ロンド・ミザリー
トランサ・クローサ地区の路地は深い霧に覆われていた。一寸先も見通せぬ、真っ白な霧――人々はそれを【魔の住処】と呼んで恐れた。
曰く、満月の夜。中天に座す月の煌々と輝く頃。すべての星辰が正しく配された時。深き霧より【魔】は来たりて――人を、食らう。
ここに、一人の少女がいた。名はロスティ・ロンド・ラインツ。金髪碧眼の美しい娘である。
彼女は走っていた。
――急がなくては。
――急いで、この霧を抜けなくては。
――バケモノが、来る前に!
「QRRRRRRR――」
「ひぃっ」
その――機械の軋みとも獣の雄叫びとも取れぬ異様な声に、ロスティは走る速度を上げた。
バケモノが近くにいるのか、遠くにいるのか。そんなことは問題ではない。
なにせこの霧は【魔の住処】。であれば、どこからでも出て来るというのが道理。
霧は家屋の中にまでは入って来ない。【魔】も、家屋の中に侵入してくることはないのだと言う。家の中は安全なのだ。
だが、ロスティが戸を叩いたところで誰も、きっと誰一人として、彼女を家に入れてはくれないだろう。
戸を開けること、それは【魔】に食われるリスクを負うということだ。
誰も翌朝の新聞の一面を飾る数字の一部にはなりたくない。当然、ロスティを拾う者などいなかった。
――もっとも。この深い霧である。誰にも、街を駆けるロスティの姿は見えなかっただろう。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………」
若い肉体の無尽蔵にも近しい体力を活用し、どうにか走り続けてきたロスティは限界を迎えようとしていた。
――大丈夫。大丈夫よロスティ。あと少し。あと少しでアパルトメントに帰れるわ。
濃霧のなか、辛うじて識別できる建物と路地の特徴を見るにここはトランサ・クローサ11番街の5番地――ここから少し先には川があって、アパルトメントはその川を超えてすぐだ。
ロスティは軋む全身に鞭打って、頽れそうになる心に激励の言葉をかけて、再び走りだす……。
だが。
「――QRRRRRRR――!」
ロスティは足を止めた。
あろうことか眼前に、来てしまったのだ。【魔】が。バケモノが。トランサ・クローサ地区に住む者なら誰もが知るかたちある恐怖。ヒトを食らうモノが。
それは、鳴き声と同じくして奇異な見た目をしていた。
噛み合わないいくつもの歯車がきりきりと回る。
頭部は鋼鉄で出来た骸骨。かたちはオオカミのそれ。
しかし六本の足と三本の尾を持つ。
鉤爪は鋭く、あらゆるすべてを引き裂きそうなのに、歯は平べったくて鋸のよう。
ジキジキと。ソレは平らな歯をこすり合わせていた。口もとからふしゅふしゅと蒸気を上げて零れ落ちるのは何らかの酸のようで、垂れたそばから舗装路に穴を穿つ。
「い、いやぁ…………」
ロスティはじりじりと後退った。
バケモノに目のようなものはない。だが、確実にそれはロスティを見ている。じっと。表情の窺い知れぬ、骸骨のがらんとした眼窩の向こう側から、確かにそれはロスティを見ていた。
背を向ければ、死ぬ。
ロスティは直感していた。だが、彼女の精神はすでに限界に近しい。
ここまで必至に走ってきたのだ。
あと少し、と最後の力を振り絞ったばかりだったのだ。
気力はすでにほとんどなく――
「――――っ」
ロスティは、死の直感に逆らってバケモノに背を向けた。
少しでも早く、逃げたかったのだ。得体の知れぬバケモノの視線から。
果たして――
「QRRR――QRRRRRR――QRRRR――」
バケモノは鳴いた。ロスティの耳にはそれが歓喜の声のように、愚かな獲物を見下す狩人の嘲笑のように聞こえた。
――逃げなきゃ!
――逃げなきゃ!
――一刻も早く!
しかし、バケモノは迫る。その巨きな身体の跳躍一つでロスティの背に追い付いて、酸性の涎をあたりに撒き散らし、上半身にまるごと喰らいつこうとして――
「――趣味の悪い獣だ。よりにもよって狩人の真似とは」
――ギィインッ――!
何か、硬質のもの同士がぶつかり合う音がした。
ロスティは振り返ろうとして、足をもつれさせて転んでしまう。
「――きゃっ」
どさ。石畳の道の上に倒れたロスティは強打した左肩に手をあてながら、背後に目をやった。そこにいたのは、一人の男だった。
鋼鉄の――あのバケモノと同じように幾つもの歯車が取り付けられた――盾を構えた髪の長い男。
服は白く。裾に機械油の染み込んだ丈長のコートを着ている。
真っ白な霧の中にあって異質な、赤の煙を上げるタバコをくわえ、男は綺麗な紅の瞳でロスティを一瞥した。
「ようお嬢さん。お転婆も過ぎればこんなふうに、命に関わるワケだが――お前は、助かりたいか?」
「……っ!」
こく、とロスティは強く頷いた。
男は赤い煙を口から吐くと、バケモノに向き直り、
「――承知した。そんじゃァ一丁、【
男は、紅の双眸を輝かせて盾を構えた。
【続かない】
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