拾えないダイヤについてのジレンマ

「少年。君は目の前に拾えそうで拾えないダイヤモンドがあったらどうする?」


 放課後。僕と先輩だけの文芸部。高級そうなブックカバーのついた文庫本を片手に、先輩はそんなことを言った。

 先輩は三年生でこの文芸部の部長である。鴉の濡れ羽色の髪に、学校指定の黒セーラー、――最近は黒のハイネックのインナーと黒の長手袋もするようになった――を身に纏った、ちょっとどころじゃないくらいの美人さんで、そのフィクションの世界からそのまま出てきたかのような容姿に惹かれて僕はこの文芸部に入部した。

 僕は淹れたてのコーヒーに角砂糖を一つ投入しながら、「またいつもの例え話ですか?」と尋ねる。


「まあ。そんなところかな」

「うーん。ダイヤモンドかあ……拾っても交番に届けないとだし、下手に手を出すと厄介事に巻き込まれそうだしなあ……」

「例え話だからそういうことは考えなくていい」

「あ、ハイ」

 先輩は一つため息をつくと、ちらと背後の本棚に目をやって、難しそうな顔をする。先輩は時々、こうやって考えごとをする。その仕草がどことなくミステリアスで、僕はそんな彼女に見惚れてしまう。

 どのくらいの時間が経っただろうか。先輩はふぅと息を吐いて言葉を紡ぎ始めた。

「……そうだな。そのダイヤモンドは、君の通学路にぽつんと置いてあると考えてみてくれ。もちろん、周囲には誰もいないし、落とし主が云々みたいな現実的思考は捨ててくれていい。そのダイヤは、拾った人間の者になる。そして一度それを拾ったなら、誰にもそれは盗めない――そう、考えてほしい」

「はあ」

「君は、そのダイヤを拾うかい?」

「そういうことなら、たぶん拾うと思います」

「ああ。そうだよな。きっと誰だってそうする。けれど、。そのダイヤは。見えないガラスに守られていて、拾うことができない。さながら、ルーヴルのモナリザのように」

 ――手の届かないところから見ることしかできない。先輩はそう言った。

「じゃあ、諦めるしかないじゃないですか」

「そうだ。諦めるしかない。だけど少年。君は諦めることができるか? そのダイヤを。こんな幸運、そうそうあるものじゃあない。もしかしたらそのうち、ガラスを突破する方法が見つかるかもしれない。それでもなお君は、ダイヤを見なかったことにして、日常に戻れる?」

「…………うーん」

 どうなんだろう。手が届かないのなら、すっぱり諦めてしまった方が良い……理性的に考えればそういう結論になるのだけど。

 僕は少しの間悩んで、それから結論を口にした。

「……いや、やっぱり諦めると思います。心惜しくはありますし、忘れるなんて、見なかったことにするなんてできないと思いますけど。でも、諦めるしかないじゃないですか」

「ふむ」

 先輩は僕の言葉を聞くと、「ならばこうだったらどうだろう」と言った。

「君は、そのダイヤを拾うためには最低でも君のおこづかいの7割の対価を支払わなくてはならないと聞かされる。その言葉が真実であることを前提に、君はどう答える?」

「…………ダイヤ、なんですよね」

「そうだ。私は君のおこづかいの額を知らないが、きっと対価としては『安い』と思えるはずだ」

「支払います」

 先輩は僕の言葉に満足してか、笑みを浮かべて頷いた。

「見事、君はガラスの壁を突破することに成功した。しかし、まだ問題がある。君はダイヤの近くに行けるようになったのだが……それでも、不思議な力が働いて拾うことができないんだ」

「お金を出したのに!?」

「『最低』と私は言ったよ。あくまでそれは前提条件なんだ」

 くっ。なんて意地の悪い……。先輩は時々、こういう子供っぽいことを言う。

「それで、今度は幾ら払えばいいんですか」

「いや、お金を支払う必要はない……というか、お金では解決できないんだ。言っただろう、『不思議な力』と。私にも、どうやって解決したらいいのか分からない。分かるなら、私はとっくにダイヤを拾っている」

「…………例え話、なんですよね?」

 ぽろ、と零した先輩の言葉が、その時の先輩の表情が気になって、僕は尋ねた。すると先輩は笑みを作って、「ああ、もちろん」

「――さて、こうなってしまって、君はダイヤを諦めることができるかな? 何回か挑戦すれば、意外とあっさり拾えてしまうかもしれない。なにせ君を阻むのは『不思議な力』だ。突破できるとは限らないが、できないとも限らない。そして君は、少なくない額のお金を、ここに到達するために使ってしまっている」

