お題:【染み抜き】をテーマにした小説

 ”洗濯屋”と書かれた木製の看板がぶら下がっている空色のドアを、ノックもせずに開ける。柔らかな日差しの差し込む店の中にはいつものようにお姉さんが待っていた。綺麗で、いつ見ても気だるげで、癖のある長い黒髪をゴムでまとめている、いつも優しいお姉さんだ。


「すいませーん、これお願いできますかー?」


 袋の中から白いワンピースを1着だけ取り出してお姉さんに手渡す。素朴だけどかわいいデザインでお気に入りのワンピース、けれど胸元には一滴赤い染みが出来ていた。


「あー、なるほどね。色からしたら血だね?これは」


「そうなんですよ、チョコ食べ過ぎたら鼻血が出ちゃって……これ、なんとかなります?」


「まっかせて。今すぐやっちゃうけど待ってる?それとも後で取りに来る?」


 待ってます、と答えるとお姉さんはやっぱりいつもの調子ではいはいと言ってお店の奥に消えていき、私もいつも通り入口近くに置いてある木製のイスに腰かける。普段は家の洗濯機では洗えないようなスーツやコートを持ってくるのだが、お姉さんがいる時だけはこんな風に染み抜きなどのちょっとした洗濯をやってくれた。だからというわけではないが、私はこの洗濯屋が好きだった。


 そんなことを考えているうちにお姉さんはさっき渡したワンピースと幾つかの道具を持って戻ってきた。


「染み抜きって言ったって洗濯と変わらないからねー。汚れにあった洗い方をすれば簡単に落ちちゃうのよ。血の汚れなら水溶性だし、見たところあんまり時間が経ってないから水と洗剤でトントントン~っと」


 喋りながらもてきぱきと手を動かし、ブラシのような道具で優しくワンピースを叩くとみるみるうちに赤い汚れが消えていく。


「すごいなぁ……」


「これくらい慣れたらアリサちゃんでも簡単だって……ハイおしまい。もうしばらく預けてくれたら乾燥までやっちゃうけど、どうする?」


「あとは家の洗濯籠に突っ込んじゃうんで大丈夫です、ありがとうございました!」


「うんうん、こっちこそありがとね~」


 お代として小銭を置いて店を後にする。お姉さんは最後までいつも通りの笑顔で見送ってくれた。





「すいませーん、これお願いできますかー?」


 袋の中からエプロンを1着取り出してお姉さんに手渡す。淡いピンク色のエプロンの中央にはしつこそうな油よごれがでかでかと主張していた。


「あら、またかい?最近多いねぇ」


「えへへ……揚げ物に使った油、溜めておこうと思ったら溢しちゃいまして」


「あらまぁ、火傷はしなかった?」


 はい、と答えるとお姉さんは満足そうな微笑みを浮かべるとエプロンを持って店の奥に消えていった。


「今日も待ってる?今日のはしつこそうだからあんまりおススメしないんだけど……」


「うーん、ちょっとだけ待たせてもらってもいいですか?」


 勿論、という返事が聞こえてから間もなくして、小さな桶と幾つかの道具を抱えたお姉さんが戻ってきた。


「そんじゃあ今日も染み抜きしちゃおっかー。油はねぇ、ちょっとした汚れなら洗剤でもいいんだけどしつこい奴は油を使って落としちゃおうねぇ」


「油で……?そんなことしたらもっと汚れるんじゃぁ……」


「勿論サラダ油じゃないよ。クレンジングオイル、要するにメイク落としなんだけどね?これを使うと結構汚れが落ちちゃうのよ。工場とかで付くような機械油とかはまた別の落とし方があるんだけど、食用油くらいならこれで十分……」


 喋りながらでもてきぱきと動く両手に思わず見とれてしまいそうになる。


「今日のやつは全部うちでやっちゃった方がいいと思うからこのまま置いてってくれる?明日にはできてると思うから」


「はーい。あ、それじゃあそろそろ帰りますね、ありがとうございました!」


「うんうん、いっつもありがとね~」


 いつもより多めのお金を置いて店を後にする。去り際も、ドアの向こうからはお姉さんが作業をする静かな音が聞こえていた。





「お姉さん、逃げて!」


 壊れそうな勢いでドアを開けて洗濯屋に駆け込むと、いつものようにお姉さんがカウンターに座っている。だが、今はそれどころではない。


「あらあら今日はいつもより慌ててるねぇ。どうしたの?お気に入りのワンピースに二度と落ちない油汚れが付いたみたいな慌て方して」


「それどころじゃないんです!今すぐ逃げないと染みが……染みが!」


 全力で走ってきたせいで呼吸が浅い。状況が飲み込めず思考がまとまらない。肩で息を整えながら言わなければならない言葉を紡ぐ。だが


「————」


 気付いてしまった。視界の隅に映る僅かな染み。生き物も建物も何もかもを無差別に飲み込みながら拡大していく真っ黒な染みとしか形容できないソレが、洗濯屋のドアを超えて私たちを――


「あー、大丈夫大丈夫。このタイプの汚れもちゃんとしたら落ちるから」


 飲み込む、その想像は文字通り白く光るお姉さんの手でかき消された。


「え、あれ――?」


「油汚れには油使うと落ちやすいって言ったでしょー?豺キ豐汚れは遘ゥ蠎使えばけっこう簡単に落ちちゃうのよ」


 そう言って、そのままお姉さんは町へと繰り出していった。しばらく呆然として、気付いたら夜が明けて、朝になったら眠そうな顔をしたお姉さんが戻ってきて、そこでようやく全てが綺麗になったのだと気付いた。


「ごめんねー、流石に眠いから今日はお店閉めちゃうわ……大丈夫、心配なら今度汚れの落とし方教えたげるから……おやすみー」


 お姉さんは大きな欠伸を一つするといつものように店の奥へと消えていった。


〈了〉

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