クロエのチョコレイト

伊織千景

クロエのチョコレイト


 今日がいったい何の日であるのか、それは皆一言も話題にしない。けれども、おそらく今日はクリスマスとタメを張るレベルで異常な件数の恋が実る日であり、同時に阿鼻叫喚するレベルの件数の恋が潰える日でもある。

 当たり前だ、そもそも今日この日は、そのためにだけにあるようなものなのだから・・・


「バレンタインデー」


人はそう呼ぶ。そして、この作品の主人公にとってこの日は、一年で最も生命の危機を感じる日である。


 耳が隠れる程度の長さの鮮やかな黒髪、そしてその下に見える整った眉と凛々しい瞳。スレンダーな体が姿勢の良さのおかげでよく映える。今日もあちらこちらから女の子の黄色い声が上がる。そんな声を聞き、この声を一身に受ける黒江は贅沢にも一つため息。そのため息は、別に優越感からくるものではなく、心の底から腹の底から出てきたモノであった。単純に嬉しくないのである。黒江瞳子。それが彼女の名前だった。

 黒江は昔から、その容貌のせいで男よりも女の子にモテてしまっていた。しかし、残念ながら彼女はレズではない。男であったら魂を売り飛ばしてでも勝ち取りたいそんなポジションだが、至極誠に残念ながら彼女はレズではないため全く嬉しくない。

 そんな彼女が一年間で最も恐れる日、それが今日「バレンタインデー」である。いったいどこで調べられているのか、県外からも送られてくるトラック単位のチョコ。まあこれならまだいい。あまり良くない気がするがまあいい。本当の問題はもっと深刻なのだ。その深刻な問題が、今日も一学年上のクラスのドアを、臆さずにぶち開けてきた。

「受け止めてッ! 一年分の私の愛をッ! そして私の純潔をッ!!」

 そんな掛け声とともにとび込んできた美少女を、黒江はため息をつきながらさらりとかわし、みぞおちにボディーブローを叩き込んだ後、背中に肘鉄を叩き込んだ。

「ノォオォオ! オナカとセナカがメテオストライック!」

 少女はなぜか悦びの声を上げながらのた打ち回った。それがこの、彼女の幼なじみかつ、彼女の天敵かつ、オランダ人のハーフで、正真正銘ガチでレズビアンな後輩、及川カレンだった。

「今年はおとなしくしてほしいんだけれど」

 黒江は何事もなかったかのように着席して言う。

「私から生き甲斐を奪わないでおいてくだサイ!」

「そんな生き甲斐私にとっては害でしかないのよ。駆除するわよ」

「害虫扱い?!!」

「そんなことないわよ。害虫に失礼でしょ」

「全然フォローになってないデス!」

「当たり前じゃないフォローするつもりなんてないんだから」

 肉体と精神の両方に致命的なダメージを食らいながらも、カレンの瞳は欲望の炎がめらめらと燃えていた。なぜなら初めてあった日から10年間。実に10年間もこのようなやり取りをしてきたのだ。校内ヤンデレランキング殿堂入りは伊達じゃない。

 カレンは懐からひとつの小瓶を取り出した。小瓶には[カレン特製マル秘薬]というラベル。あからさまにあやしい。ロクなものではない物であることは確実だ。

「ふふふ、今日の今日こそこの薬で瞳子さんを私のものにグッヘッへ……ってうをぉおい!」

 黒江はカレンからその小瓶を奪い取り、それを地面に叩きつけた。

「任務完了」

 黒江、すがすがしい、やりきったという顔。

「ほ、ほわぁあぁあ! 私の特製マル秘薬がぁああぁ!」

 カレンはその場に崩れ落ち、搾り出したかのような悲鳴を上げた。

「とにかく。今日は勘弁してよね」

 黒江はそんなカレンからまったく眼中にない様子。ひとしきりカレンは悲しみに明け暮れていたが、あることに気がついて驚愕の表情を浮かべた。

「瞳子さん。今日『は』ってどういうことデスか?」

 黒江はギクっとした表情でこわばった。

「ま、まさか瞳子さん、誰かにチョコレイトをあげたりなんかしないデスよね?」

「そ、そんなことないわよ!」

 カレンは急に鼻をスンスンと鳴らし、黒江のにおいを嗅ぎはじめた。そしてまたも仰天の表情を浮かべた。

「ちょ、ちょちょ、チョコレイトの匂いがするッ! やっぱり! 誰かにチョコレイトをあげるんデスね!」

 このカレンの絶叫を聞き、クラス中の男子および女子およびちょうど入ってきた担任の先生の視線が黒江に集まった。緊張感のあふれる沈黙が流れる。しかし、この状況は、何かの甘い香りによって一変することになった。

