第六章 忘れ物はもうない
(1)
銀杏並木が赤朽葉を空に舞わせると、色なき風に乗って校舎の窓にぶつかっては張り付いてくる。
二階の大テラスは、放課後の生徒たちが駄弁りつつも中間試験の結果に一喜一憂していた。
そんな人の群れから隔離されたような校舎の影の下で、携帯の向こうにいる人と会話を交わす女子生徒が一人。
「はい、向こうも乗り気になってくれてるようで……」
従前から気になっていたあの件について語らう。
「かなりの人数になるみたいでちょっと不安で……」
通話相手は、喜んで進める意向だが、不安はある。予想以上に大規模になりそうでそれがどう作用するか読めなくなっていた。
「私は、出ることはできませんがどうかよろしくお願いします……。はい、後くれぐれも私のことは……ありがとうございます」
そこで通話を終えた。
「ふう……」
額の汗を手で拭った。これは、この学校では自分だけの秘め事、誰にも漏らすことはできない。
「瑞樹」
「え……おわああ!」
いつとはなしに隆臣が後ろまで迫っていた。
「いきなり話しかけないでよ!」
「あ、ああ、悪い」
頭をかきながら、弛緩させた顔を見せる隆臣。
「なにか用?」
極力感情を付与しない声音で答えた。これ以上隆臣と無言のいがみ合いを継続するつもりはない。
「その……誰と話してたんだ?」
「さあ?」
両腕ですっとぼけのポーズをとる。ちょっとした意地悪だ。
「瑞樹……」
「友達よ、あんたの知らない人」
「そうか」
追及する気はないようだ。隆臣も瑞樹との仲をこじらせたままじゃ、詩乃に心配をかけることを懸念しているのだろう。
「なんだか久しぶりね、私たちこうやって話すの」
「そうだな」
校内放送が響いた。今日は計画停電が行われるので、クラブも早めに終えて帰宅するようにとのお達しである。
「最近ずいぶん、授業も減ってるけど大丈夫なのかな。コマ数とか」
「こんなご時世だからな。聞いてないか? 二学期から何人か転校したって話を」
「なにそれ?」
「疎開、って噂だ」
「疎開?」
知識でしか知らない。空襲を避けて都市部から田舎に避難するあの疎開だろうか。
「あくまで噂が、転校した子が高級官吏の息子だったから、政府は日之崎への攻撃を予想してるんじゃないかって話だ」
「ほんと? 日本もこの戦争に加わるの?」
「FCUの参戦要求を拒否し続けるのは難しいだろうな。この国は資源や食料を向こうから輸入しているわけだし、海外市場から排除されたら大変なことになる」
「ハァ……。世知辛いわね。ほっといてもらえるものならほっといてほしいだけだけど」
大人の理屈はそうはいかない、ということくらいはわかる。
隆臣の横顔、目元の筋がわずかに引き締まった。
「……あいつと、会っているのか?」
不意打ちだと思った。
「……なんでそんなこと訊くの?」
「少し、気になっただけだ」
沈黙の幕が引かれる。この話題だけはお互いさけてきた。しかし、そんなことを気にすること自体、隆臣がまだ綜士を捨てきれていない証左とも思える。
「会ってないよ、一度しか……。なんて言われたか知りたい?」
非難がましい視線をぶつける。
「いや、いい……」
ため息をついて話題を変えることにした。
「それより、門間のやつに気をつけて。またなにかチョロチョロし始めて、あの娘も怖がってる」
「心配ない」
冷静なようでも怒りの気配を感じとれるほど隆臣の声は固かった。あの男は、よりにもよって詩乃の祖父、月坂九朗のことを引き合いにだして、詩乃を深く傷つけた。もはや目的が逆恨みを晴らすことになっている。
今は学校外からの嫌がらせよりも、やつの行動に警戒してなければならない。詩乃を舐め回すように見るあの男の顔を思い浮かべるだけで怖気が走る。
「……ああ、来たみたいね」
詩乃ら、合奏クラブのいつもの三人が歩いてくるのが見えた。
「矢本くん、瑞樹ちゃん、おまたせー」
手振りで返しつつも、彼女の表情をそれとなく探る。この間のことで気落ちしていないか不安だったが、特に影が差しているようには見えない。
