第54話 酔っ払いの青年からの言葉~霜乃Side~
芳樹に出会ったときの霜乃は、満身創痍の状態だった。
大学卒業を機に、鉾田と婚約して同棲を始めた霜乃。
しかし、鉾田と同棲を始めるなり、優しかったはずの彼は、変貌を遂げていってしまった。
家に帰ってくると、彼の口から零れてくるのは毎日激務の仕事に対する不満や会社への愚痴ばかり。
「大丈夫よ。あなたは頑張っているわ」
そう言って、霜乃は彼を励まし続けた。
しかしある日、鉾田が珍しく休日出勤を終えて、夕方ごろに帰ってきた時のこと。
鉾田は今日も夜遅くに帰ってくるだろうと思っていた霜乃は、昼寝をしていたのだ。
惰眠していた霜乃の姿を見た鉾田は、いきなり鬼の形相で霜乃を睨み付け、怒鳴りつけてきたのである。
「てめぇ、人が仕事にいっている間に悠々と眠りやがって。誰のおかげでここに住んでると思ってんだ、あ”ぁ!?」
気づけば、霜乃は勢いよく地べたに転がり、激しい痛みに襲われる頬を手で抑えて苦悶の表情を浮かべていた。
鉾田が初めて、霜乃へ危害を加えた瞬間である。
それから彼は、日常的に霜乃へ暴行を加えるようになった。
「おい、部屋の掃除がなってねぇぞ!」とか「飯がまずいんだよ、ボケがっ!」と、適当に理由をかこつけて、霜乃への暴力を鉾田は正当化していった。
そんな毎日の生活に疲弊して、霜乃は社宅寮の外廊下の壁に寄りかかり、物思いにふけっていた。
逃れられない鎖につながったような呪縛から、少しでも心を回復するために……。
「おい、お前。こんなところで何してんだ?」
霜乃は覇気のない目で、声の方へと視線を向ける。
そこにいたのは、ダウンコートに身を包んだ酔っ払いの男性。
霜乃は泥酔しきった彼を、哀れむような目で見つめる。
「随分と酔っぱらっているようね。あなたも、仕事のストレスからの現実逃避かしら?」
「あぁ? ちげぇよ……これは、忘年会で上司に無理矢理付き合わされただけだ……」
「あらっ、それはご愁傷様ね」
「っていうか、あんたこそ、こんなところで何してるんだ。そこ、俺の部屋なんだが?」
「あらっ……そうだったの? ごめんなさい」
しかし、霜乃は寄りかかったドアから退く気力が湧かなかった。
毎日いつ帰ってくるか分からない夫を出迎え、何か癪に障ることを言ってしまえば暴力を振るわれるという恐怖。
そんな日常に戻るのを、身体が拒んだのである。
「……」
霜乃はその場を動かずに、ただ目の前に立つ青年を見上げて、微かに微笑むことしか出来ない。
「はぁ……」
彼は盛大なため息を吐いた。
その場を退こうとしない霜乃に、イラ立ちを覚えているのかもしれない。
もしかしたら、蹴られたり引っ張られたりして、強制的に力づくで退かされるかも。
そう思えば思うほど、霜乃の身体は震えて、恐怖心に苛まれる。
彼はゆっくりと一歩ずつ、霜乃の元へと近づいてきた。
そして、コートを脱いだかと思えば――
「その格好じゃ寒いだろ。これ着ろよ」
青年は暴力を振るうこともなく、自分が着ていたコートをわざわざ脱ぎ、コートを羽織っていない霜乃に手渡してきてくれたのだ。
「あ、ありがとう……」
霜乃は驚きつつも、彼からコートを受け取る。
今さっきまで彼が着ていたからだろうか。コートを着ると暖かな温もりを感じた。
もちろん、霜乃は体温的な暖かさだけではなく、彼の親切心からくる温かみも感じ取っている。
そんな霜乃の心情も知らずに、彼は文句ひとつ言うことなく、霜乃と同じように壁に寄りかかるように隣へ座り込んだ。
「何かあったんですか? 俺で良ければ、話くらいは聞きますよ」
それどころか、初対面で得体も知れない霜乃に対して、親身に寄り添ってきてくれる。
まるで、大学の時、合コンで出会った夫と同じように……。
だから、霜乃は同じ過ちを繰り返さぬよう、自虐的に答える。
「そうやって親身になったふりをして、結局は私にここをどいてもらうのが目的でしょ? その手には乗らないわよ。男の人なんて、自分の目的の為なら手段を選ばないものね」
「随分と卑屈な考え方ですね……。そんな考え方してたら、人生楽しめませんよ?」
そんなことを言ってくる青年に、霜乃は余計自分が惨めになってくる。
「ふっ……楽しむね。そんなこと、当の昔に忘れたわよ」
「……ホント、何があったんですか?」
「ふっ……夫に束縛されて、毎日のように殴られて、逃げたくても逃げられない、行動をなに一つ起こせない私を、笑えばいいのよ」
隠すのも馬鹿らしくなった霜乃は、自暴自棄になって言葉をはき捨てる。
「笑えねぇよ」
しかし、彼から帰ってきた言葉は、意外なものだった。
思わず霜乃が彼の方へ顔を向けると、彼は霜乃へ鋭い眼差しを向けてくる。
「そんなの笑えるかよ。あんたは、本当にそれでいいのか? 今のままでいいと思ってんのか?」
「仕方ないじゃない。家庭には、家庭の事情っていうものがあるのよ。未婚のあなたには分からないでしょうね!」
「あぁ、確かに俺はあんたの家庭の事情なんて知ったこっちゃねぇよ。でもな、それであんたが幸せじゃないなら意味がねぇだろ? 夫婦ってのは、お互いに支え合って生きていくもんだろ。それを夫の力でねじ伏せられて、ただあんたが我慢する関係性なんて、そんなの夫婦とは言えないね。俺があんたの立場だったら、すぐに逃げてると思うけどな」
「……逃げたらダメなのよ、逃げたら……。私が我慢すればいいことだから」
もし逃げ出してもすぐにバレて捕まってしまったら、夫に何をされるかたまったものじゃない。
それほどに、霜乃の心は恐怖で行動を起こす力を失っていたのだ。
「我慢なんて、必要ないだろ」
「えっ……?」
「どうして我慢する必要があるんすか? あんたがこんなに苦しんでるのに、逃げて何が悪いんですか?」
彼はガシッと霜乃の肩を掴み、真剣な眼差しで訴えかけてくる。
「逃げることは負けじゃねぇ。むしろ逃げるという選んだ選択を誇るべきだ」
彼は真っ直ぐな瞳で、そう訴えてくる。
この時、霜乃はとある可能性に気づかされた。
もしかしたら、どこかで全て自分の責任だと思い込んでいたのではないかと。
鉾田さんがああいう性格であることを見抜けなかったのは、全て自分のせいだと、霜乃は心のどこかで勝手に決めつけていたのではないだろうか。
「まっ、あとはあんた次第だ。逃げる決心がつけば逃げればいい。それでも怖いなら、友達に助けを求めるんだな。絶対にあんたを守ってくれるはずだ」
「……」
「ん、なんだよ?」
「あなた……結構肝が据わっているのね」
「んなことねぇよ。肝が据わってるなら、今頃こんなクソ会社なんて辞めてるっつーの」
「ふふっ……人に正義感語っておいた割に、自分は根性なしなのね」
「うるせぇ……これも戦略だ」
これが、芳樹と霜乃の一年前に起こった出来事。
この芳樹との会話がきっかけで、霜乃は鉾田の元から逃げる決意を固めることが出来たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。