年上の同級生と試験勉強
梅雨の少し手前、小雨の降る日だった。
僕と支倉さんはいつも部室で昼食を食べる。今日は僕たち二人きりだった。
試験前という差し迫った時期ゆえか、僕たちは会話もなく、黙々と食事をしていた。
僕がちょうどコンビニの麻婆パスタを食べ終えてコーラを飲んでいた時のこと。支倉さんは唐突に口を開いた。
「このあいだ、ローションつかって遊んでみたんだけどさ、あれで全身ぬるぬるにすんのってけっこう量いるんだね」
僕はコーラを吹き出した。
鼻の奥で炭酸が弾ける。涙目になりながら、僕は支倉さんと一緒に茶褐色の甘い液体の飛び散った机を拭いた。
一通り掃除が済んで、僕は鼻孔にコーラの甘ったるい匂いを感じながら訊いた。
「——で、なんだって突然そんなことを?」
「いやさ、試験勉強するのにも疲れたから全然関係ない話でもしようかと思って」
僕は支倉さんの手元に目をやる。薄紫色の教科書が置かれていた。僕が麻婆パスタを食べはじめた時からずっと机の上に置かれていたものだが、今に至るまで一度たりとも、彼女は教科書を開いていない。
「電磁気学?」
僕は表紙に並んだ文字列を読み上げた。
「そう。ほら、私って途中で休学したり留年したりしてたでしょ? その影響で私一人だけ君らとはカリキュラムが違うのよ」
「ああ……つまり、旧カリキュラムの科目ってことですか」
「そーゆーこと。電気系は興味ないんだけどねぇ。情報系の科目が少ないもんだから情報系の勉強ばっかだと単位が足りなさそうでさ……それでまあ、仕方なく」
言って、支倉さんはパラパラと教科書のページを捲る。真ん中付近を開いて手を止める。
「……それで、今度の試験に向けて勉強しなくちゃいけないんだけどさ、とくに電流密度関連の部分が鬼門でね」
「電流密度? どういうやつですか?」
「わからない」
「試験に出るんですよね?」
「出る……んだと思う。いや、ほぼ確実に出る」
「試験一週間前ですよ? ヤバくないですか?」
「うん。だからローションで全身ぬるぬるになって立てなくなりたかったんだけど立とうと思えば案外、フツーに立てちゃってがっかりしたんだよね」
「話を飛躍させないで下さい」
支倉さんは「飛躍なんてしてない」と口を尖らせて言う。
「ほら、『試験前になると掃除をしたくなる』ってよく言うでしょ? あれと一緒。別のことで気分を発散させたかったんだよ」
「だからってそういう恥ずかしいことを昨日の晩ご飯について話すノリでぶちまけないで下さい……」
そもそも、そんな話は友達同士でも口に出しずらいものだと思うのだけど。
支倉さんと出会って一年。彼女のことを僕は随分と知った気になっていたけれど、なんだか自信がなくなってきた。
「まあ、ローションの件については脇に置いとくとしてさ、本当、どうやって勉強したらいいんだろうね。こういう鬼門は」
「過去問を先輩にもらうとか」
「年上の先輩に教えを乞えって? 同級生は軒並み卒業しちゃってるしなあ……」
「担当科目の先生に訊くとか」
「訊いてみたんだけどダメだった。あの先生、電磁気学が得意なタイプの人間だから電磁気ムリ人間の気持ちが分からないっぽい」
「そもそも、電流密度の何が分からないんですか」
「……まあ、それが分かれば苦労はないというかね……」
つまり全部分からないということか。
「もうそれ、基礎の基礎からやり直すのが一番早いんじゃないですか……?」
「試験前一週間前なのにそんな時間あると思う? 私の鬼門の数は学年一だよ?」
「自慢げに言うことじゃない」
ていうかそんなに鬼門を作るなよ。
「普通、あってもせいぜい表と裏の二つくらいでしょう」
「私の場合、勉強の習慣がないからね……そもそも勉強を習慣付けられたらこんなとこに出戻りしてないって散々言わなかったっけ」
「自分語りする人は嫌いとかこの前言ってませんでしたっけ?」
「…………じゃあ、たぶん一、二回しか話してないね」
とはいえ、僕も試験に関しては危うい科目がいくつかある。人のことばかり言ってもいられないだろう。
「それじゃあ、勉強会でもやりますか?」
「最終的にはスマブラが始まることでおなじみの?」
「僕んちにはゲーム機がロクにないので大丈夫でしょう」
「……私もスイッチとか持ってなかったわ」
「まあ、僕の家でやるにしろ支倉さんちでやるにしても、試験直前——今週の土日にでも勉強会開きますか。それで一つでも鬼門を減らせたら万々歳ですし」
「たしかに。それじゃあやろうか、勉強会」
支倉さんは笑みで頷いた。
……この人、すでに問題が解決した気になってないか?
いささかの不安を感じつつ、僕は勉強会の約束をして、試験に向けて、学習意欲を高めていった。
◆ ◆ ◆
後日譚。
試験が終わってちょうど一週間。部室に行くと支倉さんは缶ビールを開けようとしていた。
学校で飲酒なんて正気じゃない。僕は止めた。
「……これ、試験結果です」
なんやかんやあって、停学モノの凶行を思い留まってくれた支倉さんはおずおずと答案用紙を僕に差し出してくれた。
そっと開いて点数を見る。
「これ、は」
赤点よりもなお悪い。青点だった。合格点の半分以下。この世の終わりみたいな顔になるのも頷ける点数だ。
「…………電流密度のところは、なんとかなったんだけどね。私が思うよりも鬼門がずっと多かったみたいで」
「……どうするんですか?」
「この科目で単位落とすと留年決定だからなあ……まあ、期末試験で100点取ればギリギリセーフってところかな」
「基礎から勉強し直した方がいいのでは?」
「うん。真面目に勉強することにする……とりあえずこれ、預っといて」
支倉さんが涙声でかばんから取り出したのは、ローションだった。といってももう、容器の底の方にわずかに溜まるのみである。
ていうか学校になんてものを持ち込んでるんだこの人は。
断るのも忍びない雰囲気だったので、僕はとりあえず受け取ることにした。
「使ってもいいから……」
「ほんとになに言ってんですか」
◆ ◆ ◆
さらに後日譚。
支倉さんは期末試験で100点を取り、無事に単位を取得した。僕がローションを返還すると、彼女は困惑顔で言った。
「……なんでそれを目白くんが持ってんの?」
どうやら、支倉さんは僕にローションを押し付けたことを忘れていたらしい。酒を飲む前からすでに酔っていたのだろう。そう思うことにした。
以降、しばらくの間、僕は彼女から変な目で見られ続けることになった。目が合うだけで顔を逸らされるのには流石に傷ついた。
……親の目からも妹の目からもローションを守り通した僕の苦労は一体なんだったのだろう。
そんなことを思いながら、僕たちは夏休みを迎えた。
(了)
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