【第二章/怠惰 sloth】
怠惰 sloth_01
観察者という性癖を持つ自分に気付いたのは、まだ幼い頃だった。
ゴミを捨てる男を見たのだ。いや、男ではなかったかもしれない。早朝の朝靄立ち込める公園でその人物はゴミ箱に幾つもの包みを捨てていた。
私が観察者になったのは、あの日だ。
一九九四年、四月二十三日。
その日付は忘れない。茫洋とした蛹の微睡みに耽っていた私を、本性の姿へと羽化させてくれた記念すべき事件が起きた日だからだ。いや、この記述は正しくない。本当の意味で事件が発生した日時は、それよりも幾らか以前に遡るからだ。
何か一抹の予感めいたものがあったのかもしれない。その日に限って、理由もなく夜明け前に目が覚めてしまった私は、母の目を盗んで近所の広大な敷地を持つ恩賜公園へ出掛けた。武蔵野三大湧水池として知られる池を中心としたその公園は、幼い私のお気に入りの探検場所だった。公園の植え込みの茂みを危険な敵地の森に見立て、人目に付かないよう樹々の陰に身を隠し足音を忍ばせて歩き回るのが当時の私の日課だった。
いつも通りに身を隠して公園内を渉猟していた時、その人物を見付けた。相手は私に気付いていなかった。当然だ。私は誰にも見付からずに雑木林の中を歩く技術に磨きをかけるのに、日々血道を上げていたのだから。
その人物を目に留めた私は、しばらく相手の動向を観察して、小首を傾げた。とにかく奇妙な人物だった。激しい運動をしているでもないのに苦しそうに肩で息をしていた。そうしてたった一人で黙々と公園内のゴミ箱に大量のゴミを捨てていた。
公園の入口付近に白いワゴン車が停めてあり、何度か往復してゴミを運んでいる。
私は目が離せなかった。なぜなら、そのゴミを捨てていた人物があられもなく泣いていたからだ。しゃくりあげ、腕で目元をぬぐい、男か女か判然としない動物のような低くくぐもった声を漏らしていた。
気味が悪いとは思わなかった。ただどうにも様子が気になったので、公園の鬱蒼とした樹の陰に隠れ、二十分近くもその人物を観察し続けた。
私がじっと見ているのに気付かずに、その人物は喘ぎながらゴミを運び、ひとつかふたつずつゴミ箱に投げ込んで行く。時折、嗚咽を漏らしながら。そうしてゴミをすべて捨て終えると、その人物はありふれた白いワゴン車に乗って公園から去って行った。後を追ったが見失ってしまった。当たり前の話だが、子供の足では追い切れなかった。なぜ、あの車のナンバーを記憶しておかなかったのかと悔やまれた。私には容易い事だったのに、だからこそ、泣いていた人物に気を取られて簡単な事を失念していたのだ。
後日、ニュース報道を見て、捨てられていたのがバラバラに切り刻まれた遺体だったと知り、全身に甘美な痺れを感じた。
私は理解した。
あの人物は人殺しだったのだ。
それにしても、バラバラ遺体を捨てていたという事は、自分で殺して切り刻んだのだろう。誰かが殺した遺体の処理だけを委ねられたという可能性もゼロではないが、蓋然性が低い。いまだ逮捕されていないという事は、犯人は極めて慎重で他人を信用しない性格であるはずだ。そういう人間は自らの行いが露見する危険は可能な限り排除する。秘密を共有する共犯者など──ある種の特別な目的がある場合を除いて──居ないに越したことは無い。
おそらく単独犯だ。
ならば自分の行いの意味は重々承知していたであろうに、どうして泣いていたのか気になった。
泣くくらいならしなければいい。
するのであれば泣くべきではない。
不合理だ。
その心の奥底を覗き込みたくて、闇の底を盗み見たくて、ゴミを捨てていた人物を探した。だが、警察が総力を挙げて捜査しても洗い出せなかった犯人を、無力な子供が見付け出せるわけもなく、私の埒も無い努力は徒労に終わった。
だから、代わりに別の者を観察する事にした。私は元々クラスメイトの心を掴む術に長けていた。みんなに好かれていた。言葉を道具に仕立てるのは簡単だった。自分が悪者にならないよう慎重に身を守りながら、策略を巡らし、人心を操作した。遠く離れた場所に一石を投じ、その影響がドミノ倒しのように波及して、ターゲットが非難されるよう仕組んだのだ。狙い通りにターゲットが追い込まれると、それまで味わった事の無い強烈な快感に包まれた。初めて自分の手で射精したのは、深夜、自室に籠って、一人でその事を思い返していた時だ。
