(9)

 目元が水気を帯び始めてきた。

 テーブルに掌をつけて沈思黙考する。今後自分は、どう生きるべきなのか。


 俺は……俺がすべきことは……。


 ドアが開く音を知覚した。誰が入ってきたかなど考えるまでもない。振り返ることもなく声を出した。

「……道さんが俺をここに招いてくれた理由がわかった気がする」

「……」

「俺、子どもなんだ、たぶんリサよりも……。未だに両親と弟の死を受け入れられないでいる。あのままどこかで一人で暮らしてたら、いつまでも悩み続けて一歩も前に進めなかった……と思う」

 体を起こして、リサの顔を正面に捉えた。


「もう過去のしがらみを振り切るよ。詩乃、隆臣、瑞樹、すべて忘れて……」

「……忘れる必要なんてない」

「そうかな……」

 風が空気を切る音が窓から響いた。

 リサが床に腰かける。湯上りで水気をまとった髪が蛍光灯に照らされてきらめいた。

「リサ?」

 伏せていた目を上げて、上目遣いでこちらを見る。意図は察した。息を小さく吐く。

 多少の躊躇はあったが、


「……よっこらせっと」

 リサのすぐ隣に腰かけた。

「明日の休みはみんなどうするかな」

「……みんなくたびれきってるだろうから午後まで寝てるよ」

「そうか、どこか遊びにでも行けたらよかったのに」

 大した深みもない会話。だが今はそれがどこか心地よい。この静かな空間を彼女と過ごしている、それだけで心が落ち着きと平静に包まれていく。

「みんな修学旅行に行けなくて、残念がってるだろうから……どこか遠出しようか?」

「そうだな……」

「そういやリサは修学旅行はどこ行ったんだ?」

「行かなかった」

「え? 六年生の時に?」

「ああ……。……あんなやつらと旅行なんて冗談じゃなかったからな」

 リサの口調に重くて冷たいなにかがのしかかったように感じた。


「……クラスメイトと仲悪かったのか?」

「女子たちは別に……。男どもは大っ嫌いだったけど」

 吐き捨てるような声音に綜士も背筋に寒気がした。

「なんで……?」

 自分でそう述べておきながらなんとなく察しはつく。自我が強くて、気位の高いリサのことだから血気盛んな男子たちと角逐を起こしていたのかもしれない。

「色々言われたから……。髪や目の色のこととか……」

「……」

 生まれ持った形質を揶揄される、というのは一番悔しいだろう。

「それに……」

 なにかを言いよどむリサ。


「なに……?」

「……笑わないか?」

「笑わないよ」

 こんなやさしい声を、誰かにかけたのはいつぶりくらいだろうか。

「オレ、クラブで陸上やってたんだ」

「うん」

「自慢じゃないけど足には自信があった。地域大会でも優勝したことあったし。だけど……もう小五の終わりくらいから、その……」

 こんなもじもじした話し方をするリサは初めて見る。

「……胸とか……出っ張るようになったから」

「あ……ああ……」

 コメントに窮する。発育がよすぎた、といことだろう。西洋の血筋が入っている彼女は他の同級生たちよりも色々と早かったと推察できた。


「それで……今度はそっちでからかわれたりしたり……」

 お互い目を合わせられなくなる。

「変な目で見るやつらまで出てきて……こっちがクラブ中に中学生まで連れてきて、すげえ、でけえ、だのなんだの言われて……」

「……」

 胸をなにかが焦がす。リサにそんなことするやつらを思い浮かべるだけで、怒りが眉間にしわを作った。この場に自分がいたならきっとリサを守っていた。


「でも味方になってくれた子たちだっていたよ、結奈もよく水鉄砲やスピーカーでそいつら追い払ってくれた」

「す、すごいなあの子は……」

「啓吾兄にも世話になった、一度そいつらに本気で怒ってからは、あの中学生どもも来なくなった」

「……いい人、なんだな」

「うん、オレが小さな時からずっとよくしてもらってる、結奈の両親も……特に母さんがいなくなった後は」

 親友の忘れ形見であるリサを大切に思っているのだろう。


「それでも、もううんざりして……クラブもやめた」

「そうか……」

「同学年の男とは口もきかなかったし、目も合わせなくなった。卒業文集も書かなかったし、卒業式もでなかった」

「それで、セントアンナに?」

「ああ、母さんたちもあそこの出身だし、女子校だからな。ようやく落ち着いて学校行けると思った矢先に、聖霊館に男が来るとかいきなり言われてさ、ふざけんなって思ったよ」

