90 訪れなかった未来

「……大叔父が……色々申し訳ない……」


 扉を叩く音ノックと共に入って来たエーレが、どこからデューイの発言を聞いていたのか、片手で額を押さえていた。


「お気になさらず、殿下。……おちですか?」


「ああ。彼女が気が付いてくれたのであれば、まだ、納得して公都ザーフィアに戻る事が出来る。レアール侯爵。陛下の事を含め、公都で落ち着いたら、今度こそを送らせて貰いたいのだが、構わないだろうか」


 ピクリとデューイの片眉が上がった。


「……お送り頂くなら、お好きになさって下さい。最終的には、当事者同士話をして下さらないと困ります」


 エーレは一瞬虚を突かれたようだったが、すぐにデューイの言葉が、の「保留」から、一歩前進している事に気が付いて、口元に柔らかい笑みを浮かべた。


 ゆっくりとキャロルの近くに歩み寄ると、耳元でそっと囁く。


「今度会う時は、最初からきちんと話をさせてくれるかな。お互いの、を――もう一度」


「―――」


 その意味を察したキャロルが、目を見開いた事に満足するように、エーレはキャロルから離れた。


「目が醒めたばかりで、まだ辛いかも知れないが…すまない、ヒューバートとルスランを中に入れても?出立の挨拶もあるが……顔を見て、安心したいんだそうだ」


 

 その後、ヒューバートやルスラン、左腕は包帯を巻かれて固定されているが、歩く事に支障はないヘクターなど、様々な使用人達が、入れ替わり立ち替わり、目が醒めたと言うキャロルを、喜色満面、訪ねて来た。


 ランセットだけは、キャロル同様とても起き上がれないので、ヘクター経由で、自分が事を伝えて貰った。


 そうこうしている内に、エーレ達は侯爵邸を出発し、日もすっかり高くなった頃、昼食が取れるのか、確認しようとデューイが再びキャロルの寝室を訪れると、キャロルは少しだけ身体を起こして、手紙を読んでいるところだった。


「キャロル。小麦団子の野菜スープキャリエールくらいだったら、胃にも優しいし、食べられるんじゃないかと、料理長が言っているんだが……食べられそうか?」


小麦団子の野菜スープキャリエール…?食べた事がないので、分からないですけど…せっかく料理長が、そう言ってくれてるなら……」


 そうか、と頷いて、侍女に指示をしたデューイが、寝台ベッド横の椅子に、そのまま腰を下ろした。


「……アデリシア殿下は、何と?」


 キャロルが読んでいるのが、エーレが置いて行った、アデリシアからの手紙だと知ったデューイが、さりげなく内容を問いかけた。


「………」


 キャロルが答えを返すまでに、少し、間があった。


「………お父様」

「ああ」


「ローレンスの名がくなっても、レアールの名があると…おっしゃって下さった件、まだ…生きていますか」


「急に、どうした。生きているか、いないかと問われれば、もちろんまだ生きているが」


「私も殿下も……生きたまま、2ヶ月近く意識を取り戻さないと言う可能性は、選択肢に入れていなかったんです。クラッシィ公爵家の不正の事もあるし、いくら後宮で勉強中と言っても、表舞台に出ない限界はあるし…1ヶ月たっても意識が戻らないようであれば、表向き『キャロル・ローレンス』は、側妃の地位を妬んだ、クラッシィ家の刺客により他はないと、殿下が……」


 ああ…と、得心したように、デューイが頷いた。


「結果的に、おまえが、イルハルトに殺されたと言う仮定の場合と、同じ事になった訳か。だが、おまえは生き残った。カーヴィアルでは、見做みなされてしまうのか……」


「はい………」


 手紙を持たない、キャロルの右手が僅かに震えている。

 デューイは、安心させるように、キャロルの左肩を、ポンと叩いた。


「心配するな。この屋敷で、おまえが戻って来る事を、喜ばない者はいない。何なら今日からでも、キャロル・レアールを名乗ると良い。していた姫君の、お戻りと言う事で――な」


 もともと、療養の噂はあったのだから、いくらでも逆手に取れる。


「すみません……」


「もう、あれこれ謝るな、キャロル。私を父親として認められないと言うなら、話は別だが、そうではないと思ってくれるなら、むしろ好きなだけ頼ってくれて良い。まったく、そう言うところは、カレルそっくりだな」


「お父様……」


「回復したら、少しずつ私の仕事を手伝って、覚えていけば良い。キャロル・レアールには何もないと思うな。キャロル・ローレンスとして過ごした下地があったからこその、現在いまだ。今更ダンスだのお茶会だの、貴族の姫君めいた事は、おまえには求めないから、安心して良い」


 そんなものは、カレルにだって求めてない。

 そう、茶目っ気たっぷりに、デューイは笑った。


「殿下の手紙は、それだけか?」

「概ね、そうですね……」




〝私も、何も打算だけで君を後宮に入れようとしていた訳じゃないよ。君と2人で帝国くにを動かしていくのも、楽しそうだと思ってはいたんだ。――君を本気で抱こうかと、思えたくらいには、ね〟




「……っ⁉」

「キャロル?」


 頬をサッと赤らめて、勢い余って手紙を握り潰してしまったキャロルに、不審そうにデューイが眉をひそめたが、キャロルは大きく首を横に振っただけだった。


「…な…んでもないです…ちょっとした私信です…っ」


 淡々と、「キャロル・ローレンス」をこの世から消してしまうと書いた傍らで、何を書き足しているのか、あの皇太子サマアデリシアは。


「…キャロル・ローレンスはんですけど…殿下はちゃんと、私自身を見て、近衛隊長として、認めてくれていたんだな、と……」


 最後の一言は余計だが、一緒に帝国くにを動かす――滅多に他者たにんを頼らないアデリシアの、それは最大に等しい褒め言葉だと、キャロルには分かる。


 デューイは深くは聞かず、そうか…とだけ、答えた。


 エーレと出会っていなければ、そんな未来もあったのかも知れない。

 一瞬だけ、そう思った事は、手紙と共に墓場まで持っていこう――キャロルは密かに、そう決めた。



 ルフトヴェーク公国の皇帝崩御の報が、国内を巡ったのは、それから5日後の事だった。

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