最初は些細な悪戯だった。ターゲットを虐められる立場に追い込み、無知なクラスメイトに攻撃させて、泣かせ、観察し、決壊に至る理由を分析した。どこをどう突けば事態が望み通りに転がるか、その筋道が私には手に取るように分かっていた。物事の行く末を決定づける力点が、輝く星のように浮かび上がって見えるのだ。
だから、やった。
慣れるうち、望む状況をより巧妙に仕組めるようになっていく。大人から見た私は、典型的な「誰もに好かれる利発な良い子」だったが、その仮面の下で、密かな快楽に酔い痴れていた。
大勢の人間を観察するうちに気付いた事なのだが、どんな人間にも、暗く歪んだ、およそ言葉になど出来そうもない願望があった。相手に気付かれないようそこに付け込めれば大抵の人間は計算通りに動かせた。ほんの二言三言、善良なふりで囁くだけでいい。
人が崩れるさまが見たくて、闇に落ちる崖の縁で躊躇している者を突き落とし本性を暴いてみたくて、私は自分の力を振るった。我慢できずに。
数え切れないほど多くの人間を惹き込み、洗脳し、支配した。
誰もが善良に見える私に好意をむけた。誰も私の微笑みに抗えなかった。
駒だ。人間は私の楽しみの為に存在する駒だ。
十四歳になったある日、人が泣き崩れるに至る経過を観察するだけでは満たされず、密かに、自分がどこまで他人の運命に介入出来るのか試してみた。結果、クラスメイトの少女が一人自殺したが、私の心を占めたのは恐怖でも後悔でもなく、納得だった。
そうか、こんなものか、と。
望む言葉を囁いてやれば、人は簡単に逸脱する。
他人の運命を支配できるという実感には性的な興奮と言い知れぬ喜びがあった。
私は夢中になった。溺れた。
言葉には魔力がある。私はその魔力を効率良く使う才能を、生まれながらにして与えられていたのだ。与えられたモノを利用するのは礼儀だ。いや、神に祈りを捧げ、感謝を示す行為と同義ですらある。すべき事だからする。私は、ただ運命に従っただけだ。
為すべきことは、粛々と為されねばならない。
***
あなたの手紙はいつも嬉しく拝読していました。
ただ、今回は少し悪ふざけが過ぎるのではないでしょうか。人を殺したなどと軽々しく言うべきではありません。例え嘘でも、それを聞かされれば不安になります。もう悪い冗談はやめなさい。もしも冗談ではないと言うなら、あなたは妄想に囚われているのでしょう。冷静になって現実を見てください。あなたは優しい人のはずです。どうか、その優しさを正しく使ってください。
***
先生、俺は嘘なんてついていません。
先生は冗談はやめろと仰っていますが、本当は喜んでいらっしゃるのですよね。俺だけが先生の本当の気持ちを理解できます。先生もそう言って下さったでしょう。俺だけが先生の作品を正しく読み解けるって……
信じてください。俺は、先生の作品『黄金の林檎』を参考に殺人を行いました。ニュースをご覧になってください。俺が何をしたのか、何も分かっていない奴らが、意味を取り違えて好き勝手言っていますが、俺は先生に為にあれを実行しました。まだ報道されていないようですが、きちんと現場にメッセージも残しました。どうしてニュースであれを言わないのか腹が立ちます。すみません。きっと俺の不手際です。あれが先生に届かなければ、せっかくした事が無駄になってしまう。
でも、俺は強い力を得ました。もう脅かされません。これからは俺が世界を脅かす番です。見ていてください、俺は先生になります。
あの日の約束は果たします。
俺だけが先生の言葉を正しく理解できるんです。俺だけが先生の真の理解者になれるんです。信じてください。
先生、俺に会ってください。会ってくれれば何もかも本当だと分かるはずです。
***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます