怠惰 sloth_05

「早瀬管理官、これ良かったら」

 新宿署に戻ると、講堂の前の廊下でばったりと早瀬あずさに出くわし、二階堂は不躾に土産の箱と紙袋を突き出してしまった。

「なんです、これ?」

「タルト・タタンとチョコレートです」

「………………?」

 そのタルトとチョコを渡されている意図が分からない様子で、早瀬管理官は黒い大きな瞳を見開いてきょとんとしているのだが、二階堂は緊張のあまり、彼女のそんな様子に気付いても、真っ赤になって突っ立っているしか出来なかった。自覚は出来ている。傍から見ればおかしく見えるだろう。三十過ぎの男が、まるで憧れの先輩に告白する中学生のようだ。我ながら、みっともない。

 見かねた様子で晴翔が割って入ってくれた。

「さ、差し入れです、差し入れ。キツイ帳場ですから、体力つけて捜査指揮を頑張ってくださいって意味ですよ」

「ああ、そういう事ですか。お気遣いありがとうございます」

 おっとりと優しく微笑んで、早瀬管理官は紙袋とケーキの箱を受け取った。その際に少しだけ指先が触れたのだが、二階堂はそれだけでくらくらしてしまった。

「ええと、あなたは……」

 早瀬管理官に目を向けられ、晴翔はびしっと敬礼をした。

「新宿署の春夏秋冬晴翔巡査長です。シュンカシュウトウと書いてヒトトセです」

「ああ、そうでした。変わった名字の方ですよね。お疲れ様です」

 エリートらしからぬ気さくな声音で言い、早瀬管理官は二階堂に向き直ってぺこりと可愛らしく頭を下げた。

「二階堂くん、これ、本当にありがとう。後で頂きます」

 控えめな香料の匂いを残して早瀬管理官はエレベーターホールの方向へ歩み去った。

「はあぁ……」

 緊張した。そう言ってしまいたかったが、二階堂は晴翔の目を意識して飲み込んだ。晴翔はじとっと、咎めるような目付きで二階堂を見ている。

「なんだよ?」

「二階堂さん、もうちょっと気の利いた事言えないんですか?」

「言えるわけないだろ。だいたい気の利いた事ってなんだ?」

「つうか、あれ、唐尾係長と堀田係長の分も入ってるって言わないと、まるで早瀬管理官が一人で三つも食べると思って買ってきたみたいですよ」

「え、そうなのかっ?」

 はあぁ、と晴翔はわざとらしい溜息をついた。

「まあ、もう仕方ないですよ。目的は果たせたんですし結果オーライでしょ」

「目的ってなんだ?」

「はいはい、もう、ホント、それで隠せてるつもりならおかしいですからね」

「聞き捨てならん」

 そんなバカバカしい一幕もあったが、その日の午後は、被害者のアドレスリストの照会に費やされた。ただ時間だけが過ぎて行くような錯覚に陥る。刑事の仕事は、派手で華やかなドラマの世界とは違い、ひたすら地味で地道な作業の積み重ねだ。

 根気が試される。


   ***


 作業をしながら目に入った午後のニュースは政治家の不倫の話題で持ちきりだった。昨日は、ほぼ全てのニュース番組のトップトピックスとして鵜辺野遼の事件が扱われていたが、それが今日はほんの二分程度の短いニュースで、淡々と警察が発表した事実のみを読み上げるものだった。捜査の進展については一言も言及が無い。

 幸いこの程度で済んでいる──と本件に関わる捜査員の誰もが思っていた。

 特別捜査本部が開設された場合は、もっと報道が過熱する。事実に基づいた報道がなされるよう、新宿署の署長と理事官の立ち合いの下、事件発覚から三日間は午前十一時と午後十時に定例記者会見を開く慣例になっている。まあ、定例記者会見を開くのは、過剰な取材を防ぎ、マスコミの行動が捜査妨害になるのを抑止する為、というのが本音だ。今回は特捜にはなっていない。連続殺人である可能性は極めて高いが確証が得られていないからだ。特捜にすれば世間が騒がしくなる。それで犯人が潜ってしまう場合もあるし、連続殺人でなかった場合、世間を騒がせた責任を誰が取るのかという問題にもなる。誰もそんなくだらない責任は取りたくない。警察は臆病なまでに慎重な組織だ。

