霞の向こうに

おイモ

霞の向こうに

霞の向こうに


 君を救ったのは自分を救いたかったから。

 生きるのがとても苦しくて、生きているものを見たかった。

 小さな呼吸が生命を吹き込んでくれた。君が笑うと自分も笑っているみたいで嬉しい。

 生きている意味を与えてくれて本当にありがとう。


『多摩川に変死体、浮かぶ』

 八月四日、多摩川の河川敷に厚労省職員とみられる男の水死体が発見された。四日明け方、スーツ姿の男が浮かんでいると調布市の郵便局員が通報。警察が現場に駆けつけ、水死体引き揚げたところ、死体は変死体で、死因は不明。身元を確認できるものはスーツの厚労省所属を示すバッジのみ。腐敗状況から、死亡して時間はさほど経過しておらず、警察は現場付近の調査を行うとともに、自死、殺人事件の両面で捜査をしていくと発表した。



 勢いよく起き上がると枕元の九八〇円のスコッチが倒れた。中身のウイスキーがトクトクトクと漏れ出す。昨晩、蓋をしっかり閉めていなかったせいだ。

 イグサは慌てて瓶をつかもうとしたが首筋の痛みで腕を伸ばせなかった。寝違えか。暑い夏の夜は寝苦しくておかしな格好で眠りについてしまい、よく首を痛める。

 スコッチはどんどん布団に染み込み、じんわりと茶色の海ができる。わけもなく昨晩の夢での彼方を思い出した。

「この世界に何もないなんて言わないで。きっと、あなたにとっての安息があるはずよ」

 彼方の言うことはいつもわからない。どこか概念じみているし、予言や啓示めいているときもある。でも、彼方はイグサがいつしか創り出した存在だから、たいていはいい加減でどうでもいい戯言なんだとイグサは思っている。

 でも、脳内の掃き溜めにそれを置いておくことはできない。イグサは彼方の言葉一つ一つを大切に引き出しへしまい込む。そして、ふとしたときに取り出して、味のない乾燥したパンを咀嚼するように理解しようとする。考えなくていいことを考えてしまうのが人間という思考生物なのかもしれない。

 首の痛みに耐えながらゆっくりとスコッチの瓶の閉め、濡れたシーツを剥がし、洗濯機に丸めて押し込んだ。洗濯開始のスイッチを押そうとしたが、時刻を確認して、やめた。七時十分。洗濯する時間はない。

 微かに自分から酒の臭いがする。歯を磨きながら思った。二日酔いするほど昨晩は飲んでいない。居間の冷蔵庫が開いて、彼方がパックに口をつけて牛乳を飲んでいた。片手には齧った跡がついたバターロールを持っている。

 彼方はイグサの視線に気づくと、「髪の毛跳ねてるよ」と笑いながらぱたぱたと洗面台へ駆けてくる。鏡で後頭部を確認するとたしかに派手に髪が跳ねていた。彼方は洗濯機の上に開けっ放しの牛乳パックを置いて、イグサの後ろ髪にワックスをつけ、伸ばした。鏡を見ると跳ねは直っていて、暑さのこもる部屋に歯ブラシを咥えたイグサだけが突っ立っていた。



 クレームは俗世では「お客様の声」という名で呼ばれとても貴重な助言とされているが、実際は頭のおかしい一般モンスターの喚きであり、支離滅裂で利己的、他者を顧みない意見ばかりだ。余程の不手際があったなら別だが、店員は人間で千差万別だし、客も同様だ。五月蝿く騒ぎ立てる奴は一部で、あとはみなスーパーマーケットなんてどうでもいいと思っている。指摘なんかしたところで自分の思い通りにはならないし、理想のスーパーマーケット像なんて押し付けるのをどうかと思う人間のほうが多数だ。それなのに、値段が他所より高いだの、他所の商品がないだの、店員の態度が気に入らないだの、客層が嫌だ等、寄せられる苦言は後を絶たない。片言の日本語にしばしば多言語が含まれていて解読不能な内容も多い。他にも、政治的な不満を述べる世直しやくざなどがいる。

 部署の理念として「お怒りのお客様を我が社のファンにしよう」と掲げられているがこれも不愉快極まりない。刃を向ける相手に手を差し伸べる意味がイグサにはわからなかった。

 今日もイグサは三十件の殺害予告、自殺教唆めいた「お客様の声」に、いつもご利用ありがとうございます、から始まる定型文で返答を書き込んでいた。


 イグサが卒業した大学はお世辞にも頭が良い人間が進む学校ではなかったが、どうしてかGMS、つまり大手スーパーマーケットに就職した。

 しかし、はじめに派遣された現場でろくに仕事もできず、客にクレームをつけられるばがりで、三年すると本部のクレーム処理部署に異動になった。ここは現場でも使い物にならない正規雇用社員の流れ着く最果てで、残念新卒社員や、窓際族のおじさんたちが集まる部署である。たいして頭を使わなくて済む仕事が多く、無能でもついていける。イグサは現場の叩き上げについていけなかっただけで、ここでの仕事は難なくこなせた。

 そのうち、部署のリーダーが精神を崩して退職、代わりに二十五のイグサがリーダーに昇進したが、これがまた不運で、朝から終電まで「お客様の声」と向き合うことになり地獄を見た。また、前任が本部のいじめを受けていたことを後から知った。劣悪な環境と化した。

 イグサにはもちろん突出した才など無く、努力する気概も皆無だった。人生はずっと落ちこぼれで、生き生きと社会を駆け抜ける人間を横目に空洞のような人生を辿ってきた。ここまで生きてこられたのは彼方という唯一の友人がいたからだ。彼方はずっと傍にいてくれたし、たぶんこれからも一緒に生きていく。彼方がいてくれるだけでイグサは寂しさなんて感じなかったし、貧相な生活は楽しくなった。


 新宿のホームは最終近くとは思えないほど人が乗る。みな疲れた顔をしていて、頭の中のある一本の糸が切れると自分か他人の首を絞めそうな雰囲気がある。おそらく自分もそうなんだろうな、とイグサは夜景のネオンに反射した自分の姿を眺める。疲れなんてとうに忘れた。仕事を始めてから不思議と体力がついた。フィジカルのスタミナというより、精神的な殻が分厚くなったように思える。果たしてそれは良いことなのだろうか。でも、感性を鈍らせしぶとく生きるのは、多くの社会人のあるべき姿なような気がした。

 品川駅で京浜東北線に乗り換える。ホームを移動する間、スーツばかりとすれ違う。電車がやってくるとコンクリートジャングルの熱気が一瞬だけ列車風で飛んだ。電車内の空調で汗の滲んだシャツが冷えた。

 大森で降りてイグサは西口に出る。大通りを北方面に進み、半田屋の手前で山王小路商店街へ続く石階段を降りる。こじんまりとしたスナックや居酒屋が立ち並ぶ小道を歩き、店先にメイカーズマークの赤い蜜のかかった樽が立つバーへ寄る。

 イグサは仕事帰りこの店によく通っている。三時までやっているし、駅前の他所の店に比べて銘柄が豊富でほんの少し安い。そしてバーテンダーの若い女は客に一切興味がなく、ただひたすらにナイフで氷を丸く削っている。角張った氷が綺麗なまんまるに矯正されていく様を眺めていると落ち着く。

「ボウモアは頭が痛くなるからさ、ラフロイグにしてくれ」

 イグサが店に入ると金髪の男がカウンターにいた。初めて見る客だった。この時間にこの店にいる客はイグサを含めてあまり多くない。だからカウンターに誰かがいてもたいてい見知っている人だが、今回は知らない金髪だ。

 イグサはちらと横目で見ながら一つ席を空けてスツールに腰掛けた。金髪の男はバーテンダーが置いたラフロイグのロックの香りを嗅いでにんまりと微笑んでいる。

 店の中はカウンター5席のみと、とても狭くて非常に暗い。天井からエジソンバルブが数個ぶら下がっているだけの照明と、カウンターに置かれた蠟燭しか光源がない。地中の隠れ家のような外壁には一面にチョークでロックミュージシャンが描かれている。ジミ・ヘンドリクス、カート・コバーン、スティング、ボブ・ディラン。時々消しては新たに描く。過去にはドナルド・フェイゲン、プリンス、キース・リチャーズ、プレスリー……。バーテンダーが描いているのかはわからない。聞いていないし、聞かないからだ。絵はプリントしたみたいに精巧に描かれていて、消されるたびに惜しくなり、描かれるたびにため息が漏れた。

 けれど、今晩はチョークの壁画より先客の男に興味が注がれた。店は暗いが、それでも男が高いスーツを身に纏っているのが世間知らずのイグサでもわかる。ビジネスマンにしては成金趣味すぎるし、ヤクザだとしてもそんな人間はこの店に来ない。

 満足そうに男はラフロイグを舐める。金髪は綺麗に整っていて長すぎず短すぎない、ちょうどいい長さだ。大学生のようなブリーチしすぎの線の細さは微塵も感じられない。横顔しか確認できていないが、鼻は高く目の堀が深い。アジア人特有ののっぺりした平面な顔の造りではないように見える。日本人じゃないのかな。

 バーテンダーはなにも聞かないでホワイトホースのロックをイグサの前に置いた。イグサがいつもホワイトホースの十二年のロックばかり頼むから、バーテンダーは、イグサが何も言わないでいるととそれしか出さなくなった。イグサとしてもホワイトホースが一番安いし、落ち着いて好きなスコッチだから構わない。

 ホワイトホースを口に含む。丸い氷が傾けたグラスの内側で重く転がる。再び隣の金髪の男に目を向けて、驚いた。男がこちらを見ていたからだ。

 男はにんまりとした微笑を崩さずにいたのが、イグサが彼をじろじろ観察していたのをとがめるように思えて怖かった。瞳は黒く、アジアの目をしている。イグサは申し訳なさを込めるようにこうべを垂れた。

「君、どこ住んでるの?」

 やはり癪だったんだ。いきなり居所を尋ね、脅しにきたのだとイグサは緊張した。お前みたいな雑魚、いつでも寝床を消してやるぞ。男の浮かべる笑みが暗にそう伝えている気がして震えた。

「大丈夫、俺は怖かったり怪しい奴じゃない」

 男は流暢な日本語、というより日本人が話すような完全な会話の抑揚で喋った。「俺の名はリン。よろしく」手を差し出されてイグサは一瞬戸惑ったが、手を握った。

「君は?」

「僕は……イグサ」

 リンは名前にピンときていないのか眉を寄せたので、伊藤のイに雑草のクサと説明してやった。

 自分で怪しくないと弁明する人間ほどますます訝しんで見てしまうが、握手までして名乗り返さないのは失礼だし、現に、リンの甘いマスクは警戒を緩く解かす力があった。

 リンはイグサとの間に空いていた一席のスツールに移って距離を詰める。「で、どこに住んでるの。近く?」

「まあ、その辺……」

「その辺?」

「馬込辺り」

 ふーん、とリンはしつこく訊いたわりに興味なさそうにラフロイグを啜った。近づいてきたリンの身体から、ふんわりとオーデコロンが香る。

「だいぶ顔色悪いけど、何かあったの?」

「もともとだよ。普通に仕事してきただけだし」

「仕事でそんなに顔色悪くなるかい」

「毎日、死ねとか殺すとか言われるからね」

 わお、とリンは声をあげた。「君、そういう風に見えないけどそっち系なの?」

「そっち系が何かわからないけれど、大袈裟に言っただけだよ。新宿でスーパーのクレーム処理をしてる。会社の末端さ」

「へえ……」またリンは興味なさそうにしていた。

 聞かれるばかりのイグサはこの男に素性を尋ねてやりたかった。年齢、国籍不詳、生業も想像できない目の前の男は謎に満ちていた。

「あなたは何をしている人なの?」

「俺はね……そうだなあ」リンは屈んでスツールの下の紙袋を取り上げた。「たとえば、俺はこいつを君に預けたいと思っている」

「はあ」イグサは紙袋の中を覗いてみた。

 暗くてよくわからないが、何か黒いものが入っている。

「これは?」

「ベレッタ」

 ベレッタ?訊き返してイグサは紙袋に視線をまた落とした。よく見てみると黒い物体は拳銃のような形をしている気がする。

 ベレッタという言葉の聞き馴染みの無さは拳銃の名称なら納得できる。普段、拳銃の名称なんて口に出さないし聞かない。

「これ、ホンモノじゃないよね……」

「勿論」

 リンは笑顔で首を振った。

「実は、嫁が断捨離に嵌まってしまって俺のコレクションのモデルガンがピンチなんだ。だからこうして会う人会う人に俺のコレクションを渡して、いずれ訪れるであろう危機に備えているんだ」

「ごめん、よくわからないんだけど」イグサはリンを見る。「これは君の大切なものなんだろう?それを見ず知らずの会ったばかりの人間に預けるのは、どのみち危険なんじゃないか」

「よく考えてくれ。俺の友人に預けたら、嫁は友人を片っ端から訪ねまわるかもしれないじゃないか。俺はちゃんと人を選んでいる。君は俺のベレッタを護るのに適してそうだ」

「どの辺が?」

 リンは多少言い淀んだが、「誠実そうでちゃんと仕事をしているから」と答えた。

「理由になってないよ……それに、それはあなたの仕事ではないでしょう?」

 リンは聞く耳持たず、胸ポケットから財布を取り出してベレッタの入った紙袋に万札をひらひらと落とした。

「ちゃんとデポジットも渡す。預けるのが長期に渡りそうなら追加で払うし、その分は君が自由に使ってくれたまえ。もし、俺が取りに来なかったら好きにしてくれていいよ、その金もモデルガンも」

 リンは金とベレッタの入った紙袋をイグサに押し付ける。イグサは突き返そうとしたが、リンは立ち上がってグラスのラフロイグを一息に飲み干した。

「じゃあ、そういうことで」

 身を翻してそそくさとリンは店を出ていった。イグサは慌てて追いかけたが、既に小路には姿がなく、諦めて店に戻った。リンの座っていたカウンターに千円札二枚が置かれていて、紙袋の中には万札が三枚と連絡先が書いてある紙切れが入っていた。そして、その下に漆黒に艶めくベレッタという拳銃が鎮座している。

 若いバーテンダーの女は黙ってカウンターの二千円を回収して、引き続き、桐のまな板で氷を切る。動揺して落ち着かないイグサはホワイトホースのグラスを揺らし、琥珀のプールに浮かぶ丸い氷を転がした。

「なんか大変なことになっちゃったね」彼方はテーブルに肩肘をついて笑っていた。



 馬込のアパートには野良猫が多く住み着いていた。隣の山王の金持ちと違って退屈な馬込のじいさんとばあさんらは猫に餌付けしている。生存社会が壊れた猫たちは狂ったように子を産み続け今朝も発情期の不機嫌そうな奇声を上げていた。

 今週に入って一気に暑くなった。イグサは汗を拭いながらホームで電車を待っている。

 会社はブラックそのものだったが幸いなことに通勤時間はその辺の会社より遅い九時半で通勤ラッシュから少しズレている。京浜東北線で品川に向かうまでは混むが山手線に乗り換え新宿まではよく座れる。品川のキオスクで冷たい缶コーヒーを買い外回りを一本見送ってプルタブを片手で引き開けた。

 電車がホームにやってきて扉が開くと人が流れ出てきて、それが終わると今度は流れ込む。血液細胞のように停滞なく動き回る姿は気持ちが悪かった。しかし東京勤務になってから数ヶ月で慣れてしまった。

 ちょうど空いたシートに尻を滑り込ませて鞄を膝の上に置いた。クーラーから出てくる冷気は人熱で相殺され、不思議と車内は適温になったが、空気は目に見えてもおかしくないくらい汚れている。

