暴食 gluttony_08

 犯人の人着が判明してからも五時間に及ぶ現場周辺での聞き込みが続行されたが、成果は無かった。二十一時過ぎ、唐尾係長が判断し、疲弊した捜査員全員が捜査本部に帰営した。報告を兼ねた捜査会議が開かれ、その日は解散になる。

 とは言え、明日の朝も早い。帰宅する者は少なかった。独身寮を出た後でも地価の高い新宿に住居を構えるのは経済的に厳しい。あちこちの新宿署から上がって来た本庁組は言わずもがな、新宿署組も自宅は郊外にある者がほとんどだ。自然、通勤時間を睡眠に充てる為に帳場の立てられた講堂に泊まり込んで、署の風呂を使い、交代で雑魚寝になる。勝手知ったる――で荷物を置くと、気心の知れた者同士、連れ立って食事に出て行く。

 世田谷に自宅のある二階堂は、宿直か上からの命令でもない限り、どんなに遅くなっても自宅に帰ると決めていた。枕が変わると眠れないというほど繊細ではないが、母が心配して煩いのだ。二階堂にその自覚は無かったが、実家が裕福な彼には日々の通勤にタクシーを使う金銭的余裕がある事も影響している。

 講堂から廊下に出た二階堂を、晴翔が見咎めたような様子で追いかけて来た。無視しようとしたが、エレベーターの前で追いつかれ、声を掛けられる。

「二階堂さん、メシ、一緒しませんか?」

「なぜ?」

「え? なぜって……」

 眉間に深い皺を寄せ、この上ない仏頂面で振り返った二階堂の取り付く島の無い態度に出鼻をくじかれ、僅かに怯んだ様子を見せたが、なぜか晴翔は食い下がってきた。

「二階堂さん、帰るつもりですよね?」

「どうして分かった?」

 はああ、と晴翔は額に手を当て大仰に溜息をついた。

「見れば分かりますよ。雑魚寝組なら食事を調達するか、外で食べ終えたら、署に戻って来るので財布以外は持って出ません。荷物を持って出るって事は、帰宅するつもりだって事です。そんなのもったいないですよ。これからしばらくコンビを組むんですから、今夜のうちに親睦を深めておくべきだと思いませんか?」

「まったく思わん」

 つっけんどんに拒絶する二階堂に、晴翔は苦笑を浮かべた。

「二階堂さんって空気読めない人なんですね」

「はあ? 何を言っているんだ、君は?」

 さすがに二階堂も気色ばんだ。晴翔は意に介さぬ様子でひらひらと手を振る。

「少しは気心が知れていた方がお互いにやりやすいと思いませんか? それでなくとも二階堂さん、少し問題がある感じですよね。捜一でも浮いてるんじゃないですか?」

「浮いてる? 俺がか?」

「そうですよ。他の誰の話もしてません」

「誰に聞いた?」

「いや、誰かに聞かなくても、今日は後半から組んで聴取に回りましたし、その時の二階堂さんを見てれば普通は分かりますけど……」

 むっ、と二階堂は半眼で晴翔を睨んだ。目の前の奴が嘘をついているようには見えないが、信じられない、そんなに短い時間で自分の欠点が見抜かれたのか?

「時間が無いんですから、とっとと行きましょう。あと、帰宅はやめて雑魚寝してみたほうがいいですよ。下らない付き合いに思えるかも知れませんが、同じ釜の飯を食うって大事なんですよ。そうする事でしか培えないモノがありますから」

 年下のくせに生意気に説教か――とカチンと来たが、なぜか一理あるような気もして二階堂は黙り込んでしまった。自分が八係で浮いているのは事実だ。

「荷物どうします? 捜査資料が入ってるなら持ったままの方が助かりますけどね」

 結局、荷物を持ったまま二階堂は晴翔に従った。


   ***


 思い出横丁の近く、排気ガスで黒く汚れた古いビルの五階の奥にその店はあった。看板は出ていない。玄関ドアの横にLEDライトの雪洞が二つ、幽玄世界への門のように置かれていたのが唯一の目印だった。

「幼馴染みの店なんで無理を聞いてくれるんです。メールしておいたので、適当に晩飯になるものを用意してくれてると思います」

 はあ、としか言えず、二階堂はドアを開けた晴翔越しに所在無く店内を覗いた。どんな店に連れて行かれるかと警戒していたが、京都風の雅な内装のバーだった。カウンターの七席しかない狭小店舗だ。照明の光量は落とされていて、柔らかなオレンジ色の光が、穏やかに店内を照らしている。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの中から三十代半ばに見える和服の女性が声を掛けてきた。緩く纏めた上げ髪には透かし彫りの銀かんざしが揺れている。水商売にしては薄化粧で、控えめな印象の美人だ。落ち着いた色味と柄の着物からも、どことなく古風な人柄に思える。