 奇妙な現象だ。猟奇殺人事件と言っても、殺害の手口が伏せられてしまえば、マスコミの興味はこんなものなのか。

 人の記憶はあやふやだ。鵜辺野の遺体を最初に発見した女性清掃員は血塗れのベッドと床に驚いて、遺体を直視してはいなかったらしい。モザイクをかけられた彼女は、テレビ画面の中で間違った証言を垂れ流していた。

「ビックリしましたよ。ドアを開けたら部屋中ベッドも床も血塗れで、壁なんかも血飛沫で真っ赤だったんですよ。被害者の方は裸で、良く見たら胸に刃物が刺さっていて、ええと、包丁みたいな柄でしたよ。全然動かないし、ホントに死んでるのかなって……」

 黄金の林檎殺人事件と同一犯の可能性が高いと分かったら、世間はどんな反応をするのだろうか。連続猟奇殺人事件なのだ。しかも、犯人も被害者も男性で、ラブホテルで起きている。被疑者の人体が判明した時、但馬がふざけて笑ったように、同性愛者による猥褻目的の猟奇殺人としてワイドショーやSNSで面白可笑しく取り沙汰され、被害者や遺族は好奇の目に晒されるだろう。普通を自認する人々は、自分と違うセクシャリティを持つ人々との間に一線を引き、ピエロのように扱い嘲笑して憚らない。他人事だからだ。自分には関係が無いから、生来の、変えようのないセクシャリティをギャグにされるという事が、どんなに残酷か思い遣りもせず、簡単に笑う。

 考えただけでうんざりした。二階堂も遥か昔の子供の時分にだが笑ったことがある。

 自分も、残酷な「普通を自認する人々」の仲間なのだ……


   ***


 鵜辺野遼の関係者を洗うだけで日々は費やされていった。関係の薄い人物をまず捜査対象から外し、次に幾分かは怪しいと思われる人物を調査し、アリバイの有無を確認し、被疑者から外していく。そうして被害者と鑑があったと見られる百人近い人間を調べたわけだが、最終的には誰も残らなかった。

 三嶋和臣とも関係のあった伊東美津留の他には誰も……

「やっぱり伊東が怪しいんですよね」

 しかし現場から伊東の居た証拠は出ていない。任意で毛髪を提供してもらい、科捜研が現場に残っていた毛髪と照合したが、一致するものは無かった。もちろん、伊東の指紋や足跡も採取されてはいない。

「でも、証拠が何も出てないとなると、さすがに伊東は引っ張れないですよね。人権派の弁護士に泣きつかれても面倒ですし、冤罪だったらマジでヤバイ……」

 朝の捜査会議の最中、晴翔は二階堂にだけ聞こえる声でぼやいていた。

 鵜辺野遼が歌舞伎町のラブホテルで殺害されてから一週間程が経っている。

 十月二十九日。

 捜査は進展していない。

 現場に置かれていた水晶の動物も販売元を特定できていなかった。科捜研の分析によると、手彫りで、素材は不純物の含有が見られることから天然水晶だと判明した。大量生産品ではないだろうと推察されたが、そこまでだった。大きさは約五センチ程、デザインは写実的で、ギリシャ・ローマの流れを汲んでいるのでは、と美術に詳しい大利根が発言したが、決め手にはならなかった。物証班が、防犯カメラの映像解析に取り組む傍ら、天然石に彫刻が施された類似の商品を取り扱っている全国の卸元を順次当たっているが、いまだ該当する商品を取り扱っている業者は割り出せていない。可能性を潰していくだけで時間が掛かる。

 伊東を任意で引っ張るべきだ――という意見は数名から出されていた。聞き込みで足を棒にしている地取り班が急先鋒で、特に堅城が、最初に伊東に聴取を行った二階堂と晴翔を手際が悪いと槍玉にあげていた。唐尾係長と堀田係長が堅城を抑えているのは二階堂と晴翔を庇ってではない。単純に時期ではないだけだ。

 伊東が怪しいという感触はあるが、物証が無い。状況証拠だけでは起訴できない。そもそも状況証拠も弱い。被害者ふたりと面識があり、鵜辺野が殺害された事件当夜、新宿にいたというだけだ。しかも、三嶋が殺害された際には、伊東は友人たちと山梨に出掛けており、犯行は不可能だった。だからこそ一件目の捜査の折りに容疑者から外されていたのだ。鵜辺野の携帯端末に伊東のアドレスが無ければ疑われもしなかっただろう。

 打つ手無し。ただし、今のところは。

「科捜研から報告があります」

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