 会社なんて行きたくない。揺らぐ電車はイグサの意思とは関係なく走り続ける。ビジネス鞄を立ててその上に両腕を組み顔を埋めた。

「つらいわね」

 ふと彼方の声がして顔を上げると向かいのシートに彼方が座っていた。

「どうして生きているのかわからなくなる。生きるために働いているはずなのに働いて生きるのがつらくなる」

 窓からは目黒の街並みが見える。電車は走り続けているけれど、時間が止まったみたいだ。彼方はイグサを見ず、どこか遠くの方向を見つめていた。

「電車って嫌になる。人はどうして群れると意思やアイデンティティが薄れてしまうのかしら。このアルミニウムの箱舟に乗り込むに人間は点でしかない。点と点は線となり、線と線で……でも何になるんだろう」

「僕にもわからないよ」

「こんなに思考する生き物がいるというのに、誰もが息をしていない。無言のシンガロング。壊れているみたい」

 イグサは首を振った。

「彼方、みんな生きるのに必死なんだ。常に変わり続ける社会に適応し続ける。それはとても難しいし、人にしかできないことなんだ」

「あなたもそう?」

 イグサは何も言えなかった。自分の口から出した答えに自分が当てはまっていないように感じた。変わり続ける環境に適応する。それができなかったのが自分ではないのか。

 何か特別な仕事をこなせるわけじゃない。発展性のない無生産な業務にあたる日々。現状を変えようとせず止まった思考。自分は彼方の言った壊れた群れ、いや、その一部にすらなれないんじゃないか。イグサは胸の奥が苦しくなった。

「僕はだめなんだ。何もできない人間だ」

 イグサは小さく呟く。新宿に到着したホームのチャイムが鳴ってハッと前方を見たが、もうそこには彼方はおらず無声の人の群れが動き出していた。


「鬱病で辞めた?」

 オフィスに入ると人事と部長が話していた。

「ええ……今年に入ってからもう三人目です」

「診断書とかそういうのは貰ってないの?」

「何も……。鬱になったので辞めますと電話一本だけ寄越してバックレですよ……信じられない」

「ちょっと俺が連絡してみる」

「無駄ですよ……。アイツこの会社の人間みな着信拒否にしてるみたいで誰の番号から掛けても出ないんです」

「なんだよそりゃ……最近の若い奴は責任能力が皆無だな」

 部長は禿げ上がった頭を抱えていた。まだ朝だというのに額は脂でテカっている。加齢臭とヤニと脂汗が混ざって耐え難い臭いを放っていた。

 イグサがタイムカードを切って脇を過ぎようとすると腕を掴んで止めた。

「イグサくん、参ったよもう。カトウが辞めちゃったよ」

「はあ」

 カトウは営業部署の新卒で、イグサたちと同様、新卒がみなそうするように店舗を周りながら実業務をこなし、その後、営業に加わる手はずであったが、突然、営業はカトウを突き放す運びとなり、イグサのいる窓際のクレーム部署へ異動となった。つまり、カトウは嫌われていたのだ。現場にも営業にも。

 カトウを含めた三人のある新卒グループが遣わされた店舗は都内ワーストの劣悪環境だった。いじめ、超過作業、底辺レベルの客層。半年も満たない八月現在、三人のうち二人が退職している。

 一人は上司とのトラブルで自宅で首吊り自死未遂を起こし、首に赤い跡を残して出社したが、そのことを当の上司にいびられ翌日に辞めた。その後、しばらくしてまた首をくくって今度は死んだらしい。

 もう一人は実に使えない男で、ミスが絶えず、何度も上司に殴られて現場に飛ばされた。そして現場で客を殴ってクビになった。

 カトウの異動を知らされたとき、部長はさもおかしそうにへらへらと笑ってその話をしていた。そのときに名簿でカトウの顔を見た。細い長方形な顔をしていて目が細く、スポーツ刈りだった。いじめられるような気弱な印象は抱かなかった。

 三人は仲の良い同期だった。そしてこの会社にやってきてから狂っていった。カトウは二人目の葬式に出たあと、生きている意味がわからないと泣いたらしい。案外、鬱で辞めたというのは間違っていないのかもしれない。

「まあ、使えなさそうだし、教育の手間が省けてよかった。ねえ、イグサくん」

 イグサは何も言わなかった。そのまま自席に向かおうとしたが、部長は再びイグサの腕を掴んだ。握力の加減ができない動物なのか、暴力的な痛みを感じる。

「でね、イグサくんにお願いしたいことがあるんだけど」

「なんですか」

 部長は気味の悪い笑みを浮かべる。

「カトウが派遣になってた西東京の店舗主任がね、カトウに資料を無くされたって怒っているんだよ。カトウの異動手続きがまだ済んでいなかったから、今も営業部所属になっているはずで、この件も営業部でなんとかしてほしいんだけど、営業がこっちに押し付けるんだよね。クレーム処理はお前らの仕事だって。そもそも、資料がなんのこっちゃ知らないし、カトウとか知らないんだよ」

 だからなんなのだ。イグサは腕を振り解いて逃げたかった。

「イグサくんさ、もう今日仕事しなくていいからさ、その西東京の店舗主任に謝りに行ってくれない?リーダーでしょ。カトウくんは君の部下になるはずだったわけだしさ、部下の尻拭いは上司の務めじゃない?」

「そんな……」なぜ営業でもなく、店舗と関わりすらない自分が謝りに行かなくちゃいけないんだ。「冗談じゃないですよ。僕だって資料とか知らないし、カトウなんて会ったことない。それに、部長だってカトウの上司にあたるじゃないですか」

 なんだと。部長は怒鳴った。

「いいのか?それで……」

 イグサからタイムカードを取り上げて、ひらひらと撓らせて振った。

 この会社には、都合の悪い社員に対してタイムカードを改竄する、むごい仕打ちを行う悪習がある。部長がこの窓際オフィスで作業の姿勢をとる際、その内容はたいてい、労基に体良く労働状況を見せるための超過分のカットだ。特にこの部署は会社の最果てで、ここを弾き出されるということは、つまり職を失うということだ。

 残業代を切られると生活がままならない。馬込の安アパートとはいえ、腐っても都内だ。家賃は安くないのだ。イグサは何も言えず、取り上げられたタイムカードを目で追った。

「行くよな」

 部長はイグサの返事を待たず、タイムカードとイグサの腕を放し、自分のデスクへ向かった。タイムカードはひらひらと抵抗を受けながらゆっくり床に落ちた。



 カトウが資料を紛失したらしい店舗は西東京市の南端にあった。都心から離れた静かな町の比較的大きな規模の店だ。

 区内には小型店舗を、中心から外へ向かうにしたがって大型店舗にシフトしていく。小型店舗はコンビニとそう変わらない坪面積に、スーパーマーケットらしいラインナップを詰め込むのに対し、大型店舗はスーパー以外にもアパレル、インテリア、雑貨専門店、飲食、コスメ、シネマなど様々なテナントを備え、ファミリー層をメインに誘致していき、駐車場は千台弱用意している。車以外のアクセスはあまり良くない。

 イグサは新宿から中央線に乗り、三鷹に降りて店舗の近くまで通るバスを探したが、気が滅入っていたこともあって、さっさとタクシーを捕まえ直行することにした。

 部長は社用車の申請を許可しなかった。イグサの部署は基本的に外を回ることはないから社用車を持たない。そのため、本部に申請して借りる必要がある。申請は部長を通さねばならず、部長はイグサを無視したため、こうして足を動かして向かっているのである。

 部長に対する苛立ちが募る裏で、これから会いに行く店舗主任について不安が込み上げてくる。

 精神に支障をきたし、カトウら三人が辞めたきっかけとなった店。もともとブラックで悪名高いこの会社だが、その中の悪性腫瘍にあたる。血管から細胞までいたるところが腐っており、治療しようにも根まで浸透した毒に誰もが冒される。結局、虫歯は放置され毎年数人が死に、その事実は巧妙に隠される。この国の突然死の大半は突然死んでいない。しっかり毒牙にかかり、ゆっくりと死ぬ。

 僕はいったいどんな目に遭うんだろう。イグサはタクシーの硬いシートに凭れながら気落ちしていた。

 午後二時過ぎ。三鷹から桜通りを走り続け、料金が千円を少し超えたあたりで降りた。暗雲垂れ込めるイグサの心の内とは打って変わって、空は晴天で灼熱ほど暑くなく散歩日和だった。春であれば景色が綺麗であろう桜並木を歩くことにした。

 どうして自分が謝りに行かねばならないのか。わけのわからない事情に巻き込まれ、何故カトウの尻を拭わなければならないのか。腑に落ちないことばかりで嫌になる。胃がきりきりと締め付けられる。

「あなたは悪くない」彼方は隣を歩いていた。「あなたは悪くないのに、どうして辛い思いをしなくちゃいけないの」

「僕は悪くないけれどこれも仕事なんだよ」

「仕事の意味わかってる?」

「僕の仕事に意味なんてないよ」

「何かを生み出し、何かを成し遂げる」歩きながらイグサの手を握る。「それが仕事の定義よ」

「そんなたいそうな仕事なんてない。特に、僕には」

 イグサは首を振る。自分には何も無い。

 桜並木を抜けると目的地の大きなスーパーの複合店が見えてきた。ふと繋いでいた手の温もりが消えて、振り向くと隣は空白だった。握っていたはずの温もりは夏風に乗って流れていった。


 従業員入り口から中へ入り、名刺を警備員に見せ、客人用のパスケースを受け取り廊下を進む。便所と喫煙所、休憩室を横目に歩き続ける。廊下の壁はひどく剥げていた。すれ違う度に従業員は挨拶をするが事務的で冷たい。喫煙所にはコック帽を被ったままの飲食店テナント従業員が虚ろの目で煙草を吸っている。休憩所にいる人はほとんど机に突っ伏して寝ている。生気がまったく感じられない。だだっ広い業務用エレベーターで三階へ向かう。エレベーターの中は黴の饐えた臭いがした。三階の廊下は人気がなく、イグサの歩く足音だけが廊下に響く。「私が一緒にいてあげる」彼方の声がしたが姿はどこにも見えなかった。不安と緊張で脚が震える。胃袋は雑巾みたいに絞られて擦り切れそうだ。

 エレベーターを出るとまっすぐの廊下が続いていて、突き当たりはショッピングモールに出る扉、それまでに便所ともう一つ扉があった。主任事務室。イグサはノックしてからドアを開けて中へ入った。

 部屋は八畳ほどの広さで窓が無く、壁一面にメタルラックで商品の在庫が積んであった。手前に応接用の椅子とテーブルがあり、奥のデスクで男が受話器を片手に怒鳴っていた。

 嫌な予感ばかりが頭を過ぎる。汗が背中で滲んでいる気がする。

「カトウはまだ見つからないのか!何をやっているんだ!こののろまども!」

 主任は受話器のカールコードをいっぱい伸ばして唾を飛ばしていた。中年の醜さを一二〇%詰め込んだような小柄の男だった。

「いいからカトウを探せ!」

 主任は乱暴に電話を切って肩で荒く息をしながら、胸ポケットからセブンスターを取って火をつけた。

「なんだお前は」

「あっ私、本部から来ましたイグサという者です」

「イグサ……?」紫煙を吐き、低い声で言った。「何の用だ」

「退職したカトウが資料を無くされたとのことで……」

「お前のとこのカトウはどこにいる!」

「カトウは辞めて……どこにいるのかはわかりません……」

 主任はセブンスターを投げつけた。灰が中に舞い、イグサまで届かずに手前で落ちた。そのままイグサに向かってきて、ど突く

「だからどこにいると聞いている!」

 イグサは突き飛ばされて尻餅をついた。鳩尾を押されて肺から空気が逆流して咳き込む。床は掃除がまったくされておらず、履いているのスラックスが埃まみれになった。

「早く探し出せと何度も言っている!お前は何をしに来たんだ?遊んでる暇があるならあのクズをさっさと探してこい!この薄鈍野郎」

 唾を飛ばして怒鳴る。馬糞のようなヤニの臭いがした。立ち上がろうとしたイグサは腹部を蹴られた。そのまま壁際のメタルラックに激突して、積んでいた在庫の土鍋容器がイグサの側頭部に落ちる。

 鈍い衝撃で視界が歪む。左耳の上のあたりと蹴られた腹が痛む。イグサは恐怖で男の見上げられない。

「カトウを寄越したのは本社のお前らだ。責任もってカトウを探し出せ!」

「僕は何も聞いていない……何も知らない。謝りに行けと言われただけで……」

「知られてたまるか!中身を見た奴は全員殺してやるぞ」男は馬乗りになってイグサを殴る。「カトウはどこだ!リストをどこにやった!」

 イグサは両腕で頭を抱えた。蹲ろうとするが、主任が見た目以上に重くて退かせられない。何度も何度も殴られ、胃袋が痙攣し嘔吐した。殴打された部分の細胞が破壊され、骨に衝撃が響いている気がする。口の中が血と酸の味で気持ち悪い。涙が止めどなく溢れた。頭の奥がしんと冷たくなって、脳みそが締めつけられる感覚がする。意識が飛ぶのか。痛みの中でイグサはふとそう思った。

 突然、怒り狂っていた主任が動きを止めて、崩れ落ちた。イグサは力を振り絞って、上に乗ったまま動かない主任を床に転がした。身体を起こして仰向けで横たわる主任を見る。

 主任の様子がおかしかった。目を見開いて歯をがちがちと鳴らし、涎が溢れてくる。殺されるかと思ったのに。安堵はしたが、状況がわからなくてパニックになりそうだ。

 背後に気配を感じて振り向くとそこには彼方が立っていた。主任の傍にしゃがみ、青筋の立った髪の薄い頭に手を突っ込む。そして、ゆっくり説き聞かせるように喋り出した。

「あなたの耳の穴から入り込む。虫。熱い粘液を纏わせて耳管を溶かして進む。六本の脚の虫たちが頭の中に住みついて脳幹に齧りつくとき発条みたいな音が響く。小脳、大脳、脊髄神経、目、のど、鼻、口の中、歯の隙間、腸、胃袋、性器、精巣、肝臓、腎臓、膵臓に卵を産み付け孵化して幼生がいたるところを一斉に噛みつく」

 彼方の手は頭蓋をすり抜けて、脳をかき混ぜている。挽肉を捏ねるときと似た音が部屋に響く。主任は短く、はっはっ、と汚い声をあげるだけで、びくんびくんと身体を震わせ歯を鳴らしていた。

 彼方には表情がなかった。わけのわからない虫がどうこうをぶつぶつ呟きながら人間の頭に手を入れる姿は悪夢のようだった。イグサは唖然とした面持ちでただその光景を眺めていた。

「身体が引き裂かれるような痛みと痒みでまず目玉が抉り出したくなる。腕を喉の奥へ突っ込み胃袋を捕まえてそのまま腸を両手で綱を引くみたいに引き摺リ出して掻き毟りたくなる。それでもあなたは生きている。虫が生きている。やがて幼生が蛹になり羽化する変態の過程を体内で感じてしまう。愛しい我が子が内蔵を巣食うのはたまらなく気持ちがいい。頭の中の脚が六本の虫たちは発条みたいな音を立てながら死ぬまで脳幹を齧り続けあなたの生命のパドスを回し続ける。あなたは嬉しい。痒い。気持ちがいい。気持ちが悪い。死にたい。死ねない。苦しい。痛い。死ねない。やがて羽化した虫たちは肉壁を食い破り一斉に飛び立つ。肉片になったあなたは死ねない。脳幹に齧り付く虫たちはあなたを死なせない。永遠に身体の内外部を這いずり回る虫の感覚に侵され既に無い脚無い手の痒みと痛みを感じ続ける。死ねない。死ねない。死ねない」

