(3)

 冷たいコンクリートの壁に横顔をつけたままうなだれる。鉄柵の窓の向こうから車のハイビームが時折差し込んでくるのが見えた、ドラマでみたことのあるような檻の中、目をつぶる。どこで間違ったのだろうか。あの時、日宮祭などに行かなければ、詩乃と一緒にどこか別の場所に遊びに行っていれば、今さら考えても詮無いこととはいえ、考えてしまう。

 足音が近づいてきた。

「出ろ」

 発せられたのはシンプルな命令一つ、鉛が詰まったような腰を静かに上げた。


 連れてこられたのは先ほどの無機質な取調室とは打って変わって、空調のきいた来客用と思しき応接室だった。

「かけてくれ、桜庭くん」 

 ジャケット姿の男がソファを指して、着座を促す。

「あなたは……」

 何度か病院であの事件について綜士から事情聴取を行った刑事と気づいた。

「なかなかのご婦人だった。心持ちがまだ中学生の君には堪えただろう」

 あの女の顔を思い出して吐き気がした。

「君は、今はらわたが煮えくり返っているだろう。だが、法律は彼女に有利に働く」

 そうだろう、綜士は詩乃の家族などではない。監督権を持っている人間から近づくなと言われれば対抗しようがない。

「我々としては君の事情というのは理解しているつもりだが……」

 どうやらこの人が落とし役をやるようだ。


「君の御父上、日之崎通商の桜庭綜一郎さんは市と警察の活動にこれまで多大なるご助力をしてくださった」

「……」

「その息子である君の経歴に傷をつけるのは、本意ではない」

 男が目をやった先、テーブルの上に置かれているのは先ほどの接触禁止誓約書。

「納得するのは難しいだろうが……」

 それに署名すれば、事態をこのまま収めることができると言っているのだろう。

「即座にとは言わん。しばらく考えて見なさい。それと……」

 立ち上がった男が、近くの机に置かれたなにかを手に取った。

「赤橋瑞樹さん、という方から預かっている。君に見てほしいそうだ」


 差し出されたのは、ソフトカバーの写真アルバムだった。男が退出する。部屋には綜士一人きり、監視カメラで様子を捉えてはいるだろうが、一人で読むようにとの配慮だろうか。アルバムを手に取ってページをめくった。

「これは……」

 100枚を超すほどの写真、それらにすべて、詩乃が写っている。嶺公院と思しき校舎で撮ったもの、どこかの海岸公園で綜士が見たことのない友達と写っているもの、高校に入ってからの彼女の記録に他ならない。

 春から始まり、夏休み、秋の文化祭、体育祭、修学旅行と知らなかった、知ることができなかった彼女の高校生活が綜士の目に沁み込んでいく。


「え……?」

 一つの特徴に気づいた、最初の方のページの写真の詩乃はどこかぎこちなく固い笑みだったが、後になるにつれて、柔らかく、明るく、自然なそれに移り変わっていく。記憶とともに失った本来の人間性とやさしさを少しずつ取り戻していったのだろう。このアルバムは瑞樹が、あの事件で傷ついた詩乃の精神、それが修復されていく経過を記録し、治療に役立てるためにまとめたものなのだと思い当たった。

 あの小憎らしいポニーテールの少女や大人し気なロングヘアの少女とも笑い合い、ずっと昔から友達であったかのような親しさにあふれた写真も見える。今の詩乃にとって、綜士と彼女たちを価値の天秤にかければ、どちらに重みがあるのかなど考えるまでもない。


 瞳が揺らぐ、本来なら綜士もこの画の中にいた側になっていたはず。無念と悔恨、もどかしさが胸をかきむしる。共に過ごしたかった、一緒に高校生活を送りたかった。思い出は過ぎ去っただけの記憶、どうあがいても取り戻せない喪失感が心に空洞を空けた。

 進級祝いのパーティーと思しき写真では完全に綜士のよく知る詩乃の、本来の顔を取り戻していた。

「……」手が震える。


 俺は……この一年半、なにも……なにもしてやれなかった……。


 あの月坂邸に付着していたペンキ汚れ、月坂九朗の孫として筋違いの嫌がらせを受け、あの家にも住めなくなったのかもしれない。入ったばかりの高校でも白眼視され、忌避されたかもしれない。だが、ただ眠っていただけの綜士はなにもできなかった。