「今日はハロウィンフェス打ち合わせだっけ? どうだった?」
「問題ないよ、私たちも出るから。瑞樹ちゃんたちも見に来てね」
むろん行くつもりである。開催される汐浦はあまり治安がいいとは言えない場所であり、注意する必要もある。
「ああ、楽しみにしてる」
「あの……」
喜美子が口を開いた。
「どうしたの?」
「あ……」
なにか言いよどむ喜美子。
「……? 喜美子ちゃん大丈夫? 最近あまり元気がないみたいだけど……」
「そ、そんなことないよ」
「門間のことならちゃんとこっちで対処するから」
「うん……」
なにか訊きたいことがある気配がしたが、詩乃を横目でみてから断念したように感じた。
「それじゃあ、帰ろっか。詩乃、今日も送っていくから」
「……瑞樹ちゃん、前から言おうと思ってたんだけど」
「なに?」
「私、別に一人でも平気だから」
詩乃の側からそんなことを切り出してきたのに、目が丸くなる。
「詩乃、私たち別に負担になってるとか思ってないよ」
「うん、でも……。そうは受け取らない人もいると思うし」
歯噛みする。門間の暴言をやはり気にしていたのだろう。
「私の家、学校から遠いし朝香さんからも、遅くなる時は、タクシーも使っていいって言われてるから」
隆臣と同時に視線を合わせた。登下校中の詩乃への嫌がらせや脅迫は今は、ほとんどなくなったのでそれについての懸念は少ない。
だけど……。
門間の件があったばかりである。あの男が、詩乃が一人になったところを狙ってなにかしないとも限らない。
「やっぱり送ってくよ月坂、もちろん嫌だっていうならそれでいいけど」
「ううん、そんなことないよ。ただ……」
「そうだよ、気にしないで」
「九月頃に来たあの人はどうなったの……?」
瑞樹の言葉を待たずに口に出された言葉に凍りついた。
「……」
言葉を失ったまま棒立ちになる瑞樹と隆臣、あの人、綜士のことに違いない。あれ以降一度も訊かれたことはなかったので油断していた。
「う、詩乃……それは」
喜美子が慌てて口を開いた。
「ごめん……でも、私、なんだか……」
「な、なに……?」
「すごく怖いの……。あの人がってことじゃなくて……あの人、なにか理由があって私を恨んでるんじゃないかって……」
詩乃が記憶をもたない過去に関心を持ったのはこれが初めてかもしれない。
「瑞樹ちゃん、訊いていい……?」
「え……?」
「私、昔あの人になにかしたの……?」
呼吸が乱れないように必死に心の乱れを抑える。嘘はつきたくない。だが本当のことを言うわけにもいかない。適当な返答が思い浮かばず、苦悩する。
「もう来ないわ」
断言する口ぶりの主は早紀である。
「え……?」
「私が、話しつけておいたから」
意外な事態に頭に混乱の波が押し寄せる。早紀がどうやって綜士に接触したというのだろうか。
「あの人の勘違いだったって……」
喜美子までも重い口を開いた。彼女まで綜士と話していた、ということだろうか
「そ……! あの男がそう言ったの……?」
「うん……」
「そうなの喜美子?」早紀も知らなかったようだ。
「そう言ってた……」
あまりの事態に隆臣ともども頭の理解が追いつかない。
綜士が……。
詩乃を諦めた、と解釈していいのだろうか。もしそうなら、
「……ああ」
そこまで追い詰めたのは、自分たちだろう。
「瑞樹⁉」
早紀がふらついた自分をとっさに支えてくれた。
「瑞樹ちゃん、どうしたの?」
「大丈夫……ちょっと立ちくらんだみたい……」
「……そろそろバスが少なくなる。もう行こう」
隆臣が会話を打ち切るようにそう述べた。
「……そうしよ」
取りあえず合わせるしかない。こんな動揺している姿を詩乃に見せられない。
「わかった……」
五人で詩乃のマンションの近辺に止まるバスの停車駅まで行くことにした。
歩きながら、隆臣の背中に視線をぶつけた。
このままでいいの……?
そう念じながら。
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