「よっす、志保姉。悪いね、もう店仕舞いなのに」

「気にしなくていいわ。いつもの事だもの。それよりお連れの方は?」

「二階堂崇彦さん。警視庁捜査一課のスゴイ人」

「まあ、捜査一課っていうと、晴翔と一緒?」

「あ、違う、違う。俺は新宿署の刑事課、この人は本庁の捜査一課。しかも俺は巡査長でこの人は警部補。階級も年齢もこの人のほうが上。ですよね、二階堂さん?」

「あ、ああ……」

「晴翔、二階堂さんが困っていらっしゃるわよ。とりあえず座ったら?」

「すいません、好きな席に座ってください」

 席に着くとすぐにローストビーフ丼と、大根と炒りじゃこのサラダが出て来た。トロリとしたグレイビィソースのかかった薄切り肉には、山葵ではなくホースラディッシュが乗せられている。温泉卵も添えられていて、それを崩して絡ませると絶品だった。

「美味い……」

 無意識に呟いてしまい、二階堂は妙な悔しさを感じた。ここの料理を認めるのは、無理やり自分を連れて来た晴翔を認めるようで抵抗がある。二階堂の複雑な心の内を知ってか知らずか志保は含むような笑みを浮かべていた。何か言いたげな意味深長な笑みなのだが、不思議と下品ではない。

「初めまして。狐塚志保と申します。お見知り置きを」

 志保は名乗りながら着物の合わせから流れるような所作で名刺を取り出し、二階堂が箸を置く手間を取らずに済むように、淡い緑の冷茶が満たされたグラスの横に置いた。

「名刺はお食事を召し上がってからご覧ください」

 二階堂はグラスの横に置かれた名刺に目をやり、承諾の代わりに軽く頭を下げた。

「志保姉の実家、寺なんですよ。弟は慶照けいしょうっていういかにもな名前なのに、住職を継ぐのが嫌で不動産会社で営業職やってるんです。ケイショウ和尚のほうが似合うのに」

「それ、初めてのお客さんに言うコトかな?」

「それはともかく、志保姉、すっごい美人でしょ。そのうち機会があったらデートにでも誘ってみたらどうです? 弟は変な奴なんですけど実家は寺なんで身元は確かですよ。どうせ二階堂さん彼女とかいないでしょ?」

「な……っ!?」

 おまえにそんな事は言われたくない、余計なお世話だ、と喉まで出かかったが、二階堂は揶揄われ慣れていないので言葉が出て来ない。ただ真っ赤になって口をパクパクさせるのが関の山だった。若干の哀れみを眉尻に滲ませて志保が助け舟を出す。

「こら、晴翔、揶揄い過ぎよ。二階堂さん本当に困ってらっしゃるから」

「まあまあ、志保姉。この人、良い客になるよ、たぶん」

 志保は呆れて溜息をつき、大儀そうに額に細い手を当てた。

「どうです、本気で紹介しますよ、二階堂さん?」

「いや、いい……」

 二階堂がやっとの思いでそれだけ言うと、晴翔はクスッと厭らしく笑って片目を瞑った。

「そっか、そっか。早瀬管理官も美人でしたもんね」

「ど、どういう意味だ?」

 ぴくっ、と二階堂の片頬が痙攣する。

「別に。なんでもないですよ。ただ、美人だなぁと」

「春夏秋冬刑事、仮にも上司である早瀬管理官に対してそんな言い方は失礼だろう?」

「そうですかね? 志保姉、美人って褒め言葉だよね?」

「う~ん……私は美人って言われたら嬉しいけど、今のご時世じゃ容姿を褒めるのはセクハラになる場合もあるし、受け取り方は人それぞれだし……状況にも寄るわね。そんな難しい話は苦手だわ。私は奥でグラスを磨くわね」

 水を向けられた志保は苦笑いを浮かべて、カウンターの奥のスペースに引っ込んでしまった。逃げ口上で言った通り、シンクの横に並べてあった洗浄済みのグラスを、ひとつひとつ白い布巾で磨き始める。

「それにしても、捜査一課の管理官が女性だなんて珍しいですよね?」

 晴翔はなおも早瀬管理官の話を続ける。

 二階堂は下を向いて黙っていようとしたのだが……

「ねえ、二階堂さん、本庁の一課に女性がいるなんて珍しくないですか? ねえ、ねえ、早瀬管理官ってどういう人なんですか?」

 晴翔が顔を近付けて何度もしつこく問いかけてくるので、ついイラッとして答えてしまった。

「警察庁からの出向キャリアだ」

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