怠惰 sloth_02
翌朝――
二〇一六年、十月二十三日。
二階堂は微かな感慨を覚えていた。昨夜は初めて、命令でも泊番でもないのに帳場に泊まり込んだ。警察学校時代にお坊ちゃん育ちの甘えは叩き直されているので、二階堂自身は特に雑魚寝は気にならない。自分自身ではなく、過干渉の母を気にしていただけだ。高価なスーツに皺が寄り、後で母からあれこれ言われるだろうと思えば幾分か気が滅入ったが、解放感のほうが大きかった。遅過ぎる反抗期といった気分だ。
母には「しばらく帳場に泊まり込みます」とメールをしてあるが、返信がなんとも嫌味な調子だったのが少し気になる。迎えの車を寄越すから無理してでも毎日帰れという論調だった。どうせ遠くは無いのだから毎晩帰宅したほうが楽ではある。だが昨夜、晴翔と話してみて、奴と寝起きを共にすれば何か掴めそうな気がしたのだ。四角四面で柔軟さに欠ける自分を変えられるのではないかと……
晴翔と一緒に顔を洗い髭を剃っている時、出勤してきた唐尾係長に「スーツの手入れは大丈夫か?」と声を掛けられた。ともかく、もっと動きやすい服が必要だ。
午前八時。
捜査一課長の補佐をする形で唐尾係長が仕切り、捜査会議の口火が切られた。
最初に、新宿駅のみならず周辺駅、それらの沿線各駅の防犯カメラのチェックを行う旨が通達された。新宿駅だけでも膨大な量になる。物証班がその任に充てられた。多くの人員と時間が割かれることになると予想が付き、指示を聞きながら物証班の連中は早々に疲れた表情を浮かべていた。新宿駅だけでも似たような人着の人物が何人もカメラに映っており、これと断定する事が出来ない。その上、近隣の駅も含めると、それらしい人物は百人近くに膨れ上がった。ピックアップした人物の画像の解像度を上げて、殺害現場となったラブホテルの防犯カメラに映っていた人物と比較する作業が続けられていた。
スクリーニングの結果はまだ出ていないが、一件目の事件を鑑みて違法薬物MDMAの新宿での密売ルートも組織犯罪対策課に協力を要請して当たっている。ドラッグ関連の捜査は毛色が独特で他の部署の捜査員には勝手が分からない部分もある。
各班の割り当てが決められる中、安宿代わりにラブホテルを同性同士で利用するケースも昨今は珍しくないという世情も説明された。犯人は必ずしもゲイとは限らないという事で捜査範囲は絞り込めず、しかもラブホテルの関係者に男同士のカップルの情報を求めても、怪しい人物をピックアップする事は難しいということだ。この時も、うんざりしたような溜息がどこかから漏れ聞こえ、唐尾係長は目を眇めた。
早瀬管理官が指示の言を継ぐ。
「判明しているのは、三鷹の件と本件が同一犯の犯行であろうという事と、被疑者の事件当夜の服装だけです。事件の早期解決の為に、みなさんの健闘を期待します」
午前十時の定例記者会見を控えて早瀬管理官は緊張しているようだった。表情は硬く、顔色は蒼白で、頼りなく見える。二階堂は朝イチでそんな早瀬管理官を呼び止め、三嶋と鵜辺野、両者の携帯端末に共通して登録されていた電話番号の捜査は自分達にまかせて欲しいと直訴した。そのように手配します、と請け合ってくれた通り、捜査会議の席上でも例の番号の持ち主の捜査は二階堂と晴翔に任じられた。上からの命令という形式で、最初に手掛かりに気付いた二階堂――実際は晴翔だが――を優遇してくれたという事だ。
捜査会議は淡々と進められる。報告は昨夜の会議であらかた済んでいるので、今後の捜査方針と具体的な指示が中心になる。すべき事が手際良く割り振られていく。
「四谷署に話を通しました。地取り班は新宿二丁目の同性愛者が集まる店を重点的に聞き込みをしてください」
新宿二丁目は全国屈指のゲイタウンで、狭い地区に同性愛者が集まる店が約四百五十件ほどもひしめいていると言われている。その事が告げられると、地取り班――特に但馬は嫌そうに顔を歪めたが、昨日、郷田に一喝された事が堪えたのか軽口は叩かなかった。
