87 エーレvsアデリシア(3)

 殊、この期に及んでも、キャロルを後宮から下がらせる方法は、実は一つだけ存在している。

 それが分かっていて、エーレに退しりぞくと言う選択肢は存在しなかった。


「宰相閣下のお心遣いは、有難く伝えさせて頂きます。国内が安定しました暁には、から、皇妃をお迎えになる事も検討されていらっしゃるようですので、まずもって、前向きに着手をされるかと」


「…………ほう」


 言葉と言う刃で斬り合いをしているように、クルツには感じられた。


 手紙のやりとりから感じてはいたが、やはりエーレは、アデリシアと対等に会話をする事が可能な、稀有な人物だ。アデリシアの表情に、少なからず場を楽しむ様子が垣間見える。


「今の両皇子に釣り合う妙齢の令嬢が、国内の高位貴族にはいないと耳にしていたが…いささか、情報の精度を欠いていたかな」


「少なくとも皇嗣殿下には、既に決めた〝華〟がおありになり、ずっと、その華が咲き誇るのを待っておられたと言う点では…そうなのかも知れません」


「…その〝華〟が、侯爵家に?」


「侯爵家を飛び立った種が、思わぬところで芽吹いてしまったもので…今は戻って来てくれるのを、待っているところのようですね。ただ、が多くて…困惑されている事も、また確かです」


 エーレとアデリシアの視線が一瞬絡み合い――そしてそれが、やがて笑いへと変わった。


 滅多にないアデリシアの笑い声に、困惑したようにクルツが視線を上げると、アデリシアが軽く片手を上げて、ペンを置けと言う風な仕種を見せた。


 チラりとエーレも、そこに視線を向ける。

 ここからは、非公式と言う事だ。


「…〝手紙の君〟でも、彼女は御せませんか」


「私は…彼女が望む事への手助けをしてきただけですからね。帝国そちらが良すぎて、私の想像を遥かに飛び越えて行ってしまった。おかげで、私がずっと、彼女を追いかける側ですよ」


 エーレ・アルバート・ルーファスの知識を持って、アデリシア・リファール・カーヴィアルに仕えるのだ。クルツなどが深く考えなくても、無二の逸材に成長するのは目に見えていた。


「まだ、追いかけますか?」

「ええ、もちろん。方法がある事は分かっていますから」


 退くつもりはない――エーレの言外の主張を、もちろんアデリシアも感じ取っていた。


 堂々と、他国の次期皇帝の婚約者を奪うと言っているのだから、それは公式記録に残せる筈もない。

 アデリシアも、エーレが来た時点で、それが分かっていたから、書記を控えさせたのだろう。


 まだ婚約段階であり、その上、皇妃ではなく側妃である時点で、抜け道は確かに存在していたのだから。


「彼女からは、自分が刺客を止められなかった場合は、どこかの貴族に毒殺された事にでもして、後宮から名前を消してくれれば良いとは言われていますよ。その発想をさせたのは…貴方なんでしょうね」


 エーレが「まだ方法がある」と気付いていなければ、アデリシアも言い出す事はなかった話だ。


「私が直接的に彼女に指示をする事はありません。ただ…くだんの公爵家失脚の折には、の罪が一つ増えても構いませんよね?と、お願いしたかったのは、確かです。その方法であれば、例え彼女が無事に戻って来たとしても、採れる手立ての筈ですし――」


「――殿


 アデリシアが、そこでエーレの言葉を遮って、ふと、表情を改めた。


「私は彼女と、彼女自身が刺客の手にかかった場合は、どこかの貴族に殺されたとする事、生きたまま第二皇子派の手に落ちた場合には、私の妃として外交ルートで取り戻す事、生き残って戻って来た場合には、今後の身の振り方は交渉する――と言う約束を交わして、帝国ここを発たせました。申し訳ないが、この話に関しては、私も、私の名にかけて、妥協は拒絶させていただく」


「アデリシア殿下……」


「貴方の申し出は、彼女が戻って来て、今後の身の振り方を交渉してきた場合にのみ、お受けしますよ。私とて彼女でなければ、例え政治の〝駒〟であっても、後宮の席までは用意しない。そもそも、今回の茶番が事実になっても、私はいっこうに構わない――と、彼女には伝えてあるのでね」


