おーい、ちょっと

乃木重獏久

おーい、ちょっと

「おーい、ちょっと」


 職場の薄暗い階段を下りていると、上から声が降ってきた。


 あれは事務局長の声だ。他人の都合は二の次で、すぐに対応しないと不機嫌になるあの男の顔を思い浮かべ、俺は心の中で舌打ちしながら、「今行きます」と大声で答えた。


 三階の踊り場で踵を返し、事務局長室のある五階まで駆け上がる。

 二階分とはいえ息が上がるのは、日頃の運動不足のせいか。以前ならこの程度、なんということもなかったのだが。


 先日の健康診断の結果は、これを意味していたのかもしれない。

 同僚の前で数日前に誓った「エレベーター不使用宣言」、そろそろ撤回しようかと思っていたが、もう少し続けてみることにしようか。


 肩で息をしながら、ドアをノックし部屋に入ると、机の奥に、私の顔を見てにこやかになる事務局長がいた。


「お! ちょうどいいところに来てくれた。 今、内線をかけようと思ったところなんだ」

「お呼びでは、なかったんですか?」

「いや、今から呼ぶところだったよ。さすが、総務のホープだな。察しがいい」


 そう言って、階段で呼び止めた事実を否定すると、決裁文書の内容について説明を求めてきた。

 そつなく答えると、事務局長はご機嫌な様子で俺を労い、来月の協議会開催もよろしく頼むと言った。


 ついていた。あのまま声に気付かずに一階まで降りていたら、事務局長が内線をかけてきたときには俺は不在だったはずで、きっと俺に対する不機嫌の嵐が吹き荒れていたはずだ。


 いや。声をかけてはいない、とのことだから、事務局長の言うとおり、俺の察しの良さも磨きがかかってきたのかもしれないな。元々良いわけではないけれど。


 そう思いながら、俺は一階に向かって再び階段を下りた。





 翌日、定時に出勤すると、四階の事務所内がざわついている。

 同僚に聞くと、朝早くに事務局長が心臓発作で亡くなったそうだ。奥さんから総務課長に連絡があったらしく、課長は既に、職場近隣にある事務局長宅を訪ねているという。


 その晩、俺は同僚らとともに、通夜の手伝いとして弔問客の受付を務めたのち、事務所へ戻ってきた。皆、こなすべき業務が滞っていたが、故人のせいにもするわけにも行かず、ただ黙って残業に手をつける。


 次第に夜も更け、気付けば終電近い時刻になっていた。

 いつの間にか、事務所内は俺一人になっており、手早く帰宅の準備をして事務所を出る。そして、細い蛍光灯が侘しく照らす階段を、小走りに下りていく。


「おーい、ちょっと」


 三階の踊り場に差し掛かったとき、上から呼びかけてくる声があった。

 一瞬、亡くなった事務局長かと思いドキリとしたが、どうやら、夜間警備を委託している警備会社から派遣されている、いつもの初老の警備員の声だということに思い至った。どうやら、上の階の夜間巡回中らしい。


 しかし、こちらは終電に乗り遅れるかもしれない瀬戸際だ。聞こえなかったふりをして、そのまま一階へ駆け降りる。


 通用口脇の守衛室にいた白髪頭の警備員が立ち上がり、「お疲れ様です」と声をかけてきたので、俺は軽く手を挙げながら通り過ぎた。


 あれ? あの警備員、上の階にいたんじゃないのか? それじゃあ、声をかけてきたのは誰なんだ? でもあの声、あの警備員の声だったよな。


 俺は疑問に思ったが、腕時計の文字盤が、辛うじて終電に間に合う時間を指していたため、そんなことはどうでも良くなり、息を切らせながら最寄り駅へ走った。





 翌日の晩も、定時に事務所を出ることはできなかった。事務局長不在のため、総務課長に業務のしわ寄せが来ており、その影響で俺たち職員にも負担がかかっている。

 加えて、来月開催予定の協議会の準備もしなければならず、なかなか仕事は終わらない。


 とはいえ、今日は結構仕事がはかどった。こう言っては何だが、事務局長が存命のときは、決裁文書にいろいろ指摘が入り、一つの案件について二度も三度も修正をしなければならなかったが、今は総務課長が事務局長も代行しているため、非常に仕事の進みが早いのだ。


