第97話 つくしちゃんの大胆行動

 社会人になる前、残り少ない学生の余暇を楽しむように、食事処『霞』の閉店後の店内で、芳樹と梢恵が晩酌をたしなんでいた時の話。


「はぁ……来月から社会人かぁー。働きたくない……」

「分かる。毎日家の中でダラダラして過ごしたいよな」


 来月から社畜生活が始まってしまうという現実に向き合えず、二人は陰鬱いんうつな雰囲気を纏っていた。


「いっそ、二人でダラダラのニートライフを過ごしちゃう?」


 なんなしに、梢恵が提案してくる。


「絶対嫌だね。お前と同じ部屋に暮らすくらいなら、働いたほうがマシだ」


 梢恵の部屋事情を知っているからこそ、それだけは勘弁な芳樹である。


「何でよ⁉ ねぇ、酷いと思わないつくしちゃん!?」


 すると、梢恵は同意を求めるように、隣のテーブルで勉強をしていたつくしちゃんに助けを求める。


「あははっ……まあ梢恵さんの家事能力はないに等しいですから」

「辛辣! 私の家事スキルって高校生以下⁉」


 高校生にまで同情される幼馴染、憐れである。


「ほら見ろ。言ったこっちゃない」

「でも、芳樹だってつくしちゃんと二人で暮らすか、私と暮らすかの二択だったら、私を選んでくれるでしょ?」


 究極の二択を迫ってくる梢恵。

 その表情はどこか必死で、切羽詰まった様子だ。


「それ、私も気になります」


 そして何故か、つくしちゃんまで興味深々きょうみしんしんな様子で芳樹を見つめてくる。

 酔っていたこともあり、芳樹は声高らかに幼馴染へ非情な現実を突き付けてやった。


「それならもちろん梢恵を――なんて、俺が答えると思ったか? 断然つくしちゃんの方がいいね」

「そ、そんなぁー!」

「当たり前だろ。つくしちゃんはいい子だし。アルバイトでも優秀。勉強だって頑張ってる。家事だって得意だろうし、何しろ尽くしてくれるだろうからね。もしつくしちゃんが一緒にいてくれたら、心強いし楽しい人生が歩めるよ」

「ぐはっ……」


 ついに梢恵のライフはゼロになり、机にひたいをつけてノックダウン。


 恐らく、つくしちゃんが言っているのはこの時言った言葉だろう。

 当時の記憶を思い出しながら、つくしちゃんは胸に手を置いて熱のこもった声で語る。


「あの時私、すっごい胸の中がキュって締め付けられるような感覚でした。隣にいる芳樹さんの顔も全く見れなくて、凄い顔も熱くて頭がくらくらして勉強にも全然集中できなくて、その時に確信したんです。あぁ、私は芳樹さんのことが好きなんだって」


 まさか、酔った勢いで言った何気ない一言が、彼女の心に突き刺さってしまったとは……。


「ホント、芳樹さんはそろそろ自分がフラブ乱立クリエイターであることを自覚して欲しいわ」


 霜乃さんが後ろで呆れたようにため息を吐いている。

 彼女もまた、芳樹の何気ない言葉によって人生を突き動かされた一人だ。


「えぇ⁉ 今回に関しては、俺のせいですか⁉」


 どちらかというと、つくしちゃんがいいように拡大解釈しただけじゃ……。

 そんなことを思っていると、つくしちゃんはクイっと袖を掴んで、上目遣うわめづかいに見つめてくる。


「だから、芳樹さんには私を好きにさせた責任を取ってもらう必要があるんです!」


 つくしちゃんの瞳には強い意志が込められていた。

 いやっ……と言われましても。

 しかし、ここで彼女の気持ちに向き合わないのは芳樹の意に反する行為。

 だから、つくしちゃんの方へと向き直り、芳樹は彼女の両肩を掴んだ。


「つくしちゃんの気持ちは素直に男として嬉しいよ。でも少なくとも、俺は小美玉ここの管理人である以上、誰かとお付き合いをする気はないよ」

「なら、私のために仕事をやめてください」


 すると、当然のようなニッコリ笑顔でとんでもないことを言い放つつくしちゃん。


「いやっ……それはちょっと」


 芳樹が困っていると、つくしちゃんは明らかに不満そうな表情で頬を膨らませる。


「もうっ! 優柔不断ですね! こうなったら、強硬手段あるのみです」


 そう言い放つと、つくしちゃんは芳樹の腕をぐっと力強く引っ張る。

 不意打ちな行動に、芳樹は当然身体のバランスを崩してしまい……刹那――。

 頬に柔らかい感触が伝ってくる。

 芳樹は一瞬何が起こったのか理解が追いつかなかった。

 霜乃さんに関しては、手で口を覆い、驚きを隠せないという表情をしている。


 時間にして、二、三秒の間。

 すっと芳樹の頬から唇を離したつくしちゃんは、満足げな顔でにやりと笑みを湛えている。


「こんなこと、今までされたことないでしょ?」


 そんなことを言いながら、つくしちゃんは不敵な笑みを浮かべていた。

 まるでそれは、霜乃さんやこの女子寮の住人への宣戦布告ともいえる宣言。

 嵐の前の静けさが洗面所を覆っていた。

 間違いなく、つくしちゃんは台風の目のような存在。

 この事件が女子寮の住人を大きく突き動かす起爆剤になることに、芳樹はまるで気づいていなかった。

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