 クラスのあちこちで、何か熱に浮かされたかのような声が聞こえる。そして、クラスの男子女子および担任の先生の顔が真っ赤になり、熱烈な視線が黒江に向けられた。

「ちょ、ちょっと皆、どうしたの?」

 何かを察したカレンは、黒江の腕をつかみ、教室を飛び出した。

「へ、なに? カレンどうしたの?」

「やばいデス」

 走りながら、顔面蒼白になりながらカレンは言う。直後、飛び出した教室からクラスの男子女子および担任の先生が塊になって2人を追いかけてきた。

「ちょっ! ど、どういうことよカレン!」

 その光景に動揺した黒江は、カレンに問い詰める。カレンは、

「えーと、先ほどのお薬のせいだと思いマス」

 と目を泳がせながら言った。

「あ、あんたの薬でしょッ?! 何とかならないの?!!」

「スイマセン。効果が切れるまで逃げるしかないデス」

「捕まったらどうなるのよ?!」

「貞操の危機デスね」

「そんなモン学校に持ってくるなぁーー!!」

 黒江はカレンを太陽系の外までぶっ飛ばしたい衝動に駆られながらも、立ち止まることができないのでぐっと抑えた。


「対象は瞳子さんだけなノデ、私が足止めしマス! 薬の効果は15分で切れるので逃げ切ってくだサイ!」

カレンは踵を返してクラス一同の塊の中に飛び込んでいった。

「くらえっ! カレン特製マル秘煙幕ってガスマスク忘れたあああ!!!」

黒江は一瞬カレンに感謝しかけたが、よくよく考えてみたらカレンがまいた種であることに気がつき、一瞬前の自分の感情を記憶から消去した。


 黒江は残り時間を確認。時間はあと7分ほど残っている。黒江はある程度の武道の心得があるが、いかんせん相手が多すぎる。もし捕まったら、と一瞬想像。「貞操の危機デスね」というカレンの声が頭の中で木霊して背筋が凍った。とにかく15分逃げるしかない。幸い、カレンの足止めが成功しているようで追っては今のところきていない。

 そんなことを考えながら走っていると、黒江は何か大きなものにぶつかってしりもちをついた。顔を上げると、そこには一人の長身の生徒が立っていた。

「風紀を乱すなっ!」

《歩く法律》と名高い風紀委員長、東条真人は張りのある声で黒江に言った。この東条真人、顔立ちは整っているのに、その梃子でも動かない頭の硬さから敬遠されている残念な男だ。

