怠惰 sloth_04

 伊東美津留の自宅を辞して、二階堂と晴翔は少し考えを整理する為に裏通りのカフェに入った。二階堂は何か重大なミスを犯しているような気がしていた。

「どう思う、伊東は怪しいか?」

 席に着くなり訊ねると、晴翔はおしぼりで手を拭きながらまったく別の事を言う。

「二階堂さん、この店、タルト・タタンがありますよ」

 同時にテーブルの下で軽く足を蹴られた。捜査の話は後にしろ、という合図だろう。確かに、水とおしぼりを運んで来た店員がそこに居るのにする話ではない。それにしても、タルト・タタン……最近、どこかで耳にしたような気がする。

「これ置いてる店ってあんまり無いんですよね。作るのに手間もかかるし原価率が高いんで店で出すには向いてないらしいです」

「へえ、そうなのか。じゃあ、俺はタルト・タタンの珈琲セットにしよう」

「え、食べるんですか? 二階堂さんってお坊ちゃんですねぇ」

「タルト・タタンを食べるとお坊ちゃんなのか?」

「違いますよ。情報に素直に反応するところがです。じゃあ、店員さん、すいません、タルト・タタンの珈琲セットをふたつお願いします」

「おまえも食うんじゃないか……」

 腑に落ちなかったが、晴翔も同じセットを注文したので、おとなしく水を飲んでタルトと珈琲を待つ。椅子に背を預けると深い溜息が出て、二階堂は自分が酷く疲労している事を自覚した。昨日は一日中、足を棒にして結局は徒労に終わった聞き込みに従事し、夜は夜で珍しく帳場で雑魚寝をしたので体の節々が痛かった。まだ捜査二日目だというのに疲れている。目を閉じたら眠ってしまいそうだ。束の間、身体の力を抜いて寛いだ。

 五分ほどでタルトの珈琲セットが運ばれて来た。大振りの林檎の甘煮をたっぷり使ったタルトはホイップクリームが添えられていて、疲れた身体に滋味が染み渡った。

「うん、美味い」

「酸味と甘味のバランスが丁度良いですね」

 半分ほど食べたところで、晴翔は前振りなく伊東の件に話を戻した。

「二階堂さんは伊東さんの事どう思いました?」

 それはさっき俺が訊いた事だろうが、と思いつつ、ふと、珈琲とタルトを運んできた若い男性店員の視線が気になり、二階堂は声を潜めて答える事にした。店員がこちらの様子を窺っているような気がしたのだ。疲れ過ぎて神経が過敏になっている。

「何か隠していると思ったよ。おまえは?」

「後ろ暗そうでしたよね。それに伊東さんの身長、ちょうど百六十センチくらいでしたしね。体型は防犯カメラに映っていた被疑者と似てますね」

「小柄で痩せ型。手の形も似ている気がする」

「でも、手なんて、職業的特徴が無ければ、みんな似てません?」

 それはそうだ。

「あの人が三嶋と鵜辺野を扼殺して遺体を損壊したんでしょうか。とてもそんな真似が出来るようには見えませんね」

「大概そうだろ。逮捕されるまで、ほとんどの殺人犯は人殺しには見えない」

 いかにも──な風体の殺人犯は、そうは多くない。もちろん、やったとしか思えない顔つきの犯人も居るには居るが、意外にも少数派だ。

「任意で引っ張ってみます?」

「いや、まだその段階じゃないだろう。何か知ってる様子だが、口を割るとは思えない」

「ガサ入れすれば証拠が出てくるかも」

「違ったら? 貴重な情報源の協力を得られなくなるぞ」

「それはそうなんですよね……」

 確証が無い限り身動きが出来ない。マズイ流れにハマッてしまった。

 それにしても、と晴翔は口調を変えた。

「ただ恋愛対象が同性なだけなのに、ずいぶん複雑ですね……」

 二階堂もそれについては同意見だった。

「冷やかす側は軽い気持ちでも、冷やかされた側は心に深い傷を負うんだろうな」

 こうして三嶋の裏の顔が少し見えてきた今にしてみれば、思い当たるふしが無いでもなかった。

 三嶋和臣の母、三嶋千尋は、人権派の弁護士で、息子が殺害された事件が発覚した当日にもかかわらず、消沈するでもなく果敢な態度で被害者のプライバシー保護のため記者会見で実名を発表することは許さないとねじ込んで来た。千尋の亡父、つまり和臣の母方の祖父のかつてのコネまで使って国会議員からも捜査本部に圧力をかけるという念の入れようで、要するにあれは息子のセクシャリティを理解していればこその母の愛だったのだと今更ながらに察しが付いた。なぜ二か月前に、警察を信頼してその件を打ち明けてくれなかったのかと恨みがましい気分にもなる。