 主任が口を大きく開き、思い切り閉じた。かちん、と音がした。また口を開き、今度はゆっくり閉じた。ぱくぱく開閉する口の動きといい、見開いた目は腹話術人形を思わせる。

「おっ」腹の底から声が鳴っている。おっおっおっおっ、「俺はなんとしてでも探さなければならない。俺はどうにかして探さなければならない」

 主任の声は口や舌の動きとタイミングが同期しておらず、不気味だ。

「リストは暴かれてはならない。組織にバレてはならない。俺は生きねばならない」

 彼方は頭蓋底に沈む鍵を探すように手を動かし続ける。時々、主任は喘いだり小さく悲鳴をあげたりする。

 主任は一体何を言っている。リスト?組織?何がバレてはいけないんだろう。カトウが失くした資料と関係があるのか。

「生きたい。死ねない。六本の赤い虫……。虫!虫……。リストは暴かれてはならない。組織が現れる。彼らがやってくる」

 そう残して電源コードを引き抜いたみたいに主任は目を閉じて黙った。彼方は主任の頭から手を引き抜く。指先がぬらぬらしている。イグサは再び胃液が逆流してきた。地獄だ。夢でもこんなひどい悪夢みたことない。

 そのとき、携帯電話が鳴った。シンプルなコール音が部屋に響いた。主任のズボンのポケットが振動している。

「取って」

 彼方が言った。冷たい瞳をしている。

「放っておこうよ……僕は知らないよ」

 動かなくなった主任は電話に気がつかず、目覚めない。別に、主任への着信なんて僕には関係ないだろう。イグサはコールが一秒でも早く鳴り止むのを祈った。

 しかし、携帯は止まらない。もう十五回くらいコール音を繰り返している。

「取って」

 まっすぐな切れ長の目で彼方は見つめる。イグサは身体が勝手に動き出すのを感じた。誰か、自分のものじゃない信号で筋肉に促される。不器用に関節を動かして右腕が主任の腰へ向かう。

 違う。僕の意志じゃない。僕はこんなことしたくない。粘つくような汗が身体中に纏わりつく。

 ポケットから携帯電話を引き抜いた。赤いケース、機種自体はイグサの持っているものと同じだった。だから、電話の取り方も知っている。

 携帯電話の画面には、「C」の一文字が表示されていた。応答のボタンを押して、ゆっくりぎこちなく耳元へ携帯電話を当てがった。

 スピーカーからは静かなノイズが流れていて、何も喋らない。「もしもし」もなければ、問いかける言葉も聞こえてこない。

 震えながらイグサは言った。「……もしもし」

 何も答えない。無言の向こうに漣のような音だけが聞こえる。迷惑電話?いたずらの一種なのか。

 すると突然、声がした。

「リストはどこだ」

 イグサは思わず飛び上がりそうになった。

 若い女の声だった。けれど、只者じゃない。相手を威圧させる凄みが込められていて、敵意を感じる。

「リストはどこにある」

 リストとは、主任がしきりに口走っていたもののことだろうか。イグサにはそれが何なのかわからない。

 口の中が異常に乾いて声が出ない。

「お前に訊いているんだ」女の声が鼓膜に向かって低く響く。「お前が誰だか知っているぞ」

 心臓が跳ねた。自分を知っている……?どうして……。

 見られている?

 イグサは部屋を見回した。この部屋に窓はない。カメラか?どこかに隠しカメラが仕組まれているのか。

「リストを寄越せ。殺すぞ」

 イグサはなんとか声を出した。

「僕は知らない。何も知らない……。リストなんて見たことないし、聞いたこともない。ここの店舗主任とは今日初めて会ったし、さっきまで僕は殺されかけていたんだ。わけのわからないことに巻き込まれている……。僕は本当に何も知らないし、今非常に困惑している……」

 女は遮る。「なぜ電話に出た」

「わからない……。なんとなく出たほうがいい気がしたんだ」

 電話の向こうでまた静かな漣のようなノイズが流れる。しばらくして、女が苛立ち混じりのため息をついた。

「本当にリストを知らないんだな?」

「知らない。本当に知らない」

 そうか。女は舌打ちして、続けた。

「お前が何者かはもうどうでもいい。所詮、素人の馬鹿だろうと見当が付く。いいか、気をつけろ。組織はお前が思っているよりずっと恐ろしい」

 組織が何なのかはわからないが、わかった、とだけ返事をした。

「この携帯は確実に破壊しろ。そして、すべて忘れろ」

 電話は切れた。

 一気に全身から力が抜けていく。彼方を見やると微かに笑っている。

「どうして僕がこんな目に」

 主任に殴られたいくつもの箇所が痛みだした。狂う主任、彼方の異常な行動、謎の電話。不可解なことが重なって、少しの間痛みを忘れてしまっていた。

 頭の中がじんわりと温かい。さっきまであった脳を締め付けるような感覚がもう無い。主任と揉めたときに頭を打ったから、どこかおかしくなっていたんだろう。痛みとともに急に現実感が戻ってきて、早くここから立ち去りたいと思った。

 汚れてる、と彼方は言った。イグサは自分の胸元を見る。鼻血がシャツに滲んでいた。これでは流石に目立つ。彼方がラックに畳まれていた会社指定の黒いジャンバーを掴んでイグサに渡した。シャツの上からそれを羽織る。胸に会社のブランドロゴのワッペンがついていた。頭に来て、それを引き千切る。

 主任の赤い携帯電話は電源を切っておいた。あとで川に投げ捨てよう。たぶんこれは社用携帯ではなく、主任個人のものだ。社用携帯はもっと古い機種のはず。

 ドアに手を掛けて主任を振り返った。仰向けで、動かない。

「この男は死んだのか?」イグサは彼方に訊いた。

「死んでないわ。眠っているだけ」

 それにしては静かすぎる。昏睡しているにしても生物らしさがまったく感じられない。

 でも、もうなんでもいいや。こいつのせいで痛い思いも、恐い思いもしたんだ。死んでいたところで知ったことじゃない。僕は何もしていないんだから。

 事務所を出て向かいの便所に入った。鏡を見ると自分の顔の形が変わっていて驚いた。鼻血塗れで、唇は切れて、頰には痛々しい痣。腫れて左目が半分しか開いていない。

 顔を洗って血を洗い流す。それでも、痛々しさは拭えていない。自分のものとはとても思えない顔面の中に虚ろな瞳が泥臭く濁っている。



「それで、今日は一段とひどい顔をしているな。喧嘩か?」

 リンという男はこの日もラフロイグのオンザロックを飲んでいた。華奢な細長い指で琥珀に浸かる丸い氷をくるくる回している。

「知らない上司に殺されかけたんだ」

 リンはイグサを見て、そうか。と言った。同情のかけらもない声色で、やはりイグサの面倒ごとには興味がなさそうだった。

 イグサは中央線に乗ったあと、異様な半日に疲れ果てて会社へ戻らず大森へ直帰した。汗臭い体をシャワーで流し、何も口にしないまま布団に潜り込んだが、十一時を過ぎるころ目が醒めてしまい眠れなくなった。大森駅まで出て、彼方とぶらぶら歩き、ラーメンを食って、またいつものバーに吸い込まれていった。そしたら今日もリンがいた。

 リンの指先は緑に塗られていた。昨日と同じく高級そうな紺のジャケットとグレーのスラックスを着ていて、怪しげな雰囲気を醸し出している。

 バーテンダーが無言でイグサの前にグラスを置いた。ホワイトホース十二年のロックだ。彼方はカウンターの下で丸くなって大人しくしている。そんな汚いところで寝ないでよ。

「そんなボコボコにされるなんて、君は一体何をしたんだい?」

「僕は何もしていないんだ。何故か違う部署のミスを謝りに行かされて、そこの主任に殴られたんだ」

「ふうん」

「しかも意味がわからないんだ。よくわからないことを問い質されるし、Cとかいう女から電話で脅されるし……」

 Cと聞いてリンがぴくっと反応した。

「わけわからないことに巻き込まれて散々だ……。もう会社辞めようかと思ってる」

「災難だったね」リンは同情のかけらもこもっていない声色で言った。「そのAだかBだかの女はなんて?」

「組織は恐ろしいとか、リストがなんとか……」

「組織ねえ……」

 リンは指でトントンとカウンターを叩く。虚空の一点を見つめながらイグサに訊いた。

「その人に連絡取れないかな」

 イグサは驚いた。「な、なんで?」

「なんとなく興味があってね」

「無理だよ……。僕の携帯にかかってきたわけじゃないし、番号なんて見てないし」

 Cからの電話を着信した赤い携帯をまだ持っていることは黙っておいた。誰にも知られずに捨てなくてはならない。

「残念だな」リンは悔しそうに微笑んだ。いままではイグサに無関心で、話半分でしか聞いていなかったのに。

「リンは、組織……とかを知っているのか?」

 訊くのが恐かった。彼らの仲間だったらどうしよう……。主任のように危害を加えてくるかもしてない。

 しかし、イグサの心配は杞憂だった。

「知らないよ。そんなマンガみたいなの」そう言ってリンはけらけら声をあげて笑った。

 イグサは胸を撫で下ろした。

「そうだよね……変な話だよね……。僕も信じられないんだ」

「変な話だな。とても変な話だ」ラフロイグに口をつける。

「まあ、世の中って自分が思っているような世界じゃないからね」

 リンはスーツの内ポケットから何かを取り出した。

「その変わった世界で変わったものを探すのは本当に骨が折れる」

 取り出したのは写真のようだ。でも、リンはそれを裏返しにしてカウンターに置いた。

「俺は今、人を探している。とあるクライアントに頼まれてね」

「人探し……」

 この男は探偵だったのか。身なりの怪しさといい、とてもそうは見えないのだけれど。

「役所に尋ねても見つからないような人間だ。手がかりも少ない」

「なんで役所に尋ねてもわからないんだ?戸籍とかで調べられるんじゃ……」

 リンは冷たくイグサを見つめた。

「君にそれを訊く権利はない」

 突然、突き放された。

「君はクライアントと関係がない。それに、俺ともそこまで関係がない」

「リンが急に言いだしたんじゃないか」

「仕事を第三者に漏らすわけにはいかない」

「はあ……」すでに少し漏らしているけれど。

 リンはまた内ポケットに手を入れた。

「あるいは、君が協力してくれるなら、話は別だ」

 封筒を取り出してイグサに渡した。

 厚みがある、札束だ。中身を見なくてもわかった。

「どういうこと?」

「君に仕事を依頼したい」



「ターゲットは『カタギリキリ』という女だ。所在、年齢、職業不明。さっきも言った通り、役所に尋ねても無駄だった」

 リンは青緑に透き通るラフロイグを口に含んだ。

「手がかりは今のところこの写真だけだ」カウンターに置かれた写真をひっくり返す。

 写真は交差点を建物のおよそ三階くらい上から撮ったものだった。横断歩道を渡る通行人が写っていて、そのうちの一人を写真の上から赤いマーカーで囲んであった。黒いセーラー服に黒いリュック、髪も黒くて長い。撮影地点が遠いうえにカメラの性能が悪いからか、写真からはそれぐらいしか判別のしようがない。あとは周りの通行人がみんなコートを着込んでいるから撮影されたのは冬のようだ。

「印のついている女が『カタギリキリ』だ」

 カタギリキリ……。どうもおかしく響く名前だ。なぜ、親はカタギリにキリと続けたのだろう。

「なあ」イグサは写真から顔を上げた。「僕はまだ仕事を引き受けるなんて言ってないよ」

 リンは首を振る。

「君はわかっていないな。俺は君にチャンスをあげているんだ」

「チャンス?」

「そう。君は今日職場で嫌な思いをした。もう辞めたい。そうだろう?」

「たしかにとても嫌な思いをしたし、まだ殴られた頬が痛いよ」

「うんざりしているわけだ、一般社会の労働に」

「まあ、それなりには」

「それならば辞めたらいい」

 そんな……。イグサは声を荒げた。

「簡単に言わないでくれよ……僕にだって生活はあるんだ」

「その封筒の二十万は好きに使ったらいい。それに、無事ターゲットの女を見つけ出せたら報酬で八十万あげるよ」

「はっ、八十万⁉︎」

「とてもおすすめのバイトだ」

 バイトなんてもんじゃない。怪しすぎる。思わず手に持っていた封筒を握りしめてしまった。

「無茶苦茶だ……」

「無理にやらなくてもいいが、おそらく君は彼女を探さなくてはならなくなるはずだ」

「どうして?」

「さあ」リンはしっかりと目を据える。「君の周りには面倒ごとが寄ってくるみたいだからね。理由もきっと後からついてくるさ」

 イグサはため息をついた。金の話は興味深いけど、写真だけしか手がかりのない人間を見つけるなんて容易じゃないし、何よりリンはやはり胡散臭い。

「僕には無理だよ」イグサは封筒をカウンターに置いた。「見つけられる自信がない。何故探すのかもわからないし」

 項垂れるイグサを横目に、リンはラフロイグを飲み干し、「おかわり」と若いバーテンダーにグラスを差し出した。

 バーテンダーはそれを受けとり、流しへ置くと、新しいグラスに丸い大きな氷を落として、再びラフロイグを注いだ。

「クライアントについては詳しく話せないが、これはとても重要な仕事だ」

 カウンターに置かれた新しいグラスを回して香りを愉しむ。そして、氷が解けていないストレートのうちに、熱いピートを舌へ転がす。

「人の生死が関わっている。お遊びでもないし、ビジネスでもない。ある種の善意が必要になる仕事だと俺は思っている。クライアントとターゲットの間にあるのは、金やモノでは計り知れない愛情や覚悟だ。ただ事務的に探すのでは見つからない相手、俺には荷が重すぎるし不適だと思う。だから、君に協力を仰いだんだ」リンは暖かな眼差しをイグサに向ける。

 イグサは頭を抱えたくなった。イグサにはリンの言っていることがよくわからない。人が死んでいる?何故、そんな話を自分にするのか。

 いきなりわけのわからない仕事を振ってくるし、その重要度を説かれても理解なんてできない。昨晩押し付けられたモデルガンの件も放っておかれているし……。

 それでも、この不可解な感じはよく知っている。

 カウンターの下で蹲ってイグサを見上げる彼方。彼方はこの店に入ってからずっとここにいる。

「受けなよ。あなたならできるよ」リンと同様に優しい瞳をしている。

「もう仕事を辞めろとは勧めない。けれど、少しばかり休んだほうがいい。君のためだ。リラックスがてら俺の仕事を手伝え」

 まあ、見つからなくても二十万もらえるわけだし。

「女を見つけて俺に連絡するだけでいい。それからは俺がやる。もちろん、俺も調査を引き続き行う。俺はただ、君を雇って捜索の幅と効率を上げたいだけだ。いいだろう?」

 もし、カタギリキリを探し出せたら、会社を辞めてもしばらく安定して暮らせる金が手に入る。イグサは意を決して、言った。

「いいよ」

 そう返事をしてすっかり薄くなったホワイトホースを飲んだ。スツールの脇から顔を出して微笑んでいた。


 リンは先に出て行った。昨日と同じく余分に金を置いていき、風のように去っていく。

 イグサはバーテンダーにラフロイグのロックを頼んで、もう少し居座った。

 カウンターの下から彼方がいそいそと出てきた。

「それ、あの人が飲んでたやつ」

「なんか、飲みたくなったんだよ」

 リンは旨そうに飲んでいたけれど、正直、匂いがきつい。正露丸のような匂いが鼻腔を痺れさせる。これが大人の余裕なのか。

 それほど歳が違わぬであろう青年が自分より大人に思えた。リンの飄々とした立ち振る舞いや上質なスーツ、簡単にウン十万を出せる財力。嫉妬はしないが、惨めな気持ちになる。

