強欲 avarice_09

「ブン屋さんは見境無いですね……」

「何がスクープか分からんから、何でも撮ってるんだろうな……」

 周辺の騒々しさには辟易したが、マスコミも不法侵入で逮捕されるのは拙いと理解しているのか、さすがに敷地内までは付いて来ない。邸の堅牢な鎧戸の横の通用門を内側から開けてもらって中に踏み込むと、辺りは打って変わった静けさに包まれていた。

 そこは、この上なく贅沢な邸宅だった。

 広大な敷地は日本庭園になっており、とても都内にあるとは思えない。明治から増改築を繰り返したという本邸は重厚な日本家屋で、庭にはガラス張りの鳥籠のような洒落たデザインの温室もあった。季節の花や紅葉が楽しめるよう考え抜かれた植樹があり、築山は見事な星苔に覆われている。花崗岩の太鼓橋が架かった池には錦鯉がゆったりと泳いでいた。奥には石灯篭の立ち並ぶ石敷の小径が作られており、その向こうに枯山水と茶室も見えた。敷地の裏にはさわさわと風の渡る竹林がある。

「高級旅館みたいですね……」

 晴翔は屈託のない声で言い、手を庇にして非現実的な眺めを楽しんでいた。

「捜査に来たんだから、はしゃぐなよ」

 二階堂は正直、呆気に取られていた。自分もそれなりの金持ちの息子に生まれた自覚はあったが、これは桁違いだ。維持費だけでも天文学的な金額になるのではないか。どうやってその資金を捻出しているのか、想像もつかない。

 ただ、意外だったのは、執事なり家政婦なりが居るのだろうという予想に反して、使用人ではなく、出版社から駆け付けた様子の女性編集者が門まで出迎えに来た事だ。

「兵藤先生は静かな生活を好まれるので、このお邸を相続なさった際に、それまで雇っていた人達には辞めて頂いたそうです」

 女性編集者――山名絵未は敵愾心を剝き出しにしていた。刑事に脅されて兵藤への面会を許してしまったと思っているのだろう。毛を逆立てた猫のようにピリピリしている。

 広い玄関には兵藤自身も出て来ていた。普段着なのか、テレビで見る時とは違い、黒いニットとベージュのチノパンの若々しいスタイルだった。確かに、役者のような色気のある美形だ。眼鏡が知的な魅力を引き立てている。

 これは難物だろうと警戒したが、兵藤はふわりと笑って気安く頭を下げた。

「今日はわざわざご足労頂いてすみません」

「あ、いえ、こちらこそ貴重なお時間を割いて頂き……」

 虚を突かれ、二階堂は軽く狼狽してしまった。兵藤が先導して客間へ通される。高い天井と広い廊下に威圧され、思わずジロジロと見まわしてしまう。

「埃まみれで放置していますから、あまり見ないでください。独り身なもので、普段使っている部屋以外は掃除の手が行き届かなくて」

「でも放置してたら傷んじゃいませんか?」

 晴翔が明け透けに訪ねると、兵藤は困り顔で微笑んだ。

「そうなんですよ。やむを得ず、月に一度はハウスクリーニングを呼んで手入れしてもらっています。あまり広いのも考えものですね。経済的には売って引っ越したいのですが、子供の頃からの想い出の詰まった家なので、なかなか……」

 晴翔はうんうんと頷いていたが、二階堂は、はあ、としか言えなかった。

 例の如く、溜息が出るほど豪華な洋間で、美術品のようなソファに腰掛け、やっと本題を切り出せた。

「この男、枩葉龍之介と言うのですが、ご存知ですよね?」

 螺鈿細工の施された黒漆のテーブルに須貝に提供してもらった枩葉の写真を乗せる。

 ほんの刹那、兵藤は二階堂と晴翔の目を覗き込んだような気がした。ぞわり、と何故か鳥肌が立つ。ふふ、と兵藤は悪戯を見付けられた子供のように肩を竦めて微笑んだ。

「ええ、知っています。彼は熱心な読者で、よく手紙を頂いていましたし、何度かメールのやり取りをしました。一度だけ神楽坂の料亭で会った事もありますよ」

「先生っ、そんな、初めて聞きましたよ!」

 豪邸に不似合いなペットボトルの緑茶を人数分持って台所から小走りで戻って来た山名絵未が、タイミング悪くその遣り取りを耳にして、ペットボトルを投げ散らかしそうな勢いで大声を上げた。まあまあ、落ち着いて、と兵藤は呑気な調子で彼女をなだめる。憤懣やるかたなしといった顏で山名は乱暴にソファに腰を落とした。どうも、ただの作家と担当という関係ではないような気がする。付き合っているのだろうか。