 しかし、すでに三嶋和臣の実名報道はなされてしまっている。三嶋千尋の奮闘も、マスコミのすっぱ抜きまでは抑える事が出来なかったのだ。

 事件発生から二ヶ月が経ち、三嶋は被害者Aさんという匿名で報じられるようになってはいるが、数奇な猟奇殺人は「黄金の林檎殺人事件」などと名付けられ、依然世間の関心を集めている。幾分か下火にはなりはしても、立ち消えになる事は無い。

 ここで、ゲイに関わる連続猟奇殺人の可能性があると発表すれば、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。だが、発表しなければ注意喚起も出来ない。

 この件をどう扱うのか、早瀬管理官はどう考えているのだろうか。

「二階堂さん、午後はどうします? 伊東さんの身辺でも洗いますか?」

「まだマズイだろ。嗅ぎ回った事がバレると、あのテのタイプはキレて臍を曲げる。一旦、署に戻って電話だな」

「鵜辺野遼のアドレスリスト、片っ端から掛けてみるんですね」

 取り寄せた通話履歴と照らし合わせて、通話履歴の無い番号など、被害者と関連性の薄い番号をはじく。残った番号の利用主を洗う。地味で手間のかかる作業だ。

「しかし、これ美味いですね。早瀬管理官にも買って行ってあげましょう」

「な、おまえ、何言って……ッ」

「レジの前に置いてあったトリュフチョコレートも良い感じでしたね。いかにも女性が喜びそうな包装で。管理官、チョコの方が好きですかね」

「し、知らん。分からん。だいたい差し入れなんて」

「上司に差し入れしちゃいけないって法は無いですよね。俺、早瀬管理官の喜ぶ顏が見てみたいなぁ。唐尾係長と堀田係長の分も買えばデスクへの気配りになりません?」

「え、あ、ああ。な、なるほど、それもそうか……」

 うんうんと二階堂は何度も頷き、店員を呼んで、タルト・タタンを三ピースと個包装のトリュフチョコレートを五つ、テイクアウトで追加注文した。

 珈琲を飲み終え、カウンターで箱と紙袋に詰められたタルトとチョコを受け取り、料金を支払ってから店の外に出ると、晴翔は解放された犬のように伸びをする。

「さっきの店員、綺麗な子でしたね」

「店員って……男だったじゃ……って、おまえ、まさか!?」

「なっ? 違いますって。見なかったんですか? あの子も防犯カメラに映ってた被疑者と同じような体型だったんですよ。手の感じもなんとなく似てる気がして、それでちょっと気になって観察してみただけです」

「ああ、言われてみれば……」

「なんて言うか、妙に印象に残る子でしたよね」

 確かに、何故か印象に残る店員だった。真っ黒な髪は少し伸び過ぎていて目元が隠れてしまっていたが、かなり整った顏をしていた。男のくせに色白で、血の気は薄いので赤味を欠くのだが、白雪姫が男ならあんな雰囲気になるのでは……とそこまで考え、二階堂はなんとなく自分が気色悪くなった。男に白雪姫は無いな。

「まあ、あれですよ。体型は伊東さんを疑う根拠にはならないって事ですね。ああいうタイプ、どこにでもいますよ」

「確かにそうだな」


   ***


 先生、今日、刑事が来ました。

 何を探っていたのかは分かりませんでしたが、二番目を殺してまだ二日目なのに、もう俺を疑うなんて今度の捜査員は優秀みたいです。少し驚きました。

 警察はしつこい犬なんですよね。先生の作品でも主人公がそう言っていましたよね。警察に目を付けられたなら、俺の秘密なんてすぐに暴かれてしまうでしょう。隠してある凶器を見付けられたら終わりです。

 その前に、きちんとやり遂げなければ。

 まだ、あいつが近くで笑っているような気がします。ずっとあいつが笑っている。殺して心臓を抜いて力を奪ってやったはずなのに、あいつは、まだ俺を苦しめるつもりなんです。先生、黄金の林檎が邪悪な魂を封じてくれているはずなのに効果がありません。俺が完全な人間に成れていないからでしょうか。

 頭の中からあいつの嘲笑う声が消えない。

 あいつはいつまでも俺に付き纏う。

 憑りついている。

 あいつも警察と同じしつこい犬です。

 先生、本当はこんな事をするのは嫌です。恐いんです。つらい。苦しい。

 でも、やり遂げて強い人間にならなければ、あいつの嘲笑う声から逃げられない。そんな気がするんです。俺が変わらなければ、世界も変わらない。そうですよね。

 先生に話したい事が沢山あります。となりで頷きながら聞いて欲しい。

 会って下さい。せめて、最後に一度だけでも……

 俺は先生の為に勇気を出しているんです。


   ***


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