第76話 八雲さんの説得②
母に憐れな目を向けられた八雲さんは、怒ることもなく終始冷静な口調で首を傾げる。
「何をおっしゃっているんですか清美さん。あなたが一番わかっているはずだ。僕の立場というものを」
「あんたも染まっちまったんだね。この社会に」
実にかわいそうな人を見るような目で、母が八雲さんへ気の毒そうな表情を浮かべる。
「そりゃ、清美さんにわかるはずがないでしょ。一度も踏み入れたことのない世界なのだから」
「そりゃそうさ。私は、小さな町にたたずむ、ただの飲食店の店主さ。あんたの世界なんてわかりゃしないよ」
そう言って、母は八雲さんを突っぱねる。
「じゃあ、何か問題でもありますか?」
「あんたは、本当にそれでいいと思ってるのかい?」
母はすっとソファから立ち上がると、八雲さんを見下ろす。
「あんたが守りたいのは、そんな
「陳腐? 何を言う。笠間不動産は全国に多くの従業員と顧客、そして株主によって支えられているんだ。それを下らないとは僕は思わないさ」
「はぁ……環境ってのは怖いものだねぇ。こうして家族の価値感すら変えていってしまうのだから」
どこかあきらめた様子でため息を吐く母。
「さっきから何が言いたいのか、話の道筋が読めないのだが? 簡潔に説明してくれるかな清美さん」
「私は、昔の尖っていたあんたの方が好きだったってことさ」
「なっ……」
単刀直入に言われて、八雲さんは初めて
「悪いけど、二人にも既に話はさせてもらったよ」
「ぐっ……」
ばつが悪そうに、八雲さんは視線を逸らす。
八雲さん自身も昔、家の方針に
「あんたも、両親に同じようなことを言われたんだろ? それくらいはわかるさ。けど、そんな伝統を守らなきゃならないっていつだれが決めたのさ? 実の娘を会社の利益のためだけに利用して、必要なくなったら徹底的に厄介者として切り捨てる。そんなの、条件どうこう以前に、一人の父親として失格だよ」
「……」
「同じ過ちを、あんたは繰り返していいのかい? せっかく出来た娘を切り捨てて、冷たくあしらって、親としての愛はなかったのかい?」
八雲さんはすぅっと息を吐いて、ごくりと生唾を飲み込む。
「清美さんにはわからないだろうな。私の苦しみなんて」
そう言って、八雲さんは半ば
「どれだけ両親を説得しようにも、ずっと家の歯車から抜け出せない
八雲さんは自身が当時置かれていた状況を思い出しているのか、
「いや、違うね。あんたは、ただ勇気が出なかっただけさ。すべての地位と名声を捨てて、私と
「くっ……ああ言えばこう言う。随分と口うるさいババアになったものだ」
「お互い様さ」
二人は
応接室に、重苦しい沈黙が流れる。
そこで、芳樹が八雲さんに対して話しかけようと身体を前に出した途端、すっと太ももに温かい手が置かれた。
見れば、一葉さんが潤んだ瞳を芳樹に向けて、ふるふると首を横に振ってきた。
一葉さんはすっと八雲さんへと向き直り、重い口を開く。
「パパ……もしパパが清美さんとの人生を選んでいたとしたら、ここに私と芳樹君は存在していないの」
一葉さんの言葉に、八雲さんが目を見開いた。
その通りだ。
もし八雲さんが清美さんとの人生を選んでいたとしたら、今ここに、一葉さんと芳樹は生まれていない。
「私は、パパが今の選択をしてくれてよかったと思っているわ。今の仕事も、私にとってはやりがいがあって楽しいし、こうして芳樹君のような素敵な男性にも出会うことができた」
「一葉さん……」
ぐっと胸の奥から湧き上がるものを抑えながら、一葉さんは必死に言葉を
「だから、パパは何も間違っていないわ。心のどこかに許せない自分がいるのかもしれないけれど、ここまで私を育ててくれて、ありがとう」
お礼を言いながら、一葉さんは頭を下げる。
その瞬間、目から一粒の涙が
八雲さんは、一葉さんの感謝の言葉に
「八雲さん、僕も同じ気持ちです。もしあなたが違う選択をしていたら、この世に僕も一葉さんも存在していません。だから、昔の自分を認めてあげてください」
芳樹も一葉さんにならって頭を下げた。
それは、二人が結ばれなかったことにより生まれた、二つの異なる命が存在しているということに対しての感謝の言葉。
「……ぐっ」
すると、鼻をずずっとすする音が聞こえてくる。
顔を上げれば、唇をぐっと噛みながら、眉を
目は赤く充血して、今にも瞳からしずくが零れ落ちそうなほどに、感情をこらえている。
しかし、その抵抗も虚しく、すぐに頬を伝って涙が零れ落ちた。
「私はっ……ずっと心に突っかかっていた。ずっと家のしがらみに縛られたまま生きてきて、本当に良かったのかって。人生後悔せずに生きてこれたのかと……」
それは紛れもない、八雲さんがずっと背負ってきた人生の重荷。
その生き方が正しかったことを証明するように、感情を吐露した八雲さん。
これで良かったのだと芳樹は確信する。
八雲さんの中にあった後悔が、確信と感謝に変化する瞬間だったのだから。
しばらくして、落ち着きを取り戻した八雲さんが目元を手で拭うと、すっと視線を一葉さんの方へと向ける。
「一葉……今まですまなかったな。お前をちゃんと見てやれなくて」
「そんなことないわ。私にはちゃんと気持ちは伝わっていたわ」
「そう言ってもらえて、父としてはうれしいよ」
優しい微笑みで一葉さんが言葉を返すと、八雲さんは安堵のため息をついた。
「会社のことも女子寮のことも、すべて一葉の自由にしなさい」
そして、慈愛のある優しい微笑みで、八雲さんは一葉さんへそう言い放った。
よかった、これで女子寮の件も一件落着。
芳樹がふっと息をついたのもつかの間、八雲さんが芳樹と母の方へ身体を向けてきて、ぐっと頭を下げた。
「どうか、うちの娘をよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、しがない息子ですが、どうかよろしくお願いします」
そう言って、お互いに頭を下げあう八雲さんと母。
二人の関係もまた、新たな関係性へと変化していくのであろう。
「芳樹君。一葉をどうか、これからも大切に見守ってほしい」
「はい……もちろんです」
八雲さんの感情の
完全に仮の恋人関係であるということを
どう収集をつけようかと一葉さんに視線を向けると、一葉さんはキラリとウインクをしてくる。
あれ、ちょっと待って……。
これ演技だよね!?
後でちゃんと誤解を解いてくれるんだよね!?
そんなこんなで、八雲さんの説得は、母の助言もあり無事に解決。
芳樹は女子寮の管理人として残ることができることになった。
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