第九章 雪の果て 君のとなり  88 目覚め

「殿下。娘は――」


 侍女がデューイの帰還を告げてから、ほとんど時間はたっていない。

 荷解きや、着替えすら惜しいと言ったていで、デューイがキャロルの寝室に、足早に入って来た。


「……っ」


 血色けっしょくを失くして、寝台ベッドに横たわるキャロルに、一瞬、言葉を詰まらせる。


「私が侯爵邸ここに着いたのは、彼女がイルハルトと剣を交えてから、2日後。既に応急処置は済んでいたが、かかりつけ医曰くは、右の上腕骨が見える程に、深く斬りつけられていて、あと少しで、腕ごと落とされるところだったと……」


 さすがに、そこまで手紙には書けなかったエーレは、ここで初めて、正確な事実をデューイに告げた。


「彼女専属の護衛と、3人がかりで何とかイルハルトを地に沈める事は出来たものの、その護衛も、一人は腹部をえぐられて、彼女同様に昏倒していて、もう一人も、左の二の腕を、骨が見える程に斬りつけられた結果、寝台ベッドで身動きが取れない状況…ただ、ヘクター…と言ったかな。唯一、彼は意識があるので、状況は後で確認して貰えれば」


 言外に、とても護衛を責められる状況にない事を示唆されたデューイが、憤りのやり場を失くして、唇を噛み締める。

 峠は越えていると聞いて、何とか落ち着いたと言った感じだった。


「…これまで、領をお預かり頂いて、有難うございました、エーレ殿下。後は私が娘をます。どうぞ殿下は、本来の職務にお戻り下さい」


「……っ」


 目に見えて、エーレの表情が揺らいだ。


 デューイとしても、彼が本気でキャロルを欲している事は、疑うべくもないと――ここまできて認めない訳にはいかなかったのだが、今はそれ以上の、喫緊の問題があった。


「殿下。陛下のご容態が、抜き差しならないところまできているようだと、エイダル公爵より言付かっております」


「なっ…⁉」


「もしかしたら、殿下がここから公都ザーフィアに向かわれても、間に合わないかも知れない、と。エイダル公爵は、一足先に宮殿に向かうと仰せでした」


「陛下…が……」


「それと、エイダル公爵は、陛下に万一の事があれば、くだんの書類を使って、公国くには全て切り取った上で、エーレ殿下にを繋ぐと言い切っておいででした。公爵自身のお人柄に加えて、書類自体の破壊力も大きい。窮鼠が牙を向いて、宮殿内で血を見る可能性も否定しきれません。公爵は、もとより武に優れた御方ではない筈。今日はもう、次の宿に着くまでに日が暮れますから、無理にとは申しませんが、明日には一度、公都ザーフィアにお戻りになられた方が良いと、敢えて献言申し上げます」


 公爵自身のお人柄…と、なるべくデューイはオブラートに包んだつもりだったが、要は遠慮斟酌なく、第二皇子派をにかかるだろうと言う事だ。穏便に物事を済ませられるような性格では、決してないのだから。


 エーレも、それについては反論が出来なかった。

 そして、今はこれ以上、侯爵邸ここにいられない事にも。


「支度は屋敷の者にさせますから、ギリギリまで、娘の側に居て下さって構いません。私は着替えと…殿下が肩代わりして下さっていた書類の確認を、急ぎ行います。必要であれば、後ほどまとめて確認に、顔を出させて頂きますので……」


「分…かった。では、出発は、明日の朝に……」


 エーレの葛藤には、敢えて見て見ぬフリで、デューイが部屋を退出する。

 エーレはしばらく、キャロルを見つめたまま、身動き一つ出来ずにいた。


*        *         *


 陛下ちちが危篤らしいんだ…と、キャロルの脳裏に声が響いたのは、何時いつぶりの事だったのだろう。

 長く眠っていると言う感覚だけが、キャロルの中にはあった。


「だけど陛下はもう、体調を崩してから長かったし、近頃、公務はずっとエイダル公爵と分担していた。実感が乏しいのは…君からすると、親不孝になるのかな……」


 だが今日は、いつもよりハッキリと、エーレの声が聞こえているような気がした。


「キャロル」


 頬に触れるてのひらの感触も、ふわりとくすぐられる程度だったのが、ハッキリと、掌から、彼の体温が伝わってくる。


「いったん、公都ザーフィアに戻るよ。アデリシア殿下からの手紙は、置いて行くから、もし目が醒めたら、目を通しておいてくれるかな。君の決断は、君自身の口から聞きたいから…後をおお叔父上に任せても良さそうになったら、また、戻って来る」


 吐息さえも、耳元で聞こえるような気がした。


「首席監察官でも、第一皇子でも……もし、皇帝になったとしても、俺の気持ちは変わらないから」


 皇帝?


 皇子でさえも、容量越えキャパオーバーだったところに、更なる爆弾を落とされたようで、キャロルの意識が、いつもより引き上げられた気がした。


「だから君だけは――肩書きの向こう、皆と同じところでひざまずかないで欲しい。俺の…隣にいて欲しい。お願いだ、キャロル……」


 エーレの掌が、頬からゆっくりと首の後ろ側に伸びて行き、ほんの少しだけ、頭を持ち上げられた気がした。

 唇に触れる、柔らかな感触は――五年前の、あの日の既視感デジャヴを、感じさせた。


 ゆっくりとまぶたを持ち上げたキャロルの瞳に、唇を離して、驚いたようにキャロルを見つめるエーレの姿が映った。


「……キャロル……?」


 エーレの顔も、声も、近過ぎて、キャロルも絶句したままだ。


 現実リアル王子様エーレのキスで目が醒めた茨姫キャロル――厨二ちゅうに病だと自己嫌悪していたランセットを、全く笑えない状況ではないだろうか。


 自分は無意識の内に、そんな展開を年代記クロニクルに望んでいたのだろうかと、思わせる程に。


 目を見開いたまま、一言も声を発しないキャロルを心配したのか、エーレの掌が、不安気に、キャロルのこめかみから、頬の辺りを撫でる。


「キャロル……俺が、分かる?」

「…エー…レ……」


 いったいどのくらい眠っていたのか、声を出すのも億劫になっていた自分に、キャロルは少し驚いたが、エーレは、そんな事は些細な事だとでも言わんばかりに、とろけるような、甘い微笑を浮かべた。


「ああ。それで良いよ。――それが良い」


 5年振りに顔を合わせて、あの時のまま、敬称を付けずに、自分を呼んでくれる。

 充分だ。


 エーレはそのまま、今度は深く、長い口づけを落とした。

 あの日と同じ様に。


「ん…っ」


 キャロルが驚いたように身体を跳ね上げ、それが右肩の怪我にさわったのだろう。

 エーレの唇から逃れた僅かな隙間に「痛っ…」と、声が漏れた。


 小さな声だったが、エーレの耳に届くには、充分だった。ごめん!と、愕然としたように、エーレがキャロルから離れた。


「怪我人に何をやってるんだ、俺も……あ、いや、とりあえず、レアール侯爵に知らせてくるから!」


 口元に手をやり、僅かな羞恥を見せながら、慌てたようにエーレが寝室を後にする。

 見送ったキャロルの表情かおは――こちらも赤い。肩の痛みも、この瞬間は、どこかに吹き飛んでいた。

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