第53話 誘惑の理由
女子寮の住居人たちと一緒に、霜乃さんのために協力することを誓った日の夜。
皆が部屋で各々の時間を過ごしているであろう頃合いを見て、芳樹は忍び足で二階へと上がり、とある人物の部屋の前まで来ていた。
他の住居人に気づかれぬよう、コンコンと小さく扉をノックする。
「……はい」
ドアの向こうから、微かにか細い声が聞こえてきた。
「霜乃さん、俺です。入ってもいいですか?」
「芳樹さん……えぇ、構わないわ」
「失礼します」
一つ息をついてから、芳樹はドアノブに手をかける。
ドアをゆっくりと開けていくと、部屋の中は暗闇に包まれていた。
廊下の光が部屋の中に差し込むと、部屋の奥のベッドに背中を預けた状態で、地べたに腰を下ろして
霜乃さんはこちらへ顔を向けると、にこりとやさしい笑みを向けてきた。
けれど、いつもの余裕たっぷりな立ち振る舞いは影を潜め、今は精神的に参っているのか、顔が随分とやつれているように見える。
お互いに見つめ合った状態で、芳樹は無言のまま霜乃さんの部屋へ足を踏み入れた。
「電気……点けていいですか?」
芳樹が尋ねると、霜乃はふるふると首を横に振る。
どうやら今は、暗い所に身を置いていたいらしい。
「分かりました」
仕方がないので、芳樹はそのまま部屋の扉を閉めた。
カーテンも閉まっているので、部屋は一瞬にして深淵の闇へと吸い込まれてしまう。
芳樹は入り口の扉に背中を預けて寄りかかり、暗闇に目を慣らすことにした。
まるで宇宙のような音のない空間。
暗闇の部屋に二人も人がいるはずなのに、物音一つ聞こえない。
しばらくして、ようやく芳樹の目が暗闇に慣れ始め、霜乃さんのシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
彼女は相変わらず体育座りをしながら地べたに蹲っていた。
その影は大きな石のようで、ピクリとも動きそうにない。
芳樹は暗闇の虚空を眺めながら、大きくため息を吐いた。
「霜乃さん、既婚者だったんですね」
「……」
まるで独り言のように芳樹がつぶやく。
けれど、霜乃さんからの返答はない。
芳樹は、さらに暗闇に向かって語り掛ける。
「それを分かった上で、俺に色仕掛けしてくるなんて、ほんと何考えてるんですか?」
芳樹が吐き捨てるように言うと、ようやく霜乃さんが芳樹の方へと顔を向ける。
「……幻滅した?」
僅かに見える顔は、どこか悟りの境地を開いたかのように穏やかだった。
「幻滅はしてないです。ただ、もし俺が霜乃さんに手を出していたら、今頃色々問題が大きくなっていたと思うので……」
もし芳樹が霜乃さんに万が一手を出していたら、霜乃さんは鉾田と契約上婚姻関係にあるため、事実上不倫関係になるところだった。
離婚調停を水面下で行っている状況において、こちら側が不利になってもおかしくないはずなのに……。
「どうして、そんな危ない橋を渡るようなことしたんですか?」
自然と芳樹の口からそんな疑問の問いを霜乃さんにかけていた。
下手したら、自分が不利になるようなリスクを負ってまで、何故霜乃さんは芳樹を誘惑して来たのか。
その理由が分からなかった。
「……これは、仕方のないことだったのよ」
「仕方のないこと……?」
芳樹が霜乃さんに首を傾げると、霜乃さんはとろりとした視線を向けてくる。
「だって、私に逃げ出す勇気を与えてくれたのは、他でもない、芳樹さんなのだから」
霜乃さんの言っていることが理解できず、困惑する芳樹。
すると、霜乃さんは一つ息をついて、視線を前に向ける。
「芳樹君は覚えていないのかもしれないけれど、私達、昔会っているのよ」
「えっ……」
いつ、どこで?
霜乃さんの言葉を聞いて、芳樹の頭はさらに混乱する。
こんなに色気のある女性と会ったことがあるなら、忘れるはずがない。
芳樹は頭をフル回転させて、自分の記憶を辿る。
「芳樹君は随分と泥酔していたから覚えていないかもしれないけれど、一年前、社員寮の廊下でね」
一年前、社員寮の廊下の前……。
「……あっ!」
芳樹の記憶に、とあるシーンが思い起こされる。
うろ覚えだが、年末の寒空の中、社員寮の外廊下で、まるで絶望の淵に立たされたような状態で、壁に寄りかかって座り込んでいた、ぼろぼろの服装に身を包んだ傷だらけの女性。
芳樹は彼女と会話を交わした……気がする。
あの時、芳樹は会社の忘年会で強制的に飲まされ、完全に泥酔しきった状態だったので、その女性とどんな会話をしたのか覚えていない。
「あーっ……」
なんとなく状況を理解した芳樹は、やってしまったとばかりに額に手を置いてうめき声を上げる。
まさか瑞穂ちゃんだけでなく、霜乃さんとも前に会ったことがあったなんて……。
後悔の念に駆られる芳樹。
また酔っぱらったときにやらかしてしまっていたという気持ちと共に、もう絶対にお酒は控えようと心に誓う。
「もしかしてその時、俺霜乃さんに何か変なこと言いました?」
聞くのも恐れ多かったが、覚えていないので霜乃さんに当時の状況を聞くしかない。
「それはもう……凄い情熱的に熱い抱擁を交わしてくれたわ」
頬を抑えながら、当時の様子を思い出してうっとりとした表情を浮かべる霜乃さん。
その様子を見て、芳樹はめまいを覚えてしまう。
「ふふっ……冗談よ」
「ちょっ……冗談はやめてください。色々と精神的にきついです」
「ごめんなさい、本当に覚えてない様子だったから、ちょっと意地悪しちゃった」
そう言ってわざとらしく首を傾げる霜乃さん。
少しはいつもの調子を取り戻したようだ。
霜乃さんは顔を上げて、当時の思い出に浸るようにして語りだした。
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