 そんな恋愛事情の詮索は脳裏から追い払い、二階堂は必要な話を始めた。

「先生がストーカー被害に遭っているのではないかと、先日、警視庁の方へ匿名で通報があったのですが?」

「へえ、そんな通報があるものなのですね」

「それで、どうなんですか?」

「そうですね……枩葉君とは一度会ったら懐かれてしまって、また会って欲しいとしつこくせがまれるようになってはいますが……」

「どういう状況なんです?」

「いや、まあ、彼があまりに熱烈なので少し気味が悪くなってしまって、もう会えませんと伝えたら、奇妙な手紙を直接郵便受けに投げ入れていくようになりました。困った人ですよね」

 ふふふ、と他愛ない世間話でもしているように兵藤は笑った。

 二階堂は不気味なモノを見ているような気分になった。身の危険を感じてもおかしくない状況なのに、兵藤はのらりくらりと掴み所がない。

「どうして警察に相談しなかったんです?」

「黙っていて申し訳なかったとは思いますが、あらぬ誤解を受けたくなかったのです。その辺りの事情は察して頂けますよね?」

「世間からバッシングを受けているからですね」

 ええ、そうです、と兵藤は悪びれずに笑顔で頷いた。

 まだ枩葉が犯人だと伝えるのは早いだろうか。

「そう言えば、先生の作品の影響を受けて、例の殺人鬼は事件を起こしたと見られていますが、先生ご自身はどう思っておられるのですか?」

 山名が親の仇のように二階堂を睨んで来るが無視する。仕方がない。

「黄金の林檎連続猟奇殺人事件ですか……」

 敢えて陳腐な俗称を口にして兵藤は真顔になった。偽物めいた笑みが消えると、背筋が冷えるような怜悧な印象になる。見えない壁が立ち塞がったように思えた。兵藤は端正な顔を真っ直ぐ二階堂に向けて、講義でもするように無機質な声音で言葉を紡ぐ。

「犯罪を使嗾したと言われるのは不本意です。作品はあくまでも娯楽のために供される創作物であり、読者も現実とは切り離された有り得ない空想として楽しむべきでしょう。人格を変えるほどの影響なんて、与えられるわけがない」

「枩葉はどんな読者でしたか?」

「彼は、僕が作品に込めた真意を常に過たず読み解いて見せた。他の誰にも出来なかった事です。読解力の高い読者の存在は嬉しいものです。可愛く思うのは当然でしょう?」

 二階堂は兵頭の奇妙なほど説得力を持つ声音に威圧されていた。なぜか、二の句が継げない。兵頭は氷のように透き通った視線で二階堂の目を静かに見据える。嫌な目だ。感情の色の無い、獰猛な鰐のような、底知れぬ空虚を称えた目……

「でも彼とは一度会っただけですよ」

 ははははっ、と先刻までの柔らかさは欠片も無い鋭い嗤笑が兵頭の喉から迸った。

「彼は僕が女性でなかった事に失望していました。恋をしていたのでしょうね。空想の中の兵藤静香という女性に。可哀想な子です」

 可哀想な子……

 須貝と同じ言葉を口にしているのに、ここまで真逆の印象になるものなのか。

 何かがおかしい、と二階堂は思った。この作家の感触は何かがおかしい。人として重要な何かが欠落しているような気がする。表面的には従順で殊勝に見えるが、平気で人を殺しそうな冷徹さを感じる。秘めた異常性とでも言えば良いのか……

 二階堂は得体のしれない闇の淵を覗き込んでいるような錯覚に陥っていた。兵藤は底がしれない。不気味で、恐ろしい。

 ここが潮目かもしれない。思い切って例の事実を伝えてみる。

「申し上げるのが遅くなりましたが、実は、枩葉は例の連続猟奇殺人の犯人です」

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