』



 わたくしの叫びが辺りへ響き、消えていきます。隊員さんの姿は、依然見えません。駆け付けてきて下さる気配もありません。ただただ長閑な空間が広がっているだけです。



 全身を小刻みに揺らしつつ、わたくしは祈ります。どうか助けて下さい、と。どうかオリーヴさんを遠のけて下さい、と。何度も何度も祈りました。

 前足に感じる息遣いに泣きたくなりましたが、わたくしは決して諦めません。こうして耐えていれば、必ずやどなたかが気が付いて下さる筈です。そうして、わたくしを救出して下さるに違いありません。絶対にそうです。



 ですから、諦めてはいけないのです。オリーヴさんの特殊な趣味に付き合いたくなければ、絶対に希望を捨ててはなりません。己にそう強く言い聞かせ、わたくしは一層足のつま先に力を込めました。




 すると、わたくしの願いが通じたのか。

 こちらへ近付いてくる影が一つ、ありました。




 遂に助けがきた。

 わたくしは、希望に胸を膨らませながら、振り返ります。




 そして、目を丸くしました。




 予想外の相手が、現れたのです。




 正確には、飛んできました。




 青と緑の美しい翼を、大きく広げながら。





『いけませんわっ、オリーヴさんっ!』




 航空保安部組の代表を務める子孔雀さんが、わたくしの元へ勢い良く飛んできたのです。




 しかもその勢いのまま、オリーヴさんへ体当たり紛いの蹴りを食らわせました。





『えぇっ!?』



 結構な速度で吹き飛んでいくオリーヴさんに、わたくし、思わず耳を立ち上げてしまいました。

 柵に寄り掛かったまま、転がるオリーヴさんをぽかんと眺めます。



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