「そ、そう……。その男って……」

「ああ、伸治だよ、あいつの方が瞬より先にここに来た。どんなやつかと思ったら、おどおどした弱っちくて、女みたいなやつだった」

「アハハ……」

 本人が耳にしたらショックを受けそうである。


「だから、まあ……男にもいろいろいるんだなって思って……」

 ある程度許容できるようになったと解釈する。

「ところで、えっと……」

「なんだよ?」

「お父さんとは一緒に暮らしてたのはどれくらい前?」

 家族がそろっていた時は別の家で暮らしていたはずである。

「……母さんがいたころは、アルクィン財団の借家で暮らしてた時もあったんだけど」

「うん」

「でも母さんは通訳の仕事、父さんは海軍の任務で家を空けることが多くて、その頃からちょくちょく聖霊館に預けられてたんだ」

 リサの声音は懐かしさと、哀愁がこもっているように感じた。


「母さんはヨーロッパに出張したり、父さんは沖縄勤務になったりで全然落ち着かなくて……。オレはオレでこの街の生活に慣れてたから、ついていく気にもなれなくて、家族なのにバラバラの時間が多かった。それで」

「お店をやろうって?」

 汐浦でカフェ兼レストランを開店する計画があったと聞いていた。

「うん……。そのために二人でお金を貯めてって話だったんだけど、四年前に母さんが死んで……」

「……」

「もうその時点で、やめてもよかったんだろうけど、父さんは計画を続けた」

「リサと一緒に暮らせるようにするため……だろ」

「うん……元々兵卒上がりだから軍での出世もあまり見込めないって事情もあったんだろうけど」

 リサがどこか遠くを見るように視線を上げた。


「それでようやく計画に目途が立った矢先に戦争が始まってしまった……」

 綜士が日宮祭のテロ事件に遭遇して意識を喪失していたころの話だろう。

「オレもわがままだった、ここから離れた米軍住宅で暮らすのが嫌で、聖霊館にいるって意地を張って、父さんを一人にして……」

 母親の急逝で心が荒れていたのかもしれない。

「なのに今になって後悔してる……オレは父さんしか身内がいないから」

 リサの目が暗む。

「父さんも俺しかない……アメリカの施設の出身で、親の顔も知らずに育ったって聞いてる」

「そうだったのか」


「私……あぶくみたいなものなのかもしれない」

「え?」

「なにかのはずみで生まれて、いつの間にかはじけて消えるような……」

「そんなこと言うなよ……」

「ごめん……」

 謝ったのは綜士に対してだけではないだろう。

「アルバム見せてもらったよ、ありがとう」

「……どうだった?」

「どうって……ここで暮らしていた人たちの想いを俺もちゃんと引き継いでというか……」

「なんだそりゃ」

 リサが苦笑して顔を伏せれば綜士も頬に紅をさした。


 少し彼女の内面に立ち入り過ぎたかもしれないと思ったが、聞いてしまった以上はやむを得ない。

「リサ……、俺もまだ一つだけ黙ってたことがある……」

「……」

「さっき話した月坂詩乃……のことだ」

 さん付けで呼べなかったのは、未練の表出でしかない。

「詩乃は……」

 覚悟を決めた。

「もう俺を覚えていない……」

「どういうこと……?」


「事件の後遺症らしい……。中学までの記憶はもう完全にないんだとか……」

 リサが真剣な表情で聞き入る。

「もう気づいていると思うけど、去年のあの事件の時、彼女もあの場にいた。俺と一緒に見て回るつもりだったんだ……」

 思い返すだけで、ちぎれそうな痛みが全身に走った。

「詩乃は来賓として呼ばれてたから、来賓席まで送って、引き返そうとしたとき……すべては一瞬だった、気づいた時には爆風に吹き飛ばされて……!」