「……………………」

 僕は、その時どうするのだろう。

 今回の場合もやっぱり、最善なのはすぐに忘れることだ。支払ったお金は返ってこないけれど、延々悩むことによって、諦めずにいることによって未来に失う精神的労力と時間――これらを失わずに済む。あるいは、時は金なりなんて言うけれどお金よりも時間の方が大切なんてのは小学生でも分かることだ。

 だけど、僕はすでにお金を支払っている。

 ならば当然、その支払った分に見合う以上の何かを得られなくては、良い気持ちにはなれないだろう。

 たしか、心理学でこういうのがあったような……いや、それはまあいいか。

「…………どうかな、少年」

 先輩が僕の顔を覗き込んでくる。こころなしか、彼女は少し緊張しているようにも見えた。

「どう、と言われても……理性的に考えるならすぐに諦めた方が良いとは思うんですけど……」

「諦められそうにない?」

「はい」

 僕が頷くと、先輩はほ、とため息をついた。

「いやあ良かったよ。君が私と同じ答えを出してくれて。ちなみに、こういうのをコンコルド錯誤という」

「あ、それです。それ。僕が思ったの」

「私たちは二人とも、コンコルド錯誤に囚われてるわけだ」

 ふふ、と笑う先輩に連られて、僕もつい、笑ってしまう。

 ともあれ、話はこれで一段落ついたのだろう。僕は少しぬるくなったコーヒーを飲む。

「…………でもね、少年。本当にしたい話は、これからなんだ」

「これから?」

 これ以上、一体どうなってしまうと言うのだろう。ダイヤは諦めるしかないけど諦められない。そう、結論付けたばかりではないか。

「君がダイヤを諦められずにじっと見ていると、通りすがりの人が歩いてくる。彼は人より少し優れていて、だけど君との差なんてほとんどない普通の人に思える。……だが、君との差がほとんどないはずの彼は、いとも簡単にダイヤを拾ってしまうんだ。しかも端から見れば、なんの代価も支払っていないようにすら見える。…………ああ、ちなみにここでは便宜上『彼』と呼称しただけで、性を限定する意図とかそういうのは一切ない」

「……それはちょっと理不尽に感じますね」

「でだ。君はその数週間後、またしても通学路に落ちてるダイヤを発見する。君の支払ったおこづかいの七割がまだ生きているのだろう。もう君がガラスの壁に阻まれることはない。だけど、やっぱり不思議な力でダイヤを拾うことはできなさそうだ。ひょっとしたらまた、通行人がダイヤを拾っていってしまうかもしれない。君は街中で、ダイヤを拾った彼が友人たちとダイヤを拾ったことで得たものについて談笑するのを耳にしてしまうかもしれない。――それでも君は、ダイヤを諦めずにいられるかな?」

「それは………………」

 今度ばかりは、感情の面でも「諦める」を選択してしまうかもしれない。

 目の前でダイヤを、いとも簡単に拾われるのは正直、精神的に来るものがある。すでにお金を支払っている分余計に。

 その上で、街中で、についての話を耳にする…………それは、ちょっと嫌なことだと思う。自分が手に入れられるかもしれなかったものについての話を聞かされて、愉快だと思えるほど僕は器の広い人間じゃあない。

 ほぼ確実に、精神的コストがすでに支払った金銭的コストを大幅にオーバーする。たとえコンコルド錯誤があろうと、諦めた方が良いと納得できてしまいそうなほどに。

「なんて、変な話を聞かせてしまって悪かったね」

 先輩は手に持った文庫本をパタンと閉じてそんなことを言う。

「いえ、別に――」

「答えは、やっぱり聞かないでおくよ。君がどうするのか、なんとなく分かってしまったから」

「……先輩は、どうするんですか」

 ピク、と先輩の動きが止まった。今しがた閉じた文庫本に目をやって、やや俯きがちの体勢のまま、

「…………さあ。どうするんだろうね」

 冷たい声で、まるで他人事のように言った。


 ほどなくして下校を促すチャイムが鳴る。先輩が「私はここですることがあるから」と言うので僕はそのまま帰ることにした。


◆◆◆


 後輩が帰ったのを確認して、私はため息をついた。

 ……また、しょうもない理由で彼を困惑させてしまった。

 どうして私はいつもこうなのだろうと、軽く自己嫌悪する。そうしてパイプ椅子の背もたれに身を預けて顔を傾けると、本棚が目に入る。その本に並んでいるのは、どれもいわゆる大判本というものだ。