「気にしちゃだめ。あなただって頑張ってるじゃない」そう彼方は宥めたが、イグサは何も言わなかった。リンは住んでいる世界が違う。だから、考えるだけ無駄なんだ。

 カウンターに置いてかれた写真と金の入った封筒。これが異様なオーラを放っているように思えて手を伸ばせない。勢いでリンの仕事を了承してしまったが、本当に大丈夫だろうか。

 二十万は持って逃げるには少々心許ない大金。それをリンは見越していたのだろうか。

 写真一枚だけの女の人をどうやって探し出そう。東京の中だけでも相当数のセーラー服指定校があるはず。それに、この写真は東京で撮影されたものとは断定できない。日本のどこか、もしかしたら国外の可能性も捨てきれない。

 イグサはこめかみを押さえてため息をついた。久しぶりに煙草が吸いたくなった。



 翌朝、イグサはまず会社に有休を申し出た。部長はいきなりは困るとがなり立てたが、「西東京の件でとても疲れた。こんな無茶振りが続くなら退職も考えている」と声を震わせ、一週間ほど休ませてほしいと一方的に切り、社用携帯の電源を落とした。

 そして次に、昨晩寝る前にインターネットで調べた制服買取業者に電話をかけた。卒業後不要になった女子学生服を高値で買い取りマニアに売り捌く連中だ。写真のセーラー服について何か知っているかもしれないと思い当たった。

 要らない制服があって売りたいんだがどこに持っていけばいいと訊くと、十一時に池袋のドトールを指定された。

 髭を剃ろうと鏡を覗いたとき、自分の眼光に驚いた。ぎらぎらと光っていて自分の目ではないようだ。下の隈が余計それを強調させる。頬も心なしか痩けているように見えた。暗い痣のせいかな。これでは顔色が悪すぎて制服買取業者に怪しまれるかもしれない。

 仕事用の白いシャツにベージュのコットンのパンツを履いて、ショルダーバッグに写真と財布を入れた。少し迷ってから、そのうち捨てるために赤い主任の携帯と、モデルガンをタオルに包んで奥に入れた。

 いつどこで襲ってくるかわからない連中と関わってしまったのだ。モデルガンだけど、もし危ない状況になったとき一瞬だけでも時間を作れるかもしれない。それと、いつでも走って逃げられるように革靴ではなくニューバランスのスニーカーにした。

 家を出るといきなり太陽の光が目に刺さった。まだ九時なのに日差しがかんかん照りで眩しい。風もなく蒸し暑い。立ち止まってコットンパンツの裾を二回巻き足首を出した。

 路地では猫が三匹ひなたぼっこをしている。一匹が目を開けてこちらを見ている。いつもは昼間もぐうたらしていて疎ましい猫たちだったが、今日に限っては、空の下でのんびりできるその日常が羨ましかった。

 しばらく歩いてアトレ近くのドラックストアで男性用コンシーラーとラッキーストライクを買った。駅構内のトイレで目の下と頬に薄くコンシーラーを塗った。トイレの蛍光灯のせいか顔色は良く見えないがたぶんさっきよりはマシだろう。

 キオスクでたまごを挟んだコッペパンと冷たい缶コーヒーを買ってすぐ食べた。腹は減っていないし食欲もない。無理矢理口に押し込んで食べたけれど、胃袋に入る感覚がしなかった。


 業者の男はすぐにわかった。ブルーのポロシャツが太った腹の形に伸びている男だ。四十代くらいだろうか。奥の喫煙スペースで落ち着き無くきょろきょろしながら、ひっきりなしにフィルターを齧っていた。イグサは男の傍まで近づいて、「制服買取の『セーラーせいちゃん』の方で合ってますか?」と声を掛けると、男は飛び上がって振り向いた。男は、頭髪は禿げかけているのにフケの量が尋常じゃなく、頭皮の細胞が毛髪に関係なく分裂だけを繰り返しているようだった。

「し!」

 男は煙草を持っていない左手の人差し指を口の前に立てた。

「あんまり大きい声で言わないで!世間に知られると困るんだから」

 はあ、とイグサは拍子抜けしてテーブルを挟んだ向かいの椅子に座った。

 『セーラーせいちゃん』の男の声は甲高く、小声でもよく通る。「おたくがイグサさん?」

「そうです」

 変わった名前だね、と男はそう言ってイグサを舐めるように見た。

「おたく、うちが制服買い取るのってなんでかわかる?」

「なんでか?」

「そう。どうしてあんなに金出してお古の制服なんて買い取ってるかって話」

 さあ。イグサはポケットからラッキーストライクを出して、テーブルに置いている男の百円ライターを勝手に拝借した。火をつけ、煙を深く吸い込み、大きく吐き出した。半年ぶりに吸った煙草だったが、あまり旨いと思わなかった。

 おそらく男は目の前の客が業界の実情を知らんとみて警告をしたいらしい。イグサはテーブルに肘をつき、ラッキーストライクを挟んだ右手を顔の前に出して気取り、言った。「需要があるんでしょうよ」

「わかってます?おたく、兄妹とか彼女さんの要らないの高く売れるって聞いたから売りにきたってクチならやめておきなよ?あとで泣かれるよ」

「親切なんですね、とても」

 イグサはショルダーバッグからファイルを取り出し、中に挟んである写真が男に見えるようにテーブルに投げた。

「これは?」

「この制服がどこのものかを知りたいんです」あらかじめカタギリキリの顔の部分には黄色いビニールテープを貼っておいた。「制服に詳しいあなたならわかるかなと」

 男は最初は写真に見入ったが、事情を察したのか写真を差し戻した。

「人探しなら警察にでも行ってよ」

「そうしたいのは山々なんだけど、非常に個人的な事情でね」

 イグサは財布から一万円札を抜いて、写真のファイルに乗せ、男に差し返す。これはもちろん、リンからもらった金である。

「困っているのはお互い様だ。頼むよ」

 男は眉間にしわを寄せて口を曲げていたが、やがて札をポケットにしまうと写真に視線を移した。


 二十分ほど男は唸っていた。紺より黒だなあ。スカーフは白か。この襟は……。ぶつぶつ呟く男をイグサは煙草を吸いながら待っていた。

 男は写真を置いて両目を押さえた。「断定はできないが、特徴が似ているデザインの学校は東京都周辺にいくつかあるよ」

 イグサは煙草を灰皿に押し付けて消した。

「どこ」

「三つの学校の冬服が写真のものと似ている」

 男は汚い手帳を取り出し、端のメモに八幡第一、南東京、西三桜と書き出した。

「写真が小さくて、正直わからない。今まで買い取ったもので印象が似てたデザインを挙げただけ。確実に特定したいなら全国のメーカーや問屋、服飾工場を順繰りに問い合わせないと無理だなあ。納得できないなら金は返すよ」

 イグサはメモを写真と一緒にファイルにしまい、「ありがとう」と言ってショルダーバッグを肩にかけ立ち上がった。

「とりあえずこの三つを調べてみる」

 男は何か言いたげに口をもぞもぞと動かしていたが、やがて煙草を咥えて上目でイグサを見やった。



 駅前のミスタードーナツのカウンターに座って五時間が経過していた。文庫本を開いて時々視線を外の交差点に向ける。イグサはただ駅前の群衆を見張る作業を何時間も続けていた。

 八幡第一高校の最寄り駅前の交差点には、ミスタードーナツとドトールがあって張り込むのにちょうどよかった。夕方頃になると駅前にセーラー服の女子高生が増え、店の中から、顔の造形や髪の長さ、色、質感。スカートの丈(写真は冬服だが夏の時分でも丈の長さは変わらないかもしれない)、リュックなど様々な点に注力して見ていたが、カタギリキリらしき人物は見つからない。何時間も張り込みながら、だんだん気持ちが沈んできた。

 写真が撮られたのは冬。いつの冬かも知らない。昨冬かもしれないし、何年も前の冬かもしれない。写真のカタギリキリはすでに高校を卒業していて、この街にいない可能性もある。それに髪型が写真当時のままとは限らない。写真の中の手がかりが手がかりでなくなっていく気がしてきた。

 リンに連絡をしようか……。写真だけなんて無理だ。僕にはできない。

 イグサは五個目のオールド・ファッションを齧ってコーヒーを啜った。腕時計を見ると時刻は午後九時を過ぎようとしていた。もう遅いし帰ろうかな。文庫本を閉じてバッグにしまった。

 一日中座って、ただ外を見ていただけなのに疲れた。尻も痛い。眼も多少しょぼついている。けれど、まだ余力はある。何年も朝から終電まで働き続けていたからだろうか。フィジカルは衰えているが、忍耐力はここ数年で鍛えられたのかもしれない。

 店を出て交差点を渡っているとき、八幡第一の女子高生のグループに目がついた。こんな時間まで制服で遊んでいるのか。不良かと思いながら見ていると、その一人の髪の長さが写真のカタギリキリと重なった。イグサは慌てて女子高生グループに駆け寄って「カタギリキリを知っているか?」と声をかけた。娘たちは一斉に振り向いていきなりやってきた男を、だれ?と訝しんだ。よく見ると写真の少女と目の前の女子高生は全然違っていて、イグサは肩を落とした。夜目でわからなかったが茶髪だし、太っていて顔の形も違う。それにスカートの丈は極端に短かった。写真のカタギリキリはおそらくこんなにスカートを短くしたりなんてしない。イグサは恥ずかしくなって早く去りたかった。そんな簡単に見つかるわけないよな。

「なに?学校のコ?」一人が食いついた。

 背に腹は変えられん。イグサは首を振る。「カタギリキリって子探しているんだけど、知らない?」

 娘たちはそれぞれ顔を見やっていたが誰もカタギリキリという名に覚えが無いらしく、へらへらと「なにそんな変な名前。リフレの子とかじゃないの?」と手を叩きながら笑っていた。

 信号が点滅し始めたのでイグサはそそくさと引き上げた。女子高生らに幾らか金を渡して口止めしようと思ったが、ますます怪しい男になりそうなのでやめた。しばらくこの辺りには近づかなければ大丈夫だろう。

 この街にはカタギリキリはいない。たった一日の張り込みで断定するのは野暮かもしれないが、明日は他を当たろう。

 結局、会社帰りと同じ時刻に大森駅に帰ってきた。深夜になっても外は蒸し暑く、一日の大半をクーラーの効いた喫茶店で過ごしたせいで、室内と屋外の寒暖差に身体が弱っていた。バーには寄らずコンビニで弁当を買って、家へ帰る。クローゼットからアノラックを引っ張り出して、明日忘れないように、もうショルダーバッグに詰めてしまった。


 翌日も一日、南東京高校の最寄りの駅周辺で粘ったが、収穫はなかった。街を行き交うセーラー服の少女たちを見、写真を確認するたび、カタギリキリではなく、イグサは憂慮していた。

 もともと無謀な策だったが、カタギリキリがひょっこり現れるんじゃないかとどこかで期待をしていたのだ。脳内で黒いセーラー服のカタギリキリと成金趣味なスーツのリンが交互に過ぎり、次第にイグサは焦燥していった。

 三日目は雨が降っていた。黒いアノラックを羽織って街を歩きながら、今日も見つからないと、はなから諦めていた。西三桜高校から近いドトール、スターバックスでコーヒーを啜りながら見張り、吉野家で外を見ながら牛丼を掻き込んだ。

 三日も同じことを続けていて、だんだんしんどくなってきた。腰は痛いしコーヒーの飲み過ぎで胃は荒れていた。何よりも退屈だった。昨日も一昨日も、彼方はときより話しかけてきたが、あまりやりとりをしてしまうと店員や周りの客に怪しまれるため、なるべく会話をしなかった。そのうち彼方も退屈になって、隣で眠ることが多くなった。

 とりあえずこの三日間やってみてダメならリンに泣きつこう。初日からそう決めていた。リンになんと謝ろうか……。貰った金に手をつけておきながら、やっぱりできません、では許されないかな。いやでも十分働いたはずだ。何もしていないわけじゃない。ちゃんとやる気もあったし、昨日は帰宅してすぐ布団に倒れてしまうほど疲れているし、とても頑張ったんだ。

 ため息を吐きながらショルダーバッグに手を入れて携帯電話を掴み、そのまま電源を入れた。取り出した携帯電話を見てハッとした。赤かった。手探りで闇雲にカバンの中の手についた、西東京の店舗主任が持っていた携帯電話の電源を入れてしまった。自分のと同じ機種だから気がつかなかったのだ。

 イグサは、休日には携帯電話の電源を切っている。職場からの連絡を無視するためだ。社用携帯をオフにしていても上司から出勤要請が来ることが稀にあって、それを防ぐためだった。

 さっさとこの携帯は捨てるべきだった。すっかり忘れていた。

 点灯するディスプレイを見て、嫌な予感が走る。冷や汗がじんわり脇の下に滲む。ソフトウェアが立ち上がったのを確認して、電源を再度オフにしようとしたそのとき、携帯が震えた。

 画面に大きく「C」の文字が表示された。



「お前……なぜ携帯を処分していない」

 電話に出ようか迷った挙句、イグサはドトールを出て応答した。

 西東京で聞いたCの低く若い声。だが前よりドスが利いているような気がする。

「破壊しろと言ったはずだ」

「い、忙しかったんだ」

 イグサは額に浮かぶ脂汗を拭う。

「お前、何を考えている」

「何も考えてなんていない……本当だ!」

 慌てふためきながらイグサは答えた。電話の向こうでCが大きく息を吐いた。

「まあいい。お前に訊きたいことがある。これから十五時五十七分東京発のやまびこに乗れ。自由席で構わない」

 突然矢継ぎ早に告げられた内容すべてに、イグサはピンと来なかった。

「僕に訊きたいこと?」

「ああ。いいから私の言うことを聞け」

 Cはもう一度新幹線の時刻を繰り返した。

「ちゃんとメモしたか?絶対にこの列車に乗り込め。それからの指示はその番号に掛けるから、もう電源は落とすな」

 イグサは新幹線の時刻を適当な紙に書き込みながらCの趣旨を掴めずにいた。何から尋ねるべきか逡巡していると電話は切れた。

「どういうことだ……」

 突如掛かってきたCからの電話といきなりの内容に戸惑って軽いパニックに陥っていたが、腕時計の針が十四時半を指しているのを見るや否や、急いでコーヒーショップを飛び出し、東京駅へ向かった。


 仙台行きやまびこは空いていた。指定席でも空席が目立っていたくらいだが、Cは自由席と言っていたため、イグサは自由席を購入した。

 彼方が後ろについてきていたが、切符は一枚しか買わなかった。新幹線は高いし、リンから貰った金をこれ以上使いたくなかった。

 出発まで時間がある。キオスクで緑茶と二個入りの茹で卵を買い、待合室で卵を剥いた。彼方がもう一つの卵の殻を剥いている。

 幼い頃から新幹線に乗るときには必ずキオスクの茹で卵を食べる。時速二七〇キロで移動していく慣性の中、卵の殻を剥き続けるのが面白かった。今はそんなことはどうでもよく、これから東京を離れてどうなってしまうんだろうと憂えていた。現金はまだ十八万近くあるから宿はどうにかなる。Cは一体何を考えているのかがわからず、先行き不透明の不安でいっぱいだった。

 ゆで卵を頬張りながらイグサはダイヤの液晶スクリーンを見つめる。十五時五十七分やまびこ仙台行きはあと七分でやってくる。

 どうして赤い携帯電話の電源を入れてすぐ電話がかかってきたのだろう。タイミングがぴったりで偶然とは思えず、故意ではないかとイグサは懐疑の念に駆られた。

 もしかして見張られていた?