「まったく、廊下を走るなと何度言ったら……っておまっ!」

 話の途中で走り去ろうとした黒江を、真人は全力で追いかけた。

「ちょっと! 風紀委員が何で廊下走ってるのよ!」

「うるさい! 毒を持って毒を制すだ! だからとまれっ!」

「止まったら私の貞操が危ないのよっ!」

 どういうことだ? という真人の声は、背後からの地響きによってかき消された。先ほどの真人の声を聞きつけ、クラスメイトたちが飛んできたのだ。

「なっ! なにごとだ!」

「とにかくっ! あと7分弱逃げないと私の貞操が危ないのよっ! って何食ってんのよ!」

c黒江が怒鳴るのも無理はない。この緊張感あふれるシーンに、真人はどこから出したのかバナナを食べていたのだ。

「ちょっと小腹が減ったのでな」

cモリモリとバナナをほおばりつつ、真人はにやりと笑う。

「風紀アイテム“バナナ”だっ!」

 食べたバナナの皮をそっと廊下において、どや顔で真人は黒江を見る。

「ごめん、あんたのボケが音速過ぎて私のツッコミ追いつかない」

「褒めてもなにも出ないぞ」

「出しなさいよ、慰謝料的なものを」

 ため息をつきながら走っていると、背後でクラスメイトのひとりがバナナの皮で滑って転び、それに巻き込まれてクラスメイトたちは全員将棋倒しになった。

「計画通り」

 真人は風紀委員にあるまじき邪悪な笑みを浮かべた。

「どうだ、腹を満たし、かつ敵を足止めする。これが風紀アイテムの威力だ!」

 高笑いをしながら前を走る真人を見て、黒江は今更ながら真人がアホなのではないかと気がついた。


 真人とともに黒江は逃走してなんだかんだで4分が経過。あと3分でカレンのアレな薬の効果は切れる。なんとかなりそうだと黒江は胸をなでおろした、が、たどり着いたのは行き止まり、ドアがあるが、鍵が掛かっている。

「へ、どうしよう真人! このドア開かないよ!」

「任せろっ! こういう時の風紀アイテムだ!」

 真人はポケットからなにやら細い針金を2つ取り出し、鍵穴の中にいれ……

 ガチャリ、ドアが開いてしまった。

「必殺! 風紀鍵開けだっ!」

 またもや自信満々に胸を張っていう真人に向かって、黒江は思わず全力で突っ込んでいた。


「風紀委員がピッキングするなぁぁぁあああああ!!」


 その声は学校全体に響き渡り、色魔化したクラスメイト及び先生にも届いてしまっていた。地響きとともに、彼らが迫ってくる音がする。残り時間を確認すると、あと、1分!

 マズイ! このままだとぎりぎりアウトになってしまう!

 動揺している黒江の腕をとり、真人はドアの向こうに突っぱねてドアを閉めた。

「残りあと一分。俺がここで死守する」

 黒江は慌ててドアを開けようとするが、ドアは開かない。真人がドアを押さえつけていた。

「なに考えてるのよ! 皆は今我を失っているのよ!? あの人数とやり合って無事ですむと思ってるの?!」

 ドアの向こうで、真人が笑う声が聞こえ、黒江は余計焦った。まさかヤケになったのではないのか。

「バカヤロウ。俺を誰だと思ってる。俺は天下の風紀委員長。東条真人だぞ? 女の一人や二人、守れないでなにが風紀委員長だ。いいからお前はそこで待っていろ」

 狂人と化したクラスメイトたちの怒号が近づく。ドアは固く閉じられている。クラスメイトたちの怒号で大気が揺れる。今逃げないと、大変な事になる。

「は、早くこのドアを開けなさい! 格好つけてるんじゃないわよ!」

今までのおちゃらけていた声から一転して、真人はぼそっと真面目な声で、確かにこう言った。

「格好つけさせろよ。好きな女の前でくらいな」

 その後、ぅオラァ!! という掛け声とともに、真人がクラスメイトたちの中に飛び込んでいった音が聞こえ、まるで交通事故のような衝突音が鳴り響いた。黒江は、あまりの超展開すぎる告白に、硬着せざるをえなかった。


 そして無事、15分の逃走劇は幕を閉じた。

騒ぎを起こした張本人である及川カレンが、その愛くるしい容姿と、理事長の孫というポジションを遺憾なく発揮し、事態の沈静化及び隠蔽工作に励んだため、何事もなかったかのように収まった。ようかに見えたが、収まっていない問題が一つ。

「瞳子さん、さっきからどうしたんデスか? ボーッとして」

 まるではるか数千光年先のイスカンダル惑星と交信しているような状態の黒江に、カレンは尋ねる。が、反応はなし。

「そ、そういえば、瞳子さんは結局だれにチョコレイトをあげるんデスか? 私それが気になって気になって。まさか私トカ!」

無表情のまま首を横に振る黒江をみて、カレンは滝のような涙を流しながらその場を跡にした。


 静かになった教室で、黒江はバッグの中からチョコレイトを取り出す。昨日気合を入れて作った手作りチョコレイト。キャラじゃないと思いつつ、作ってしまったチョコレイト。ラッピングのリボンに挟まれているカードには、結局病院送りとなった、あの間抜けな、だけれど男気のある風紀委員長の名前が書かれていた。


(まさか、告白する前に告白されるとは思ってもいなかった)

先生から教えてもらった病院の連絡先をもち、黒江は教室を後にした。

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