 とは言っても、小説ではない。それらはみな、TRPGのルールブックだった。私が手元に置いているこれも、文庫本サイズではあるがTRPGのルールブックである。


 こうして、本棚に納められたルールブックを見ているとどうしても思い出してしまう。まだ、この文芸部が賑やかで、たちがここにいた頃のことを……。

 あの頃は楽しかった。文芸部としてはどうかと思うけれど、TRPGを毎週のように遊んで、大人びて見えた先輩もその時はなんだか同年代の、気心の知れた友人のように感じられて……。

 そして、私は先輩たちが卒業してしまっても、その時のことがずっと、忘れられずにいる。

 けれど先輩たちはみんな忙しくしてるようで一緒に遊んでほしいなんて言えない。それどころか、TRPGからも卒業してしまった人すらいる。きっともう二度と、あの日々には戻れない。

 でも、それならそれで諦めがついた。仕方ないことだと、納得できた。

 そんな時だった。彼が、この文芸部に入部してきたのは。先輩たちが去って、部員もいなくて、廃部寸前のこの場所に後輩の少年が来てくれた。

 私は、思ってしまった。彼とも、TRPGをやってみたいと。

 『先輩』として、きっちりと私が『私の先輩たち』から貰ったものを彼にもプレゼントしてあげたいと。

 それから色々ネットで調べたところ、ライトノベル好きの後輩が好きそうなTRPGがあると知った。それは私が経験したことのないシステムで、調べてみると色々と難しい部分もあるらしい。

 だから、ひとまず経験を積むためにネットでのオンラインセッションに参加しようと思った。そのために自分でルールブックやサプリメントを何冊も購入して、少なくない額の出費をした。あの楽しさが少しでも味わえるなら、安いものだと思った。

 そうして、私はツイッターで何人か、そのシステムを頻繁にプレイしているアカウントをフォローし、卓募集のツイートが来るのを待った。


 ……そうして、半年が過ぎた。

 私はまだ、結局一度も遊べていなかった。運が悪いと言えばそれまでだが、とにかく機会に恵まれなかった。

 卓募集のツイートがあるかと思えば、それはFFフォローフォロワー内限定募集のものであったり、一緒に遊んだことのある人を優先して採用するようなものであったり……まあ、早い話が見知らぬ人ストレジャーな私ではどうしようもないものばかりだったのである。

 やっとのことで機会が巡ってかと思えば、それは未経験者には荷があまりに重すぎる大人気キャンペーンシナリオであったりもした。

 もはや私は、後輩の彼にTRPGの楽しさを教えることなど二の次で、「この負債をなんとかしたい」と思うようになっていた。

 ルールブック及びサプリメントの購入に使ったお金。それ以上の価値ある体験を、私にとってのダイヤモンドを手に入れるまで、諦めることなんてできなくなっていた。


 ――後輩の彼は、賢い子だ。表情を見ただけでなんとなく分かる。すっぱりと諦めることを選んだのだと。

 だけどそれは、私には到底選べそうにない選択肢だ。諦められるなら、夜、布団の中で唸ったり自分の手や首を爪で引っ掻いたりしていない(その傷を隠すために最近は手袋とハイネックを着用している)。


 かと言って、このまま、後輩をTRPGに誘って、実質未経験者の状態でGMをして、グダグダなゲーム管理で彼に嫌な思いをさせたくはない。

 TRPGには慣れが要る。初心者が参照すべきデータ、ゲーム中に変動する数値を完全に管理し切るのは難しいことだ。いや、不可能と言ってしまっても良いだろう。


 ……だけど、もう10月だ。私の卒業まで、時間はあまりない。

 結論を出すならそろそろだろう。


 手元に置いた文庫本を見る。何十回と読み返した、後輩とやろうとしているTRPGのルールブックを。

 そして、背後の本棚、その一部分に納められた真新しいリプレイ本を見る。

 リプレイ本の隣に納められた、サプリメントを見る。

 これら全部揃えるのに、2万円は使っただろうか。


 ――どんな結論になっても、この2万円以上の価値があると、心の底から信じられる体験はもう、できないのではないか。

 そう思う。

 一方で、このまま諦めたら2万円をドブに捨てたも同然だ、という気持ちもある。こんなことになるなら、2万円をアフリカの貧しい子供たちのために寄付した方が何倍もマシだった、とさえ。


 結局、堂々巡りだった。

 それが私がGMを務めるグダグダなものであれ、ネット上の顔も知らぬ玄人たちに混じってのものであれ、もう、卓を囲まないことには解決できそうにない。


 そろそろ帰らなくては。


 私は机の上に置いたルールブックを鞄にしまって、部室を出る。


(了)

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