 カタギリキリを探している間、その姿をCはずっと見ていたのか?あの事務所で電話を寄越したときのように。

 東京を離れて仙台へ向かうのは人知れずイグサを始末するためではないだろうか。

 考えれば考えるほど胃が収縮し痛んだ。やってきたやまびこに乗り込み、緑茶を口に含むと少し落ち着いた。

 それからしばらく、Cからの連絡をデッキ通路で待っていた。

 そういえば新幹線に乗るのは大学生の頃以来だ。友人と大阪へ遊びに行ったんだ。大して好きでもない友人たちだった。卒業前に遊びに行こうというのでなんとなくいつも集まっていたゼミのグループで出掛けたが、旅の中身はあまり記憶に残っていない。面白くなかったのだろう。今では、好きでもない友人すらいないのだから、あの頃は幾分か贅沢だったのかもしれない。

 新幹線が上野を通過して少しするとポケットの中の携帯電話が震えた。

「四号車へ来い。電話は切らずに耳に当てたまま歩け」とCの声がした。

 イグサは一号車と二号車の間のデッキから四号車の方面へ歩いた。張り詰める緊張感と強い警戒心で頭の中がひんやりとしてきた。ショルダーバッグの底に眠るベレッタの存在を意識しながら座席の間を進み続けた。さすがに列車の中だから襲って来ないと思うが、見せかけの武器を持っているだけでも心強い。

 四号車の扉の前で、大きく長く音を立てずに息を吸って吐いた。これ以上迷っていると、恐怖が背筋からせり上がってくるような気がして、躊躇せずに勢いよく扉を開けた。

 四号車にはほとんど乗客がいなかった。奥に2列シートを半回転させている座席があった。ゆっくりと車内を進み、その座席の手前までくると、列車の進行方向と反対向きの座席に女が携帯電話を耳に当てたまま座っていた。女はイグサを睨め回した。

「お前か」

 目の前の女の声が遅れて携帯電話から聞こえてきた。


 座れ、とCは顎で指した。イグサはCの向かいに腰掛ける。

 Cはグレーのパーカーに黒いパンツという格好だった。隣の座席に大きな黒いリュックが置かれている。「携帯を渡せ」と言ってイグサが握っていた赤い携帯電話を奪い取ると電源を切ってリュックに入れ、そのまま両手をパーカーのフロントポケットに突っ込んで舌打ちをした。

「軟弱そうなやつだな」

 電話で聞くよりCの声は刺々しく威圧感があった。イグサは何も言えず、目の前のCの格好やリュックにうろうろと視線をやりながらたまに顔を見た。

 「C」は顔立ちは端正に整っていて綺麗だった。髪はショートで黒い。まだ十代だろうか。大人へと染まりきっていない乱暴な若さがところどころに感じられる。化粧っ気がないからか、顔だけでは反社会的な印象は抱けないが、パーカーのポケットからいつナイフが出てくるのか、イグサはびくついていた。

「なぜ携帯を処分しなかった」

 どう生きたらこの見た目からこの凄みのある声が出るのか。

「本当に忙しかったんだ」

「じゃあ、なぜ今お前はここにいる」

 イグサはなんて返したらいいかわからなかった。リンやカタギリキリの件は言い出せない。一般人ならまだしも、Cのような粗暴な発言をする怪しい人間に漏らすのはかなりまずい。

 まあいい、とCは気だるげに脚を組んだ。

「もし携帯を捨てていたとしても、おそらく私からお前に接触しただろう」

 イグサは慌てて首を振った。

「僕は何もしていない。携帯だって処分するのを忘れていただけだ。君がすべて忘れろと言ったから僕は携帯のことまで忘れてしまったんだ」焦って適当なことを口走ってしまう。

「本当に何もしてないし、これからも何もしない」やはり事務所で電話に出たり、こうしてのこのこと新幹線に乗ったりするんじゃなかったとイグサは後悔した。

「それはもういい。お前が組織に自ら近づくような男だとは思っていない。」

 それより。Cは噛みつきそうな目でイグサを睨みつける。

「あのオヤジにお前何をした」

 イグサは刃物のような視線にたじろいだ。

「だから、何もしてないって」

 Cは視線をイグサに向けたまま、西東京へ男に会ってきた、と続けた。

「お前が絡んでイレギュラーな案件になった。あのあと男の職場に潜入したが、男はいなかった。警備員に店員を装って訊くと、事務所で転んで入院していると言うんだ。そんな間抜けなと思って調べてみると、西東京中央総合病院に本当に入院していた。担当医師の話では、転倒時にぶつけた頭部の外傷は軽度で脳へのダメージは見受けられないらしい。しかし、男にはPTSDに似た心的ストレス障害が発生している。まるで悪夢を見ているようなストレスの重圧に精神が崩壊しかけているらしい。意思の疎通は困難で、私が話しかけたとき、男は泣き叫びながら緑色の吐瀉物を飛ばしてきた。あれは異常だ。私が見てきた世界では、人間があそこまで壊れる際には余程の原因がそこにある。お前、一体あいつに何をしたんだ?」

 Cの瞳の冷たい凍るような瞳には怒りより、異形に対する得体の知れない恐怖が優っていた。

 イグサは、彼方が男に何をしたのかよくわからない。事務所での男の狂い様を思い出し、想像しようとしてみた。脳幹が破壊されてしまう男の夢が頭の中で浮び、脳が締め付けられて小さくなっていく感覚がした。

「僕にはわからないんだ。あの男に何が起きたのか」

 Cはぐっと顔を顰めていた。「わからない……?お前じゃないのか?最後に奴に接触したのは」

「たぶん僕が最後だろう。でも、僕は何もしていないんだ。一方的に殴られるばかりで、抵抗すらできなかった」

「じゃあ、お前の他に誰かいたのか?」

 イグサは俯いて、言った。「人は僕しかいなかった」

「人は?」

「そう」

 Cは左手で目を押さえ俯いた。「どういうことだ」

 僕じゃないんだ。イグサは隣の窓側の座席に座る彼方に触れた。まるで自分の体温を感じるような気味の悪さがある。

 Cは強くまぶたを揉み、歯噛みしていた。「なんなんだ……急にとても眠い……」

 眠い?急にどうしたんだ。さっきまで刺すような強い視線を向けていたのに。

 ふと、イグサは彼方を見やる。彼方は嬉しそうに笑っていた。

「彼女の中を覗きましょう」

 覗くだって?イグサは訊いた。彼方の存在に気づかないCは、何を、と縺れた声を出す。もう目を開けているのがやっとで、頭は半分も機能していないだろう。そして、睡眠薬が完全に血中に溶け出したみたいに、Cはスムースに寝息を立てて眠ってしまった。

「何をしたんだ?」

「数えなくちゃいけないくらいたくさんの羊を脳に刷り込んだのよ」

 なんだそれは。イグサも視界がぐらつき、頭の芯がぼうっと熱くなるのを感じる。

「羊を数えて眠くなるのは子供ぐらいだろう」

「彼女はまだまだ子供さ」

 昏迷するイグサを彼方は咄嗟に抱きしめた。イグサは消え入りそうな意識で多少驚いたが、すぐに羊の群れが思考の中で浮かび始めた。

 遠い国の丸い牧草地の中に点々と羊がいて、思わず数えてしまうくらいの絶妙な羊群だった。イメージに気を取られているとどんどん眠くなってくる。もうおやすみ、と彼方が耳元で囁く。思考の中の牧草地の羊たちを眺めながら、ふと、ここしばらく深く眠れていないなと思った。意識が微睡みに沈んでいくのをじっくりと感じていた。


10


 深く眠りに落ちたと思った、次の瞬間、イグサは知らない居間に立っていた。じんわりと頭がぼやけていたが、冬の朝を思わせる寒さに全身が冷やされて次第に脳が覚醒した。

 これは夢か。彼方が、Cを覗くと言っていたのを思い出した。

 仄暗い家だ。カーテンが開いているにもかかわらず暗い。夜の暗さではなく、部屋に陽が当たっていない。陽を遮るビルでも隣に建っているのだろうか。電気も点いていないし、今この家には誰もいないのか。

 だんだん目が慣れてきて居間を見渡せるようになってきた。広さは八畳くらい。部屋の中央にダイニングテーブルと、椅子が二つ。テレビもソファもない。壁には暗い灰色を隔てた窓と淡い青のカーテン。本棚はあるが、文庫本が数冊並んでいるだけで、漫画や雑誌は見当たらない。磨りガラスがはめられたリビングドアが開いている。イグサが立っているちょうど後ろには襖があって、そちらは閉じられている。

 生活感のない居間だった。これがあの乱暴な物言いのCの内部……。整っていて簡素な部屋がどうしてか歪んで見える。イグサは戸惑った。

 フローリングを踏み込むと軋む音がした。開いたリビングドアの向こうを覗く。ドアの先はキッチンスペースだった。シンクは空。冷蔵庫のファンが鳴っている。奥の玄関を見ると、床に黒い影が蹲っていた。

 誰か靴を履いているのか?しかし、影は動かない。人なのか?呼吸の息遣いひとつ感じられない。ただ人が座り込んだ形をしている影に見える。

 突然、後方で物音がした。イグサは襖を振り向く。奥に誰かいる。「イチ!」と声がした。Cの声だ。勢いよく襖が開いて、少女が飛び出してきた。

「待って!」

 黒いセーラー服に黒く長い髪。少女の姿は写真のカタギリキリと一寸違わず重なった。リビングドアへ向かってくるCをイグサは慌てて避けた。Cは玄関先の黒影を見とめると叫んだ。

「どこへ行くのですかイチ!」

 影はゆっくりと立ち上がった。真っ黒なチェスターコートが揺れる。背丈は一八〇センチほどあるだろうか。背中が大きく、鍛えられた身体をしている。

 男は振り向かなかった。代わりに、とても嗄れた声で言った。

「すまないキリ。許してくれ」

 強く、芯の通っていて、孤独を帯びた声だった。男はドアに手をかける。Cが震える。瞳が熱く揺れている。

「行かないでください」

 男はそのまましばらく動かなかった。でも、ドアノブを回して扉を開いた。部屋に冷気が入り込んできて、イグサの頬を突き刺す。Cは崩れるようにへたり込んでしまった。

「どうして何も言わないの……。どうして行かなくてはいけないの……」

 電話や新幹線で聞いたような凄みのある声ではなく、一人の少女の悲痛な嘆きに聞こえた。

 男は僅かな躊躇いをみせた。ドアを半開きにしたまま何かを言いたそうにしていた。外気はどんどん部屋に入り込み、寒い。Cは肩を震わせて泣いている。

「すべて間違っていた。俺のせいだ」

 最後まで言い切る前に男は出て行った。扉が閉まって冷たい外気が遮断される。暗い廊下に冷蔵庫のノイズとCのすすり泣く声だけが残された。

 イグサは息を呑んで一部始終を眺めていた。現実ではないはずなのに、脇の下を流れる汗の感覚がいやにリアルだった。

 Cはカタギリキリだった。黒いセーラー服は、この三日の間イグサが脳裏に焼き付けていたものだった。新幹線でCを初めて見たとき、綺麗に整った容姿が妙に引っかかったが、それが穴があくほど眺めた写真に存在していた顔と合致して、納得した。

 地味な捜索から一転、思わぬ形で目標に到達したことになる。あまりに展開が急すぎて、イグサは何も感じなかった。あとは目が覚めてからCに確認しよう。あなたは『カタギリキリ』さんですか、と。

 しかし、この夢はなんだろうか。Cの記憶だろうか。あの大きな男は誰なのだろう。父親?そのようには見えなかった。複雑な家庭環境ならわからないが。

 不意にCが泣くのをやめた。

「お前、私を盗み見たな」

 床に座った姿勢のまま、聞き慣れた粗暴な声色でCは言った。でも、少し鼻声だった。

「悪気があったわけじゃない。気がついたらここにいたんだ」

「どいつもこいつも勝手だな」

 Cはため息をついて、顔を上げず、長い髪をかき上げた。


「こんなものしかなくて悪いな」

 インスタントコーヒーを注いだマグを両手に持ってCは言った。

 暖房がなく寒かったのでとても助かる。イグサは両手でマグを受け取り、包み込む。Cは向かいに座った。眠っているであろう新幹線の車内と同じだった。

 イグサはコーヒーを啜って、切り出した。

「さっきのはお父さん?」

「父か……。まあ、そうだな。私にとっては親のような人だ」Cはマグの中に視線を落としていた。

 やはり肉親じゃなかった。

「複雑なのか?」

「まあな」

 それより、とCは顔を上げる。

「どうしてお前が私の記憶の中にいるんだ」

「それが、僕にはわからないんだ。おそらく彼方の仕業だと思う」

「彼方?」

「うん。僕といつも一緒にいるんだ。彼方は不思議な存在で、どういう原理か知らないけれど、こういう理解のできないことをたびたび起こしてしまうんだ」

「西東京の密売人もそいつがやったってわけか」

「まあ、そうなる」

 眉唾ものだな。Cは新幹線のときと違って穏やかな瞳をしていた。けれど、虚空を見つめるような無気力感が幾分か含まれている。

「お前の周りでわけのわからないことばかりが起きている。でも、ただ疑っていても仕方ない。とりあえず、何も考えずに受け入れることにする」

 意外だった。なんとなくCはリアリストでこういったことは信じず、拒絶すると思っていた。

「いいのか?僕は勝手に君の記憶の中にお邪魔して」言ってから、些か無神経だったかと後悔したが、Cはきっぱり、

「別にいい。誰かに見られるなんて想像もしたことないけれど、現にお前はここにいるしな。それに、私独りで抱えているのはもう限界なんだ」と言い切った。

 こいつはこんなに素直だったのか。電話や新幹線での印象とはかけ離れている。

「なんだか君は、僕が知っている君ではない気がする」

「お前が私の何を知っている」

「もっと非情で、ある種のプロなんだと思ってた」

 それを聞いてCは少し笑った。

「そういう風に飾っているだけだ。じゃないとこの世界ではすぐに切り捨てられる」

 そして、コーヒーの深淵に目を落として、続ける。

「虚勢を張るのは疲れる。わたしだってどうして生きているのかわからないし、どうやって生きていいのかわからない。はじめから私は存在していない。死にゆく身だったのに、イチが生かしてしまったんだ」

 それにしても甘い匂いがする、とCは部屋を見回した。

「おそらく彼方だろう。リラックスさせようとしているのかもしれない」

「そうか。いわれてみれば大麻の匂いに似ているな」

「大麻?」

 少し大人しくなってセーラー服姿が目に馴染んできたけれど、この女は裏の人間なのだ。イグサは苦笑した。

 再びCは視線を下ろして、「彼方とは……何者なんだ」と、マグを揺らす。

 イグサは少し迷ってから、言った。

「気づいたら側にいる、僕の友人だ」

 薄いコーヒーは緩やかに渦を巻き、Cは小さく息を吐いた。

「私にもそんな友人が欲しかった」


11


「イチは麻取、麻薬捜査官で、薬物を斡旋する卸売り組織を取り締まるため、街の裏で密売者を探している。危ない世界へ飛び込む人間だからか、なかなか異常な人だ。この部屋を見てわかるだろう。何も無いんだ」