 僅かに息を呑んだエーレに、ただ…と、アデリシアは静かに言葉を続けた。


「敢えて、貴方に塩を送るなら、彼女は茶番を事実にはしたくないようですよ。全力で足掻あがくつもりのようだ。私も、そこに関しては、邪魔も手助けもしない。彼女がどこまで本気なのかが、全てです。途中で諦められる程度の事ならば、私は彼女を手放さない。それだけの事です」


 キャロル次第だ――アデリシアの瞳は、そう告げている。


 エーレも、アデリシアから引き出せる妥協は、そこまでだと悟った。


「⁉」


 そしてその時、三羽の鳩と、一羽の白隼が、窓の外で羽音を立てて威嚇しあっているのに、二人ともが気が付いた。


「あれは…ディレクトアの〝軍鳩コルンバ〟?」

白隼シロハヤブサは…部下が、に持たせていた――」


 エーレの言葉に呼応して、アデリシアが執務室の窓を開けた。


 軍鳩コルンバ、白隼共に、足には手紙がくくりつけられており、ざっとそれに目を通していく。


 二人共、内容はほぼ同じだろうと薄々察していたため、互いに確認を取る事なく、その場で読み進める方を選んだのだ。


「「………」」


 その結果、アデリシアは片手を額に当て、エーレは微苦笑とも言えるため息をついた。


「彼女が異母弟ユリウスの手に負える筈もないと、分かってはいたが、まさか、ここまでとは……ね」


「ある意味、ディレクトアの王宮を掌握してきていますよ。どうします、エーレ殿下?異母妹いもうとは今更ですが、アーロン殿下とグーデリアン陛下の連名で、彼女を私の皇妃とするのに、障害あっての側妃立后なら、この手紙を役立てて貰って構わない。彼女が遠慮をするといけないので、こちらは内密で送る――と、ありますよ。彼女自身の報告から察するに、これは本当に、アーロン殿下が独断で、グーデリアン陛下から賛同をもぎ取ったのでしょうね。そもそも、ディレクトアにおける彼女の評価は、ここまで高くはなかったのだから」


「……っ」


 わずかに動揺の色を見せたエーレに、アデリシアの口元がかすかに緩んだ。


「最も、私も彼女との約束があるので、決着がつくまでは、待つつもりではいますよ」


「…逆に言えば、彼女が刺客に捕らえられて人質となった場合には、貴方が、として、相応の扱いをするよう要求なさる、と言う事ですね。…側妃ではなく」


「そうですね。そうなりますね」


 そうなれば、もう、そこにエーレの入る余地はない。人質となった場合には、どれほど渇望しようと、手出しをするなと、暗にアデリシアは言っている。


 ――それでも。


 エーレは己を落ち着かせるように、ゆっくりとまぶたを閉じ――そして、顔を上げた。


「彼女が戻って来た場合には、交渉の余地があると言う点では、変わりませんか」

「…そこまでは、彼女と約束をした事でもありますし、覆す事はしませんよ」


「ならば私も、彼女の決着を見守ります。――待ちますよ」


*        *         *


「アデリシア殿下は、君が交渉をした約束は、遵守すると、帝都メレディスで俺に言ったよ。全て君次第だよ、キャロル――と。だとすれば、今…とりあえず君が、アデリシア殿下の皇妃になる事は…なくなったと思って良いのかな……?」


 エーレの右手が、眠り続けるキャロルの頬に、そっと触れる。


 昨日届いたアデリシアからの手紙は、恐らく、クラッシィ公爵家が関与しての「キャロル・ローレンス」のについての話なのではないかと、エーレは予想している。


 アデリシアが、キャロルを表に出さない事に関しても、そろそろ限界が来ている筈だ。


「俺は…少しは自惚うぬぼれていても良いのかな…君が、アデリシア殿下よりも俺を選んでくれたと……」


 その時、キャロルの寝室の扉がノックされて、侯爵邸の侍女が、本来の屋敷のあるじとも言うべきデューイ・レアールが、エイダル公爵邸から戻って来た事を、エーレに告げた。


 デューイは、キャロルを案じて戻って来た事ももちろんだったが、公国ルフトヴェーク宰相たるエイダル公爵から、一つの伝言も、同時に預かっていた。


 今、白隼シロハヤブサはこちら側にあるため、デューイに伝言を託すより他なかったのだろう。


 ――皇帝陛下ちちおやの危篤。


 それは、エーレがこの雪をおしてでも、すぐさま公都ザーフィアへ戻らなくてはならない事と、同義語でもあった。

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