 人のうめき、叫び、血と肉の焼ける臭い、あの阿鼻叫喚の地獄絵図が記憶の底から這い出てきた。

「綜士……もういいから」

 息が激しく乱れ、頭がゆすがれるも、口は止まらない。


「俺は、なんとしても彼女だけは助け出さないと思って……! 助けを求める人たちを見て見ぬふりをして、意識を失っていた詩乃を必死に抱きかかえて! 父さん、母さん、伊織のことも構わないで!」

「綜士! もういい!」

 リサに両肩をつかまれた。

「う……」

 そのままリサの腕に包まれて、彼女の体に覆われる。

「……リサ、もう、大丈夫だから」

 リサが体を離す。


 そのまま二人、隣り合って床に腰を落としたまま、なにをするわけでもなくぼんやりと時を過ごした。

 心はどこか澄んだように感じる。内奥にため込んでいた澱みのようななにか、黒い想念をようやくすべて吐き出せたのかもしれない。

 一方で、リサの容態も気になっている。母親のことで思い悩んでいる時期なのに昨日、今日で余計な負担をかけすぎてしまった。それもすべて自分がやらかしたことが原因と思えば、贖いたいと感じる。

「……そろそろ休むか」

「うん……」

 自分が先に体を起こした。

「これはっと」

 アルバムを改めて開いた。最後の方のページに、


「……?」

 また小さな少女の姿が映っていた。

「これって……?」

「ああ、芽衣子だよ、ここに来たばかりのころの」

「……」

 その少女の容貌が、人形のように見えた。感情の色を失ったような瞳、微動だにしない立ち姿、今の芽衣子からは窺い知れないほど生気を感じ取れない。その芽衣子の肩に、リサの母がそっと手を添えていた。

 芽衣子も色々あってここに来たのかもしれない。

「ほら、消すぞ」

「ああ」

 アルバムを棚に戻すとラウンジを後にした。

 廊下を見渡すと一瞬、身震いした。夜の闇の洋館、というのはホラー感がある。


「人気がないと、なんか怖いな」

 独り言のようなつぶやきだったが、

「あ、ああ……」

「お?」

 後ろのリサがわずかにこちらに身を寄せた気がした。気の強い彼女も、こういうのはダメなのかもしれない。


 なんだか……。


 かわいい、と思ってしまった。

「なに笑ってだよ……!」

「べっつにー」

 いつかのリサの口真似で返すと、頭をはたかれた。

 階段を上がった左右の分かれ道、ここから左に行けば男子棟となるが、

「……あの?」

 リサはこちらについてくる。綜士の部屋の20F号室前で並んで立つ二人、

「……リサさん?」

「……」

 意図が読めない。さすがに綜士の部屋で寝る気はないだろうと思うが。ちょっとからかいたくなった。

「今日は俺の部屋で寝るか?」

 口元を馬鹿みたいに歪ませて振り返った。

「……」

「あ、ハハ……じょうだ」

「そうする」

 リサがドアノブを回してドアを開いた。


「え……? あ、あの……」

「……冗談だ、ボケェ!」

「フヴ!」

 胸をどつかれた。

「ったく、今日は散々世話かけてくれたな」

「ああ……悪い、これからは自重するから」

「それと……悪かった」

「はい?」

「お前の、昔のこととか聞いて……しまって」

 リサが顎を下げる。先に昔語りを聞かせれば、綜士が話してくれるかもしれないと、内心で期待していたのかもしれず、さらにはそんな策を弄したことに自己嫌悪を感じているのかもしれない。

「リサ……」

「なに……?」

 意を決したが、言葉がうまく出てこない。

 自分で自分に当惑を感じる。こんなことを切り出すのを躊躇するほど初心ではないはず。

「え、えっとだな」

「うん」

「明日……よかったら……」



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