 Cはテーブルに乗せた手を開いたり閉じたりしながら喋る。イグサのコーヒーはすっかり冷めてしまった。大麻のものらしい甘ったるい香りが鼻につく。

「組織は決して簡単ではない。薬物を発見し、中毒者を逮捕していくだけでは元売りには辿り着けない。薬物の解明、人の流れ、金の動き、犯罪、すべてを照らし合わせて僅かな綻びを突く。それまで薬物で苦しむ中毒者を見つめ続けなければならない。イチはそれを世のため人のためと思っていたんだろう」

 イグサは黙って話を聞いていた。威圧的だったCは喋るのが嫌いでなく、寧ろ今みたいに誰かに自分の話をしたかったのではないかとイグサは思った。孤独に生きる人間がみんな孤独を好いているわけじゃない。Cも一人の女の子なんだろう。

「昔は仕事に熱心な男だったと思う。イチは単独で張り込み、密売人の自宅に一人で乗り込んだことがあった。暴力団組織が絡んでいる覚せい剤のルートの一つだった。その家には男と女が住んでおり、二人とも密売を行い、かつ中毒者だ。あるときから二人は覚せい剤を十分に捌けなくなっており、仕入れたクスリの大半を自分たちで使ってしまった。とどのつまり破綻していたのだ。逃げ道のない恐怖の中、手を差し伸べてやることでイチは二人を最悪から救ってやり、組織の情報を吐かせようとした。だが、イチが乗り込んだときにはもう遅かった。男は自死、女は茫然自失で多量のシャブを打ち込み、気息奄々な状態でイチに告げた。『わたしたちは全てを間違ってしまったけれど、この子だけは助けてほしい』女の胸には赤子が眠っていた」

 Cは一度口を閉ざし、コーヒーを啜った。そして、また話し始める。

「当時、児相はパンクしていた。不況による家庭崩壊、DV、虐待の問題が絶えず、そもそも人手、資金不足で悩まされていた児相は役割を果たしていなかった。養護施設も同様に行くすえ怪しくザルで、例年、施設に増加していく薬物問題孤児はやがて薬物問題の渦中に巻き込まれることになる。蛙の子は蛙、組織は薬を長期的なビジネスとして考えており、密売人の血を追い続け、養護施設を出た少年少女たちは瞬く間に組織の手によって犯罪に染められた。イチは施設の孤児の保護に懐疑的だった。生きる使命として麻薬取締官を選んだイチは、問題がそこにある限り自分の役目を全うしようとしたんだ。イチが私を抱きかかえると女はまもなく死んだ。ルート解明は断絶、成果は無し。それでもイチは私を邪悪から守ると決めた。現場のアパートを出ると外は深い霧に包まれていて、今みたいに寒かったらしい。密売人の二人の姓は片桐といった。イチは霧中で小さな私を抱え、私の名を片桐霧とした。イチは女から赤子の名前すら聞いていなかったんだ」

 Cの声以外何も音がない部屋。イグサは喉が乾いて声が出ず、マグのコーヒーを口に含んだ。薄くて冷めたインスタントコーヒーは苦い麦茶みたいで不味かった。

「イチははじめ親戚を頼っていたが誰も相手にしなかった。彼らはイチの特殊な生活循環を理解できず、子を引き取るならば仕事をやめろと迫った。無理もない。麻取を理解できる人間なんてほとんどいないし、たいていは理解しようともしないだろう。イチは私と二人で孤独になった」

「どうして」乾いて粘ついていた喉がやっと開いた。

「どうしてもこうしてもない。すべてはイチの自己責任だ。イチは志高く聡明だが、人望のある男ではない。彼をわからず去っていく人は多い。イチは一種の正義に取り憑かれていたんだろう。大学で薬学に進んだらしいが、製薬では彼を満足させなかった。もっと直に人と薬に向き合いたかった。生々しく汚れた世界で足掻くのが彼にはあっていた。でもそれを誰も理解なんてしない。結局、他人の私のためにイチはたくさん摩耗したんだ」

 Cはテーブルに肘をついて顔を乗せ、遠くを見つめている。

「私は自我をもったときから死にたかった。イチの青白い顔、赤い目を見るたび、疲れた声を聞くたび、私はこの人を喰って生きているんだと感じた」

「子どもにはどうしようもないだろう」

「それでもだ。それでも感じてしまうんだ。何もできない自分が嫌いだった」

 Cの声に寂しさが帯びる。イグサは椅子の背にもたれかかり、Cと少し距離をとった。なんとなくCの気持ちに寄り添ってはいけない気がしたからだ。Cがそれを望んでいないことも。

「私の生みの親の話を何度もイチは私に聞かせた。自分の背負った業を私に押し付けたかったわけじゃなく、イチにとってそれが最後の誇りだったんだろう。この世が決して優しいものではないと教えたかったんだ」

 Cは唇を赤い舌で舐めて、続けた。

「私には戸籍がない。出生届が提出されていなかった。それでも、イチは私に戸籍を与えようとしなかった。私をしかるべき機関に引き渡すことになるからだ。健康保険などは薬学をパスしたイチにとって無問題だ。簡単な病気なら知識とツテでどうにかできる。もっとも家から出られない私が病気をすることなどほとんど無かったがな」

「学校は?」

「行ったことがない。私を極力外の目に触れさせないためには仕方なかったんだ。イチがいろいろなことを教えてくれた。字の書き方、計算。この社会の面倒臭いルール。必要最低限のことはだいたい。あとは本で学んだ。イチはたくさん本を買ってくれた。深夜まで開いている本屋に私を連れて行って、私が気になった表紙や言葉が書かれている本をいっぱい買ってくれた」

 Cの頬が少し緩んだ。

「じゃあ、その着ている制服はなんなんだ?」

「これはカムフラージュだ」

 制服の襟を自分でつまむ。

「外を動くのに制服だと都合が良い。実際、私は十七だし、制服を着ていてもまったくおかしくない」

 危なかった。写真の制服はダミーだったのか。全国の問屋を探さなくてよかった。

 イグサは安堵のため息をついた。それを見てCが眉を顰める。

「私は十七に見えないか?」

「いや、年相応だと思う」

「そうか?」

「女子高生といってもいろんな人間がいる。綺麗な子もいれば、そうではない子もいる。幼い童顔な子もいるし不相応に老けている子もいる」

「まあ、そうだな」

 Cが笑った。けれど、上がった口角はまたすぐに元の位置に戻った。

「イチは部署内では昇進こそしていないが、彼にも少しずつ人望が築かれた。麻取は警察に比べてとても小さい。だから内部の信頼関係が捜査のカギを握る。古株となったイチには信頼できる部下が増えていった。イチは話さなかったが、おそらく昔のように危ない現場へ踏み込まなくてはならなくなったんだと思う。暴力団組織に国が圧力をかけ始めて捜査に追い風が吹いたんだ」

「イチの仲間は君のことを知っているのか?」

「知らない。イチはいくら信頼した仲間といえど私のことは話さないだろう」

 イグサは玄関に座り込んでいた黒い影を思った。とても生きている人間には見えない。薄い靄のようなオーラだった。

「帰ってくるイチから甘いガンジャの匂いがした。ちょうどこの部屋の空気みたいな匂いだ。変な匂いがすると言うとイチは何も言わなかった。あとからマリファナコミュに首を突っ込んで知ったが、あれは大麻の匂いだった」

「マリファナコミュ?」

「隠れて大麻を集団摂取するサークルだ。下は中学生からチンピラ、管理職の会社員までもが参加する。一度そこに大麻を運んだことがあった。私は吸っていない」

「吸っていなくても運んだんだろう?犯罪じゃないか」

「話を最後まで聞け。私のしていることは犯罪だし、イチが取り締まる悪そのものだ。それでも私は逃げられない。私はイチを探さなくてはならないんだ」

 Cは大きく息を吸った。

「イチはこの朝から帰って来ていない。何日待っても何週間経っても、イチは帰って来なかった。私は辛抱強く待った。毎日イチの分も飯を作って待っていた。イチが消えて三ヶ月ほどしてから、深夜の人目が少ない時間帯に買い物へ出かけたとき、知らない男が私の買い物カゴにチラシを投げ込んだ。チラシには小さく『斎藤一紀はここにいる』と。ある住所が記されていた。斎藤一紀はイチの名だ。それを投げ込んだ男の姿を探したが、もう消えていた。ずっと孤独でイチを待ち続けていた私は、翌日チラシに書かれた住所へ向かっていた。一人で新宿なんて行くのは初めてだった。私みたいな人間は外で浮くと思ったから近所の高校の制服を買った。不安だったが、イチがそこにいるならば、イチが助けてくれると信じていた。東新宿の雑多ビルの一角に住所はあった。黴臭くて暗い階段を三階へ上る。住所の部屋のノブを回すと扉は開いた。中は電気が点いていた。廊下をゆっくり進んで角を曲がると、そこは広く細長い部屋で、中央にダンポールが置いてあった。誰も部屋にはいない。人が生活していた痕跡もまったくない。私はダンボールの中を覗いた。中には白い粉が入ったポリ袋が十袋ほど入っていて、底に写真があった。写真にはイチが写っていた。張り込み中を盗撮したものだ。カメラに気づいておらず、少し腑抜けた表情をしていた。写真の裏にはこのビルとは違う別の住所があり、『斎藤一紀は生きている』とも書かれていた」

「どういうことだ?」

「私とイチは嵌められたんだ。おそらく組織ははじめから私の存在を認知していて、私たちを泳がせていたんだ。今回の捜査でイチが踏み込んだのがこの組織だったんだろう。私とイチの関係性を盾に組織はイチの捜査を妨害したんだ。私が警察に駆け込めばその関係性も暴かれる。今思えば、イチは私を救って育ててくれ善を尽くしたんだ。私の存在が知られたところで何も恥ずべきことはない。あのとき警察でもなんでも行けばよかった。けれど、私は写真の裏の住所へ白い粉を持っていった。イチが十何年も守り続けた秘密を暴かれたくなかった。きっとイチが私を見つけてくれると、私は信じていたんだ」

「そんなの脅迫だ。無理矢理じゃないか」

「どうしようもない。私にはイチしかいないんだよ。選びようがなかったんだ。それにどんな形であれ、世界を見られた。ずっと箱から出られなかった私にとって外の世界は憧れだったんだ。電車に乗っていろいろな街へ行ったり、知らない人に出会った。どれも異常に汚れ、狂っていたけれど」

 イグサは天井を仰いだ。納得できる話じゃない。裏の社会で産み落とされたカタギリキリは、どこまでも深い闇に手足を掴まれたまま足掻き、生命を燃やしている。どうして凡庸で空疎に生きるイグサの陰で、この少女が苦しみ踠いているんだ。

 僕は一体何をしているんだ。

「イチは見つかりそうなのか?」イグサはなんとか喉を震わせて、訊いた。

 Cは小さく首を振る。

「わからない。でもこうするしかないんだ」

 そのとき、外でチャイムが鳴っているのが聞こえた。学校のチャイムや街の防災無線の時報ではない音階。なんのメロディだっけ、とイグサは思案していたが、やがてそれが新幹線の到着を合図する音だと思い出した。

 そして、激しい眠気が襲ってきた。

「仙台に着くのか」

 瞼を瞬いていると、Cが同じく眠気で舌が回らないのか、もごもごと告げる。

「私はブツを運ぶ。お前はどうする」

 意識が落ちていく。イグサは我慢できずテーブルに突っ伏して、「僕も行く」と言い、瞼を閉じた。


12


「なぜこいつに私の過去をみせた」

「あなたがそれを望んだから」

「私はそんなこと望んでいない」

「それにしてはしっかりお話していたみたいだけれど」

「それは……」

 意識が覚醒してきて周りの音が耳に入り始めた。Cと彼方の声がする。

「こいつは一般人だぞ。知るべきじゃない人間だ」

「それは彼が決めること」

「お前は一体なんなんだ……」

 イグサは瞼を開き、息を大きく吸い込んだ。

「いいんだ。話してくれてよかったよ」

 Cは何か言いたそうに口を開いたが、何も言わなかった。

 列車は速度を落として停車する。イグサはショルダーバッグを肩に掛けて立ち上がった。

「行こう」

「お前、余計なことするなよ」

「わかってる」

 Cもリュックを背負って立ち上がった。


 人混みの中でCの後ろを追うように歩いた。新幹線を出てから、あまり近くにいるな、とCが耳打ちしたからだ。イグサは三メートルほど離れて歩いた。Cはホームを出て階段を下っていく。イグサは携帯電話を取り出しリンの番号を押した。呼び出しのコールが続く。Cを見失わないように集中して人混みを歩く。

 コールが止んだ。構内は騒がしかったが、スピーカーから「リンだ」と初めて聞くような緊張したリンの声が流れた。

「もしもし、イグサですが」

「ああ、君か」

 どうかした?とリンはさっきと打って変わって間延びした声を出した。

「カタギリキリを見つけたよ」

「おお。やるなあ、イグサくん」

 電話の向こうでリンは、ひゅう、と鳴らす。歩く速度を落として、よりCと距離をとった。Cに会話を聞かれないよう注意を払う。

「で、どこにいるの?」

「仙台。今、新幹線を降りた」

「仙台?」

「これから仙台で用があるみたいだ」行き先、目的は伏せることにした。

「そうか」

 たまらず、イグサは訊いた。

「リンはなぜこの子を追うんだ?」

「言っただろう?クライアントの情報は話せないと」

「一体どこまで知ってる」

 イグサは小さな声でできる限り凄みを効かせた。Cがそうしていたように。

 電話の向こうで少し沈黙が流れた。

「君はターゲットに接触したな?」

 ひやりとしたものが背筋に流れた。携帯を持つ手が震える。

「君には、カタギリキリを見つけ次第俺に連絡しろと言ったはずだ。それからは俺の仕事だ。君にあまり話をややこしくしてほしくないな」

 リンの声には抑揚がまったくと言っていいほど無かった。だが、すぐに大きなため息をついて、

「まあいいよ。君はプロじゃないからね」といつもの調子に戻った。

 イグサは何も答えなかった。

「とりあえずそのままカタギリキリをロストせずに続けてくれ。そっちに向かう」

 電話は切れた。

 リンの態度の変容に肝を冷やしたが、切り替えてCを見失わないように後ろをついていく。Cは新幹線を降りてから一度もイグサの方を振り返らなかった。

 リンは何者なのだろう。なぜ、カタギリキリを探していたんだ?

 リンが言った「プロ」とは何を指すのか。これは単なる人探しではないんじゃないか。Cの言っている組織に、やはりリンは一枚噛んでいるのか。頭の中で様々な謎が渦を巻いていた。

 バッグの中のベレッタというモデルガンが急に異様な存在感を放つ。

 これ、ほんとにモデルガンか?