 おかげで今夜は、終電の一時間ほど前に事務所を出ることができた。通用口に差し掛かると、警備員が立ち上がり敬礼をする。しかし、その顔は初めて見る顔だった。


「あれ、いつものあの方はどうされたんです?」

「ああ、あの人ですか? 実は、今日昼過ぎに亡くなったんですよ。ですので、本日から数日間は私が臨時で参りますが、後日改めて人員配置届を提出させていただく予定です」


 駅までの道中、妙な考えが頭をよぎる。昨日と一昨日に俺が階段で聞いた声は、いずれも本人が発した声ではなかった。それだけならば、気のせいの一言で片付けられる。

 しかし、いずれの“声の主”も、それから間もなく亡くなっているのだ。


 偶然の一致。それは疑問の余地がない。だが、“死”という不吉な出来事が絡んでくると、途端に妙な関連付けをしてしまう。

 

 俺は翌日から階段ではなく、エレベーターを使うようになった。

 同僚からは、忍耐が足らないだとか、三日坊主だとか冷やかされたが、不吉な出来事はたくさんだ。それにエレベーターを使わない職場生活を五日は続けたのだから、咎められる筋合いはない。


 そして日々の業務の中、次第にあの出来事は俺の頭の中から消えていき、ほとんど思い出すこともないまま、協議会の日を迎えた。


 事務局長欠員のまま開催された協議会の場で、職場の幹部管理職と外部の委嘱委員連中の前で議事進行の任を全うした俺は、議事録作成を後輩の女性に任せ、協議会にかかった費用の請求書を手に、二階の経理課へ向かうことにした。


 乗ろうと思ったエレベーター前では業者が工具を広げ、その扉には「使用中止」の札が掲げられている。どうやら、エレベーターの法定検査のようだ。そういえば、そんな連絡メールを見たような気がする。


 仕方がない。久しぶりに階段を使うか。費用明細が添付されていないこの請求書、また経理に文句を言われるのだろうか。そんなことを考えながら、俺は二階へ向かった。


「おーい、ちょっと」


 俺は踊り場で立ち止まった。過去が突然よみがえる。事務局長に警備員。そして今度は誰なんだ――。


 しかしその声に、俺は心当たりがなかった。職場にはあんな声の人間はいない。そして、警備会社はもちろんのこと、出入り業者や関係会社でも、心当たりのある人物は思い当たらない。


 以前どこかで聞いたことがある声のような気もするが、思い出せないということは、ほとんど縁のない人物だろう。もしかしたら、テレビか何かで聞いた声かもしれない。


 仮に、今の声の主が死ぬことになっても、俺には何も関係ない。今この瞬間にも、この地球上では多くの人が亡くなっているはずだ。その死一つ一つを気にしていても仕方がない。それと同じことじゃないか。


 俺はそう思いながらも、やはり気になったため、階段を五階まで上がってみる。案の定、俺を呼んだ者は見つからなかった。


 気のせいだと自分に言い聞かせながら、もう一度階段を下りると、四階で後輩の女性が俺を呼び止める。


 俺が依頼している議事録作成のため、会議を録音したボイスレコーダーを聞いて、文章に書き起こしていたが、滑舌の悪い委員の発言が聞き取りにくいので、助けてほしいとのことだった。


 請求書の件は後回しにし、総務課へ戻ってボイスレコーダーのヘッドホンを耳にあてる。

 

 そう、この声。いつも滑舌が悪く、直接聞いても何を言っているのかわかりにくい委員の声。録音されたその声は、会議室の壁に反響していることもあり、余計聞き取りにくい。これを書き起こすのは相当骨だ。


 そう思った俺は、前後の発言内容から内容を類推しようと、音声を巻き戻す。そして、適当なところで再生したとき、それは聞こえた。先ほど階段で聞こえた声が。


 協議会の出席者には、こんな声の人物はいなかったはずだ。それじゃ一体、誰の声なんだ。


『それでは続きまして、今年度上半期の業務実績につきまして、担当課長よりご説明差し上げます――』


 俺の声だった。協議会で議事進行の司会をする俺の声。いつも聞く自分の声とは違う、本当の自分の声。そういえば、俺ってこんな声だったな――


 何かが背筋を這い上がってくるような気がした。

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