 その間に彼女を守り、支えたのは、隆臣、瑞樹そして、まさしくこの写真に共に写っている綜士が知らない友人たちだろう。

 アルバムから目をそらす。部屋の窓に投射された自分の顔が見えた。醜く焼けただれた異形の怪物、それがどうしてこの輪に入れるというのか。ただ中学二年の夏から卒業まで彼女の恋人だった、それだけの理由で、どうして今の彼女の高校生活に割って入れるというのか。

 頭が冷えてきた。隆臣の言ったことも、冷静に考えれば理がある。


 それでも、俺は……。


 綜士自身の存在が詩乃にとって有益になる部分を探すも、問題の根本は記憶喪失である。素人の綜士に対応できるようなことではない。自己評価の土台が揺らぎ、アイデンティティの結界が崩壊の音をたてはじめた。

 あの時、詩乃の命を救ったのは紛れもなく綜士だが、そんなことは今の彼女の知るところではない。

『お前は運がなかったんだ』

 隆臣のあの言葉が胸裏に木霊した。そう、運がなかった、それだけだろう。

 あの時、綜士と対面した時の脅え切った詩乃の顔、そして今アルバムが見せるまぶしいばかりの詩乃の笑顔、これが一年半を喪失した重みだというなら、もう、綜士の出る幕はない。


 詩乃の恋人である、いや、あったという最後の矜持が遂にひび割れて砕け散った。

 ドアの開く音にも気づかないほど苦悩している間に、先ほどの刑事が戻ってきた。完全に心折れた綜士の顔を見て、このままことを終える気だろう。

 刑事はなにも話すことなく、テーブルの上の誓約書に目をやった。


 特に促されたような気はしない。しかし、内から湧いて出る抗いがたい圧力を受けて腕が動いた。自分の手とも思えない程、冷え切った手でペンを持つ。指を小刻みに震わせて、名前を記入していく。目から落ちた水分が誓約書のあちこちをふやけさせる。最後に、刑事がなにか差し出した。赤い朱肉、命じられるまでもなく指を当てた。最後の仕上げになる。この指を目前のこの紙一枚に押し当てれば、名実ともに、詩乃との別れとなる。


 俺は……俺は……もう……。


 最後の抵抗だったのかもしれない。震える指先が、空中で停止した。刑事はなにも言わない。彼個人は別にどう転んでもいいような気配がする。綜士が決めなければならないこと、ということだろう。


 このまま……詩乃と一言も話すことなく。ただ、いなかった人間として消えるなんて……。


 あまりにも惨めすぎる。一度だけでも話し合えば、なにか彼女から肯定的な変化を促せるのでは、と最後の希望を観測した。だが、思考はその仮定を超えた次のステップにすぐ飛躍した。テーブルのつやの鏡面からも見えるのは、炎にえぐられた自分の顔。それを見せるたびに彼女が想起できるものがあるとすれば、それはあの紅い悪夢以外のなにものでもないだろう。


 だめ……だ……。俺は自分のことしか、見えてなかった……。もう……。今の俺には……。


 今を生きる彼女に、覚えてもいない過去の人間と再び恋人として歩んでほしい、あまりにも……である。隆臣に言われたことを認めるのは悔しくて仕方がないが、自分のわがままと言われても仕方がない。過去から現れた亡霊は亡霊として消えていくのが相応なのだろう。

『恋は恋のまま終わらせた方が美しいって時もあるよ』

 いつか聞いた言葉が、心の根の深奥から響いてきた。


 終わらせ……るんだ……。詩乃の……ために……。


 愛別離苦の桎梏に、遂に心が屈服した。

 誓約書に赤く染められた指を当て、押印した。中学生活の半分を彩った恋の終焉、別れの印、これで、彼女にはもう近づくことすら許されなくなった。

 ソファに全身を預けて、放心したままになる綜士。

「今、迎えがきたところだ。少し待ってなさい」

 刑事が退室した。

 見ることもなく宙を見る。


 すべて……すべて、なくした。


 恋人、家族、友人、帰るべき家、進むべき場所、時間さえ。体感的にはまだ一週間にもならない。しかし、世界の時の流れはそんな綜士一人の事情など何一つ汲んではくれない。


 なにがいけなかったんだ……。俺が、弱かったからか……。


 詩乃を守れなかった事実は不可抗力だろうと、事実である。強いて言うなら、運命に敗れたのだろう。

 これから……俺は……。


 どこにも行くところがない。どこにも帰れない。


 いっそあのまま……死んでいれば……。


 こんな思いをすることもなかったのかもしれない。いくら思いを巡らそうとも決して、解答は出てこないだろう。

 心ここにあらずのまま、ソファに体を預けていると、廊下からなにか言い争う声が聞こえた。

「彼は入院中の怪我人なんですよ! 治療も施さないで取り調べるなんてあまりにも横暴でしょう!」

 聞いたことのある男性の声、手塚郁都のものと思い当たった。

「だいたい、なぜ被害者の彼一人を拘束しているんですか⁉ あの動画はあなた方もご覧になったでしょう! 大勢で取り囲んで殴る蹴るの暴行を受けて、ナイフまで持ち出した者がいる! どうして彼らを逮捕しないんですか⁉」