 改札を抜けて仙台駅の西口を出た。仙台は雨が降っていなかった。。東京のどんよりとした雲はここでは見当たらない。立ち並ぶビルの間から夕日が差し込み街がオレンジ色に染まっている。駅には黒い大時計があり、時刻は六時十五分だった。

 イグサは黒のアノラックを脱いでバッグにしまう。Cは立ち止まらずに歩き続け、高架歩道を降り、そのまま地下へと続く階段を進んだ。迷いのない足取りだ。

 地下通路の先には地下鉄のホームがある。通路を歩く人々は皆涼しい格好をしていて、厚手のパーカーに黒のパンツのCは浮いている。けれど、早歩きともいえるスピードで歩き続ける彼女を見とめる者はイグサ以外、誰一人いなかった。

 Cは地下鉄の改札で切符を買い、さっさとホームへ行ってしまった。イグサはCの行き先がわからず、とりあえず千円札を入れてどうでもいい泉中央方向の一番高い切符を買い、急いでホームへ向かい、Cを探した。

 ホームにはちょうど富沢方向の電車がやってきて、Cがそれに乗り込むのが見えた。滑り込むようにしてイグサも車両に乗る。

「買った切符逆だったね」と彼方が笑っている。

「Cが早すぎるんだ。仙台の土地勘なんてないし、もうわけがわからないよ」

 汗まみれで愚痴をこぼすイグサにCも笑った。

「お前ほんとに間抜けだな」

「近くにいちゃいけないんじゃないのか?」

「ここなら見られないだろう」

 車両を見回すと乗客はイグサと彼方とCを除いて三人しかおらず、そのうち二人は親子で子供は座りながらシートに倒れて眠りこけていた。もう一人はお婆さんで、どう見ても裏社会とは縁がなさそうだった。

「ほんとに素人なんだな」

 Cは呆れているが少し楽しそうだ。笑うと綺麗な娘なのにな。

「普段からやってる君には敵わないよ」

「練習してどうにかなるもんじゃない。こういった秘密行動は天性による能力だ」

「なら諦めるよ」

 そうしろ。Cはイグサのシャツの襟を掴むと思い切り引き寄せ、耳打ちした。

「これから長町で降りる。駅から三百メートル南下したところにある廃業したライブハウスにブツを持っていく。お前はライブハウスの向かいのコンビニで雑誌でも読んで待ってろ」

 耳元で話されてこそばゆい。すぐにCは襟から手を離して背を向けた。

 別に普通に話せばいいだろう。折れたシャツの襟を直しながらイグサは思う。彼方は口を閉じて微笑みながら二人を見つめていた。それがイグサには妙に気味悪く映って何か言いたくなったが、途中の停車駅で乗客が増えたため堪えた。車内のクーラーで汗が冷えていく。濡れていた背中の気持ち悪さもだんだんなくなっていった。

 地下鉄は長町に到着した。仙台から二十分もかからず思ったより近かった。ホームに出てCは顎で前方の階段を指した。仕方なくイグサは先に階段を登った。改札で駅員に富沢行きの切符を払い戻そうともたついていると、Cが聞こえるように舌打ちして先に改札を出ていった。あとから追いつくと、Cは「怪しい連中がいるか先に地上に出て見てこい」とイグサを蹴った。

 仙台ではCの方が先に地下に潜っていったのに。イグサは南口に出る階段を登る。Cの言動が不安定なのは現実でも夢の中でも目の当たりにしてきた。運びの最終段階が近づいて余計ピリついているのかもしれない。

 南口から地上に出ると辺りは暗かった。夕日は既に沈んでいるし、通りに街灯が少ないからだ。道路は仙台方面に二車線、反対は一車線。車は途切れることなく走っていた。通りには学校帰りの中学生や主婦ばかりが歩いていた。怪しい格好も派手なヤンキーも見かけない。イグサは地上から階段下のCに見えるように親指を立てたサインを突き出した。しばらくしてCが地上に上がってきた。

「なんかただの住宅街って感じだぞ」

「知ってる」

 Cは南方向へ歩き出す。早歩きのCにイグサはついていく。

「君は何度も来ているのか?」

「ああ」

 地下鉄で冗談みたいに笑っていた少女が嘘みたいに闇の運び屋の姿になっている。変わりようにイグサは驚かされた。淡々と歩き続けるCの黒い髪は歩調に合わせて揺れる。電話で感じた相手を押さえつける雰囲気が背中から放たれている。薬物が詰まったリュックがとても重そうだと、イグサは思った。

 イグサたちが歩いている歩道の対岸にコンビニが見えた。さっき地下鉄でCが言っていたコンビニとはこれのことだろう。

「十五分もかからないと思う」Cは歩きながら言った。「もし私が戻らなかったら、お前はすべてを忘れて東京へ帰れ。そして何事もなかったように生きて死ね」

 わかった。イグサはしっかりとCに届くように返事をした。Cは何も反応しなかったが、後ろから彼方に手を握られて振り返った。

「気をつけて」

 Cは目を丸くしたが、少しして「わかっている」と微笑んだ。恐れや慢心は微塵もそこになく、精一杯の優しさが込められていた。

 廃ライブハウスが近づいてきたのか、彼方は握っていた手を離し、止まった。それに合わせてイグサもCを追うのをやめ、その後ろ姿を見ていた。


13


 イグサはコンビニで雑誌を読むフリをしながら向かいのビルを見ていた。

 ビルは古い五階建てで二階のテナントには美容院が入っていた。三階より上は看板などがなく不明だ。こんな住宅街の寂れたビルの地下にライブハウスがあっても誰も気づかないだろう。廃業したのも納得できる。

 腕時計を見るとCが突入してから十五分が経っていた。イグサは焦燥と不安でいっぱいだった。Cは十五分で戻ってくると言ったのに。

 隣では同じように緊張した眼差しを外に向けている彼方がいた。彼方はしきりに唇を舐めながらCの帰りを待っていた。

 もし、Cが出てこなかったら……。Cが失敗したり、事故があったら、どうする?僕は逃げるのか?Cを残して逃げるのだろうか。

 イグサは彼方を横目に見た。彼方はそれを望むだろうか。目の前の問題に背を向け、逃げてしまうのを赦すだろうか。

 恐い。今にも全身が震え出しそうだ。闇の世界に足を踏み入れてしまったけれど、まだ戻れる気がする。Cも壊れた主任もリンもモデルガンも忘れて、また明日からお客様の声にお返事を書く仕事に帰るんだ。転職して新たな生活をするのも悪くない。僕はまだ二十五だ。仕事は思っているよりたくさんあるだろう。

 平和に戻って生きる。もう贅沢はいわない。何も望まない。もし彼方がいなくなってしまっても構わない。ずっと一人でもいい。けれど、そんな蓋をした生活の裏でCのような過酷で残酷な孤独が存在するのは変わらない。それらから目を背けて僕は生きていけるだろうか。今以上に虚無な人生に向き合っていけるだろうか。

 イグサは腕時計を見た。さらに五分が経過している。手汗が吹き出して、開いている雑誌が汗の水分でふやけていく。先に無言の静寂を破ったのは彼方だった。

「あれ見て」彼方は廃ライブハウスのビルから三〇メートルほど先を指差した。黒いBMWが停まっている。車からスーツの男二人が出てくるのが見えた。男二人は小走りで廃ライブハウスのビルの中へ入っていった。

「なんだろうあの二人」彼方は雑誌を持つ腕の裾を引っ張った。「絶対怪しい」

 男たちの走り方は、どこかCの隠密な早歩きを思わせる感じがして気持ち悪く、胸騒ぎがした。開いている雑誌が震える。彼方のほうを見ると、彼方もイグサを見つめていた。二人は小さく頷くと雑誌を棚にしまってコンビニを飛び出した。

 ガードレールを勢いよく飛び越えて車道に出る。南方向の一車線を走ってくる車に思い切りクラクションを鳴らされた。構わずにイグサは対岸のビルへ走る。途中、停めてあるBMWを見た。近くに駐禁の標識があった。スーツの男たちは一刻を争うのだろう。嫌な予感がする。

 ビルに入るとエレベーターに突き当たった。電光表示に「B2F」とある。イグサの胸の動悸が激しくなった。二人の男は地下のライブハウスに向かったんだ。Cが危ない。

 運びの品を取りに来るにしては段取りが悪い。あんなところに駐車して駐禁を取られたら一巻の終わりだ。きっと男たちはCの客ではない。別の何かだ。

 エレベーターはのろく、なかなか一階に上がってこない。切迫しているというのに。イグサは唇を噛む。隣で彼方も歯噛みしていた。

 エレベーターが開くと中は空だった。飛び乗るようにエレベーターに乗り込み、地下二階のボタンを連打した。このビルのエレベーターは扉の開閉ものろまだった。

 エレベーターはとてもヤニ臭かった。染み付いた臭いではあるが、一部新鮮な臭いも感じ取れた。ヤニと中年が放つ加齢臭が混ざった臭いだ。たぶん、あの男たちのものだろう。

 ゆっくりと重力に押されるようにエレベーターは降下していく。すると彼方はイグサのショルダーバッグを開けて、底にあるベレッタのモデルガンを取り出した。

「それは……」本物ではない。イグサは頼りなさげに俯いたが、彼方は大きく首を振る。

「これはモデルガンなんかじゃない」

 彼方はベレッタのグリップからマガジンを引き抜くと、そこには金色に光る弾が詰められていた。

「嘘だろ……」

 マジよ。彼方はマガジンを戻してスライドを引き、イグサにグリップを握らせた。彼方の慣れた手つきをイグサはただ呆然と見ていた。

「トリガーを引けば撃てるのか?」

 ベレッタのグリップをしっかりと握りしめる。手が自分で制御できないくらい震えていた。

「撃てる。気をつけて扱って。人を殺す道具だから」

 ベレッタを握るイグサに彼方は手を重ねた。恐怖の振動が伝わったのか、彼方は「大丈夫、怖がらないで」と撫でた。「もし何かが起きてもこれで身を守れる」

 これは身を守る凶器なのか、人を殺す道具なのか、混乱したままエレベーターは地下二階に到着し、のっそりとエレベーターの扉が地獄の門の如く開いた。


 エレベーターを出ると中はほぼ真っ暗だった。壁を這って照明のスイッチを探したがどこにも見当たらない。視界が確保できないうえに音もなかった。イグサの足音とベレッタが壁に擦れる音だけが控えめに響いて、イグサは場違いな緊張に押しつぶされそうになる。

 来るべきじゃなかった。自分は今、間違えた選択をしている気がする。

 ヤニと便所のアンモニアの臭いに不快感がこみ上げる。床には薄地のカーペットが敷かれていたが、どうも湿っぽい。子供の頃、友達の家でペットのトイレシートを誤って踏んでしまったときを思い出した。靴下に犬の小便が染み込む感覚は今でもはっきりと覚えている。

 壁を這っていくと、部屋の隅に突き当たった。イグサは携帯電話を取り出してライトを点けた。はじめからそうすべきだった。頭がまったく働かない。ライトを四方に向ける。エレベーターからイグサが這ってきた壁を見る。部屋を照らしてみると奥にカウンターがあって、棚に並ぶ無数の酒瓶がライトを反射した。イグサはおそるおそるカウンターへ向かう。強烈な黴と汚水の臭いがした。テーブルには信じられないくらいでかい虫が蠢いていて、イグサは悲鳴をあげそうになり、携帯を落とした。慌てて携帯を拾おうとして、ライトの先の大きな金属の扉に気がついた。防音扉だ。フロアにつながっているのかもしれない。携帯を拾ってライトを消しポケットにしまう。防音扉に触れるとひんやりと冷たい。ひどく錆びついている。防音扉は音をシャットアウトしなくてはならないため分厚く、非常に重い。イグサはハンドルをしっかりと握った。ベレッタのトリガーにも指を通す。ヤニと黴とアンモニアの臭いのする空気を大きく吸い込み、吐いた。頭の中で「大丈夫だよ」と彼方の声がした気がした。

 一気にハンドルを下げて扉を開けた。照明が視界を包み込む。思わずイグサは手をかざしてしまった。眩しくて床しか見られない。その床に見覚えのある黒いリュックの一端が見えた。と同時に、「お前!なぜ来た!」とCの声がフロアにこだました。

 イグサは手を退け、精一杯目を見開いた。ステージの照明がギラギラと輝く。汚れたマーシャルと崩壊したドラムセット、スピーカーが転がっている。その手前、縦に長いこじんまりとしたフロアにはBMWから降りてきた男らがいた。一人は突っ立っていたが、もう一人はCを床に押さえつけていた。

「C!」

 イグサは叫んだつもりだったが、喉がかすれていてうまく声にならなかった。

「なんだお前は」

 立っているの男は怪訝そうに言ったが、Cを押さえつけている男が「あいつ銃を持っている!」と叫んだ。

「武器を捨てろ!」立っている男が鋭い怒声をあげて片手を腰に持っていく。

「違う!」Cは叫んだ。「あれはエアガンだ!あいつが銃なんて持っているわけがない!」

 イグサは右手でベレッタのグリップを握り左手で支え、ゆっくり前方の男たちに照準を定める。

「ほんとにおもちゃだと思うか?」乾いた喉からはっきりと声を捻り出す。

 立っている男が腰から手を離し、イグサに近づいてくる。

「すまない、ヤク中の相手をしている場合じゃないんだ」

 男は嘲るように笑った。首を振りながら一歩一歩イグサに向かってくる。

「その少女を放せ」

「こいつはうちで預かることになっている」

「いいから返せ。撃つぞ!」

「冗談はやめなさい。お前ら馬鹿どもの愛してやまない覚せい剤の密売容疑でこのガキは現行犯だ」

 男は殴りかかった。「お前も一緒に連行してやる」

 その瞬間はスローに感じた。ベレッタを握る両手に彼方の手が添えられた。耳元で「引いて」と声がした。

 乾いた音がフロアに響いて、男が後ろに吹っ飛んだ。

「あっ」

 男は小さく吐息をこぼして胸に手をやり、思い切り咳き込み、血を吐いた。そして、そのままぐったりとした。男から血しぶきが広がっている。

 Cを押さえつけていた男が慌てて拳銃を構え、叫んだ。

「武器を捨てろ!発砲するぞ!」

 倒れた男の風穴から吹き出す血液を見て、ベレッタを握る手の震えが止まる。

「早く銃を捨てろ!」

 男が拳銃のハンマーを下ろした。

「やめて!」Cが男へ体当たりした。それとほぼ同時にまた発砲音が響く。イグサの視界を彼方が過ぎった。彼方は一度身体を大きく震わせて、イグサに凭れかかった。男はよろめいたが、すぐに体勢を整えて立ち上がった。

「彼方?」

 イグサは後ろから首を突き出すように彼方を見た。胸に小さな空洞が空いていた。

「見ないで」彼方は小さくそう言った。

「武器を捨てろ!」

 男には無傷のイグサしか見えていない。男はまた拳銃を構えた。Cが腕を掴むと男はCを振り払い、蹴り飛ばした。そしてイグサに向かって発砲した。数回破裂音が続いて、その音と同じ回数、彼方がイグサの胸の中で跳ねる。彼方の胸や腹に無数の穴が空いていくのをイグサはただ見ていた。

「なぜ当たらない……」男は不思議そうにイグサに近寄った。

 苦しみ喘いでいた彼方が突然不敵な笑みを浮かべて、「死ね」と呟いた。一瞬、イグサは脳が締め付けられて収縮する感じがした。西東京の主任のときと同じだ。彼方が何かしたんだ。

 男の目に穴だらけの彼方が映る。男は呆然として停止した。その途端、胸を押さえて苦しみだした。

「いあ……ふっ、ふっ、ふっ……おぉ……」

 額には脂汗が滲み、歯を食いしばっている。足が縺れて頭から倒れ、両腕を交差して自分の胸を抱き、「はっはっはっ」と犬みたいな息をした。Cはそれの光景を見て絶句していた。