「鑑取り班は被害者遺族に、物証班は防犯カメラのチェックと並行して、遺留品である水晶の彫刻を重点的に当たってください。特捜班は被害者の交友関係を洗うように」
「捜査会議はここまで。各員気を引き締めて捜査に当たれ」
唐尾係長の号令を合図に、捜査員全員が勢い良く立ち上がった。それぞれ捜査資料と装備の入ったカバンを掴んで講堂から出て行く。
「よし、行くか」
「はい、二階堂さん」
晴翔も先に歩き出した二階堂の後を追う。
***
番号の照会はすでに済んでいた。
しかも、伊東の住居は、吉祥寺三丁目の携帯基地局の圏内にあった。二階堂が最初の捜査本部の時から引っ掛かっていた、二台目の携帯端末。三嶋が所持していたそれの奇妙な通話履歴は、すべて吉祥寺三丁目の携帯基地局から発信されていた。
伊東は怪しい――
なぜ、三嶋殺害事件の第一期期間捜査本部が解散になる前に、伊東が捜査線上に上がらなかったのか……おそらく、事件当夜のアリバイがあったというだけでなく、伊東が男性だった事も捜査対象から外された理由だっただろう。防犯カメラの映像が出るまで、榊原医師の「予断を持つな」という忠告にも拘らず、捜査員みんなが犯人は女性だと思い込んでいたからだ。思い込みで目を曇らせるな。そう叩き込まれていたのに情けない。
二階堂は後悔と自己嫌悪で落ち込みそうな自分を叱咤しながら歩いた。
駅に向かいながら携帯端末から架電して話を聞かせて欲しい旨を伝えると、ニュース番組か何かを見て、すでに鵜辺野遼が殺害された件を承知していたようで、今度は鵜辺野の件ですねと向こうから言ってきた。
「今日は午後から打ち合わせで出掛ける予定があるので、それまでなら構いませんよ」
意外にも協力的な態度で、二階堂は思わず晴翔と目を見合せた。
伊東の住むマンションは、五階建ての比較的新しい中層ビルで小綺麗な外観だった。エントランスはオートロックで、エレベーター脇にある狭そうな管理人室は無人だ。常駐ではなく、掃除業務を担当する程度なのだろう。よくある事だ。
インターフォンを押すと待ち構えていたようにすぐさま自動ドアが開かれ、同時に機械を通した硬い声が「どうぞ」と言った。エレベーターで五階に上がると、伊東は玄関ドアを開け、廊下に立って刑事の到来を待っていた。
その姿を見た瞬間、二階堂はぎくりとした。小柄でかなり痩せている。身長は百六十センチほど。被疑者と特徴が被る。
「入ってください、散らかっていますが……」
二階堂と晴翔はそれぞれ警察手帳を提示し、会釈をしてから伊東の勧めに従う。
「綺麗にしていらっしゃるじゃないですか」
晴翔は場違いに朗らかな声で言い、廊下に設置されていた本棚に目を向けた。二階堂も本棚に並べられたタイトルを何とはなしに目で追う。あっ、と晴翔が声を上げた。
「この本、『黄金の林檎』ですよね。伊東さんも読んでいらっしゃったんですか」
「え? ああ、はい。なんとなく好きで……」
ニュースでも取り沙汰され、捜査会議でも話題に上った小説だ。本当に犯人がその作品になぞらえて犯行を行っているのかどうか、早瀬管理官と唐尾係長が本を読んで判断すると言っていた。晴翔は図々しく本棚に手を伸ばし、疑惑の一冊を手に取った。パラパラと晴翔がページをめくるのを二階堂は横から覗き込む。ぴた、と晴翔の手が止まった。理由はすぐに分かった。白紙のページに作者のサインが書かれていたのだ。
「驚いた。これサイン本ですよね。わざわざ入手したんですか?」
「いえ、偶々です。いつもの新宿の書店で購入したら偶々サイン本だっただけですよ」
「へえ。運が良かったですね。サイン本を欲しがる人は多いでしょう。うちの祖母も兵藤静香のファンなんですよ。全作揃えてるって威張ってましたが、サイン本は持っていないと思いますよ」
「そうですか……」
伊東は無駄な雑談に応じるつもりは無いようだ。
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