「落ち着いてください……それはまた別の捜査で現在……」

 ドアが開く音、誰かが入ってきた。顔を向けないでも、もう足音でわかる。


 リサが正面に立ったまま、見下ろしている。黙ったままの綜士。リサが姿勢を落として、汚れた顔をハンカチで拭いてくれた。

「……」

 昔、こんなことがあった気がした。礼を言うべきなんだろうが、声が出ない。

「手塚くん、もうその辺で……」

 別の男性の声を捉えた。

「……また来ます。彼らにはちゃんと落とし前をつけさせてください」

 二人の男が、部屋に入ってきた。手塚郁都と、もう一人、


「こんばんは。桜庭……綜士くん、だね」

 六十路ほどの初老の男性が温和な笑みとともにそう述べた。

「……」

 座り込んだまま虚脱しきった顔だけを向ける。リサが、首を振って綜士が話せる状態にないことを彼に伝えた。郁都も沈痛な面持ちで綜士を見る。なにがあったのかは既知の事柄、と見ていいだろう。


「桜庭くん、そのままでいいから聞いてほしい。私の名は谷田川やたがわみち、海望商事の代表を務めている」

 いわゆる社長ということだろう。

「我々はビジネス上様々な企業と持ちつ持たれつの関係を築いてきてね、君のご実家が経営する日之崎通商にも何度となくご支援いただいたんだ。今は休眠会社となっているようだが……」

 そんなことも調べてなかったことに気づいた。経営は両親の領分だったので他の従業員たちは、あの事件以降、離散したのだろうか。

「そして御父上の総一郎さんには大変世話になった。しかし、去年の事件であんなことになってしまって……。本当に残念だ……」

「……」

「しかし、ご子息の一人である君だけでも、生き延びることができた、といのはまさに天のご采配だろう」


 この人は一体なにを言っている、なにを言いたいのだろう、と思った。

「君は……どこかに今後行く当てがあるのかな?」

「……」あるわけがない。綜士には存命の親戚はほぼいない。黙って首を横に振った。

「とっつぁん、お願い。こいつ昨日、オレと約束したんだ。オレたちの家族になるって……だから」

 リサが立ち上がってなにか訴える。家族とはどういう意味で言っているのか。

「わかっているよ、リサさん」

 谷田川という男が穏やかにリサに微笑む。

「桜庭綜士くん、君を、アルクィン聖霊館に迎えたい」


 あるくぃんせいれいかん……?


「オレたちの住んでる家、みんなで協力し合う家のことだ」

 リサがかがみこんで綜士の目を見る。要するに児童養護施設の類だろうか。

「そこには未来への可能性を持った子供たちが集まっている。誰でも受け入れているという場所ではない。君の、これまでの勇気と善意と……慈悲を見込んで招待したい」

 なにを言い出すのか、と眉をしかめた。

「綜士くん、我々はただ君に同情してこんなことを言い出してるわけじゃない」

 郁都が膝をついて綜士の顔を見ながら、労わるような微笑を寄せた。

 立ち上がった。虚ろな視線を道、という男性に投げかける。

「そんな……そんなもの……俺にはありません……」

「失礼ながら、君のこれまでの経緯というものを少し調べさせてもらった。日宮祭のあの事件で、君は早々に逃げることができる位置にいたが、そうはしなかった。それは、大切な誰かを救うため、だったのだろう?」

 猛火と人の叫びが呼び起こされた。あの時、自分が願ったたった一つの望み、

「その結果、傷を負い時間すら失った。しかし、それは蛮勇などではない。聖なる行いだ」


 命を捨てても惜しくはない誰よりも大切な人、あの少女の命をつなぐことができた。そう、自分のことなど思い出さなくてもいい。あの時の願いは紛れもなく成就されたのだ。ようやくそのことを理解した。

「は……」

 もう枯れ果てたと思った涙が再び、滝の如く流れ落ちる。その場に膝をついて、ただ泣きむせぶ。

「そんな君だからこそ……来てもらいたい、聖霊館へ」

 道が総士に向かって手を伸ばす。顔を上げ、差し出されたその手を、固く握った。



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