「痛みを……移植したの」

 彼方は肩を上下させて荒く息をする。彼方に空いた無数の穴からは血も体液も出てこない。ただ魂だけが失われていく。

「ごめん……ね」

 彼方は微笑んでイグサに触れた。イグサはすぐその手を握りたかったが、ベレッタが身体の一部になったみたいに両手から剥がれない。震える声でイグサは言った。

「大丈夫だから……すぐ病院とかつれていくから……」

「だめよ……私人間じゃないもの……」

 彼方にこれほど実体を感じたことはない。腕の中で弱っていく彼方は本当に人間のようだった。

「あまり見ないで……恥ずかしいから……」

 彼方はそう言って瞳を閉じた。

「彼方!」

 彼方を激しく揺さぶる。彼方を撃った男が激しく跳ねた。

「いいから、早くここを離れて……」

 目を瞑りながら彼方は言う。Cは立ち上がり、リュックを拾って、イグサの裾を引いた。

「ここにいるとまずい。彼方の言う通り早く出よう」

 イグサは頷き、弱る彼方を抱きかかえた。フロアに釣り上げられた魚のように微動する男と血の海に沈む男を残して、出て行った。


14


 夏の日はすでに没していた。通りは仕事帰りのサラリーマンで溢れている。幅広の男たちを跳ね除けるように二人は走り続けた。

 仙台方向を進み、分かれ道を適当に曲がる。Cは行き先を告げず北へ走り、それをイグサは彼方を抱きかかえながら追いかけた。

「あの二人はなんだったんだ?」

「たぶん麻取だと思う。」Cは息を切らしていた。「イチと同じバッジをつけていた。あれは麻薬取締官の紋章のはずだ。私が運ぶのがどこかから漏れたんだ」

 イグサは息を切らしながら訊いた。

「麻取ならイチのことがわかったんじゃないのか?」

「だめだった。まるで聞く耳持たなかった」

 脚がもつれてCが転びそうになる。Cは倒れそうになるのをなんとか堪えて、「くそっ」と悪態をついた。車通りの少ない路地に入っていたとはいえ人目は少なくない。通行人は道端で暴言を吐く若い少女を迷惑そうに避けた。

「麻取ってあんな乱暴なのか?少なくとも正義の味方には見えなかった」

「わからない。奴らはホシを挙げるためならなんでもする。中には粗暴な連中もいるはずだ。イチはそうではないと思うが……」

 そんなことより、とCはイグサを睨んだ。「なぜ拳銃なんて持っているんだ」

 言葉に詰まった。どう説明したらいい。いきなり知らない男から受け取ったモデルガンが本物のピストルだったなんて、信じられるわけがない。

「あとで話す。とにかく、もっと遠くへ逃げよう」

 Cは懐疑の目を向けていたが、やがてまた走り出した。とりあえずやりすごせた。唾を飲み込むと、喉が張り付くように乾いていて痛む。イグサは髪を揺らして走るCを追いかけた。

 腕の中の彼方は黙ってはいるが、変わらず呼吸が荒い。イグサはときどき抱えた腕で身体をさすってやる。心なしか彼方の口元が安らかに微笑んだ気がした。

 やっぱりビルに入るんじゃなかった。そもそもCを止めるべきだった。この少女が裏社会の歯車であることを、仕方なしに納得していた自分がバカだった。運びなんてひっぱたいてでもやめさせるべきだったんだ。知らない世界に翻弄されて混乱していた。普通に考えたら誰でもわかる。こんなの狂っているし、踏み込んではいけない領域だったんだ。けれど、もう遅い。人を撃ってしまった。たぶん殺してしまった。もう引き返せない。ショルダーバッグの中で黒いベレッタがまだ硝煙の息をしている気がした。


 広瀬川の河川敷にイグサたちは出た。橋の下の陰に身を潜めていた。

「ここは危なくないか?」

「うるさい……少し休ませろ」

 しばらく走って、Cは突然「川の音がする」と言い、進路を変えた。二人は引き寄せられるように広瀬川へ向かった。

 橋台は夜で暗い。周囲からは見えないけれど、逆に探そうとしたらすぐに見つかってしまう。あの廃ライブハウスに入り込む人間は決して多くないが、確実にバレる。それに、どの角度からどこの誰が襲ってきてもおかしくない、異常な世界にもうイグサたちは染まっている。安全な場所などどこにもないのかもしれない。

 そのとき、頭の中で一つネジが緩んで取れた感覚がした。ネジが抜けた穴から血流のようなじんわりと温かい何かが溢れ出す。

 とても懐かしく、安心する精神の液体。

「ごめんね」彼方が小さな声で囁くように呟いた。「あなたから借りていたモノを返します」

 突然何を喋り出すかと思ったら、わけのわからないことを言い出した。イグサは「いいから喋るな」と宥めた。

 荒い呼吸のCにも彼方の声が聞こえたみたいで、Cはイグサに抱かれる彼方を覗き込んだ。

「借りていたもの?」

「そう。人として生きるために必要なたくさんのもの」

 苦しそうに喘ぎながら、必死に言葉を紡いだ。

「誰かと生きるうえで必要な、他人を想う力。将来を見定める創造力。自己実現のための気力。あなたのそういったモノを糧に私は存在していたの」

 薄ら開いた瞳は黒目がちで綺麗だ。小さな頃からずっと何度見ても見飽きない、僕の大切な友人の瞳だった。

「君の言っていることがわからない」

「わかるはずよ。あなたがこの世界でうまく生きられなかったのは、すべて私のせい。あなたは私に依存していたと自分で思っていたかもしれないけれど、それは逆で、私があなたを必要として執着していたの。あなたに寄生して、あなたを巣食っていたの」

「違う!」イグサは声を荒げた。「僕は君がいたからなんとか生きてこれたんだ。何もない、何もできない僕には君しかいないんだ」

 彼方は手を伸ばして頬を撫でる。

「もうそうじゃないでしょう」

「変わらないよ……」

「この世界を自分の意志で見て、感じて、歩いた。それに、あなたには守るべき意思もできた。私がいなくてもあなたは自分の心で生きていけるはずよ」

 彼方はCを見た。Cはただ、その瞳を見下ろしていた。

「さっきだって彼方が助けてくれなかったら僕は撃たれて死んでいたんだ!全部君のおかげだ。君がいない世界をどうやって生きていったらいいかわからない」

「すべてあなたの力よ。考える力、優しさ。それがこうしてあなたを救ったの。たくさん流れ出てしまって本当に申し訳ないわ」

 彼方を抱きしめていた腕に液体が滲むのを感じた。撃ち抜かれた胸の空洞から何かが漏れ出していた。彼方の背中を支える腕がぬめる。

 また頭の中で思考液の圧に耐えられずネジが吹っ飛んでいく。脳が熱い。広瀬川に吹き抜ける風がそれを冷やして心地よい。

 脳内が重く満たされていくにつれて、彼方が軽くなっていく。彼方が消えてしまう。消えてしまうのは嫌だ。ぬめる腕にいっそう力を込める。

「あなたとの生活の日々はとても楽しかった。この世界に何もないなんて言わないで。きっと、あなたにとっての安息があるはずよ」

 彼方は一つ一つを噛みしめるように言い残すと瞳を閉じた。身体がみるみるうちに縮んでいき、両手に乗るくらいのしわしわな赤ん坊の姿になって黒く変色した。色や感触といい腐ったバナナに似ていた。

 友人の醜い変貌にイグサは叫びをあげた。隣でCが思考がショートして気を失って倒れた。イグサの脳内で閉ざしていた最後のネジが弾け飛んだ。膨大な血液とともに「川に流して」、と彼方の声が頭蓋で響いた。震える両足で広瀬川に近づくと、一気に彼方との記憶がフラッシュバックした。

 彼方は誰よりも傍にいてくれたし、誰よりも会話をして、誰よりも長く触れた。すべてを共有していた。イグサがどこまでも社会から孤立しても、彼方がいたから生きてこられたんだ。それは同時に、彼方はイグサの社会的欠陥となり孤立を生み出していたことになるんだと、イグサはやっと気づいた。

 イグサは夏の冷たい川に宇宙人みたいな姿をした、かつて彼方であったものを浮かべて、手を放した。

 さよなら。たくさん愛していました。彼方がいつもみたいに後ろから顔を出して耳元で囁いた気がしたけれど、すべて幻聴だった。


15


 夜の十一時を過ぎた。河川敷に吹き抜ける風がアノラックの隙間に入り、肌寒く感じる。

 失神しているCを橋台に寄りかかる姿勢で寝かせ、イグサはその隣にずっと座り込んでいた。

 ショルダーバッグからラッキーストライクを取り出す。箱を指で弾いて揺らしてフィルターをつまみ、箱から引き出す。ライターで火を点けて煙を深く吸い込み、長く吐き出した。一昨日買った煙草は十本も減っていなかった。いろんなことがありすぎて、三箱くらいはすでに消費している感覚でいた。

 彼方が死んでから、頭の中がとても重厚に満ち足りていた。いままで生きていて足りなかった脳細胞が補完されたような、空いていた部分にピースがはめられている。もう脳を締め付けられる感覚を思い出せない。どうやって彼方の存在を感じていたか、どこに彼方がいるのかわからない。ある種の物忘れに近い。けれど、もう思い出すことはないだろう。

 広瀬川は静かに流れを刻んでいる。トラックが橋を渡るとき以外はほとんど音がない。西を見ると山が連なっていて、そこに三本の電波塔が立っている。二本は近く、寄り添って立っていて、一本だけが少し離れていた。電波塔は南西からオレンジ、緑、青の順でライトアップされている。テレビやラジオの電波を発信しているんだろうか。

 咥えていた煙草が燃え尽きた。また箱から取り出して火を点ける。摂り込まれるニコチンで少し目眩がした。

 隣で、「彼方は⁉」とCが飛び起きた。暗闇の中でも目がぎらぎら光っているのがわかる。

「もういない」

「いないって……」

「死んだってこと」

 Cの強張った身体から力が抜けていくのがわかる。

「そんな……」

 悲痛に顔を歪めるCにイグサは内心冷たいものを感じた。自身の悲劇には飄々としているくせに、どうして出会ったばかりの彼方を思いやり、そこまで感傷的になれるのだろう。やっぱりこの少女はどこか狂っている。

「なんで君が泣くんだ。別に君は彼方なんてどうでもいいだろう」

 イグサは無神経に言い放った。様々なショックで自暴自棄になっていた。単純に興奮してイライラしていただけなのかもしれない。人間観の壊れているCが、他人のために泣くのが不思議でならなかった。

「お前、それでいいのか?」Cの瞳はイグサを糾弾していた。「お前にとって、この世界はあの子だけだったんじゃないのか」

 イグサは煙を吐いた。Cから目を逸らした。

「大切な人が消えるのはもう見たくない……」Cは両手で顔を覆う。

「イチは……」まだ生きているかもしれないだろう。そう言いかけて、やめた。

「イチはもういない……きっと死んでいる」

 あの子みたいに死んでしまったんだ。Cの泣き声は橋の下でよく響いた。


「蜉蝣みたいな彼方の魂が、私にも少しわかってきたんだ」Cの声は泣いたあと掠れてしまって聞き取りづらい。「あの子が最後言っていたことがほんの僅かだけど理解できる」

 イグサは口端に煙草を咥えながら言った。「僕にはほとんどわからない」

 本当はわかっている。理解するのを拒絶しているだけで、すべてわかっている。

 Cは「一本くれよ」というので、イグサは眉を顰めて怪訝な顔をしたが、この少女に未成年もクソもないなと、ラッキーストライクの箱とライターをCに投げて寄越した。Cは煙草を咥えてライターを点火するが、「火がつかない」と黒い目でイグサを見つめた。彼方の瞳によく似ている。

「煙草吸ったことないのか」

「ない」

 イグサは仕方なく自分の吸っていたものをCに咥えさせ、Cの指に挟まったものを自分の口に運んだ。

「火に向かって息を吸うんだ」

 Cに渡したライターを取り上げると、Cに見えるように、小さな炎を煙草に近づけフィルターを吸い、火を灯した。Cはその様子を見ながら、咥えていた煙草の煙を盛大に吸い込み、思い切り咽せて火の点いたラッキーストライクを吐き飛ばした。

「君には無理だよ」

 イグサはそう言ったが、Cは再び箱から一本取り出し、「次はちゃんとできるから」と顔を突き出した。

「煙草もな、高いんだぞ」イグサはCの煙草に火をつけてやった。今度は慎重に煙を吸って吐いた。けれど、少し咳き込んだ。

「おいしくないな」

 広瀬川に浮いている虚空を見つめながらCは咽せる。

「なら、もう吸うなよ」


 川の清涼な風は紫煙を乗せて街を流れる。Cはベレッタの件を切り出さない。もうそんなことはどうでもよくなってしまったのかもしれない。イグサは、彼方の声やあらゆる言葉や奇妙な温もりも煙に混じえて吐き出した。夏の夜の温さがすべてを許してくれる気がした。

「私は普通の優しさを知らない」Cは煙草を指に挟んでいた。「イチの優しさは、おそらく大部分が自分の抱えた罪によるものだ。本当の愛でもなければ体裁のための情でもないだろう」

「だいたいの親なんてそんなもんだ」

「私はイチがずっと後悔していたのを知っている。そういうのは肌で感じられる」

 産んでしまって後悔する親なんてたくさんいるし、間違って生まれてきたような人間も腐るほどいる。「君が背負うものじゃないだろう」とイグサは言った。

 イグサの言葉を遮るようにCは「でも、普通の優しさを彼方は私に教えてくれた」と嬉しそうにした。

「お前と会って、あの朝の夢で、気づいたら私は彼方を感じていた。彼方は私に温かいミルクのような落ち着く心をくれた。優しくなりなさいと。あの甘い匂いは大麻なんかじゃなくて、彼方の優しさだったんだ。私は人に優しくされると、何か裏があるんじゃないかとどこか探っていた。しばらくずっと、あの子のそれも疑っていたけれど、やっと今わかってきた。彼方が私にくれたものは裏表のない完全な愛だった。イチのそれとは違う、とても安心できる気持ちだったんだ」

 Cは煙草を吸って、煙を吐いた。

「彼方の優しさは、元はお前の優しさなんだろう。彼方から何かしら影響を受けるとき、その中に必ずお前の影がある。その温かな感情は勘違いや気まぐれなんかじゃなく、お前の純粋な人の良さから生まれていた。それが彼方の強いエネルギーとなって、理性を超えて私や様々な人間に影響を及ぼすのだろう」

「そんなんじゃない」イグサはかぶりを振る。「そんな難しく考えるなよ。バカみたいだ」

 Cは無視した。「きっと彼方はお前自身なんだ」とイグサの目を見据えて言った。

「意味がわからないよ」

 イグサは天を見上げたが、そこには暗い灰色のコンクリートが広がっている。

「彼方は僕の未熟な創造物で、僕はそれを愛していたんだ」

 隣のCの華奢な手がイグサに添えられた。

「お前の優しさは私を変えたんだ。ただそれを言いたかった」

 傍に寄るCへ吐いた煙が行かないように、イグサはCの反対を向いて煙草を吸った。

 舞う紫煙の向こう側に三色の電波塔が光っていた。


16


「遅くなって悪いね」リンはそう詫びたが、疲労の滲んだ顔から、休みなく高速を飛ばしてきたのがよくわかる。イグサが連絡を入れたのが六時、仙台に到着したときにはまだ日付の変わっていなかったからちっとも遅れていない。ボルボのエンジンが興奮しているのが座席の振動から伝わる。

「君たち煙草くさいねえ」

 リンは窓を全開にして仙台の複雑な交差点を通過した。後部座席のCは虚ろな瞳で外を眺めていた。

 Cにはリンのことを伝えていなかったからはじめは警戒していたが、現状リンの手を借りて仙台を離れる以外に選択肢はなく、素直に従った。

「煙草を吸うしかやることがなかったんだ」

「退屈してたんだね」

「そうでもない」

 イグサはショルダーバッグからベレッタを取り出した。

「なんでこんなもの僕に渡したんだ」

 リンは問いに問いで返す。しかし、リンは一喝した。

「なぜそれを持ち歩いている」

 ハンドルを握る手に力がこもっているように見える。爪はバーで見たときと同じ緑色に塗られている。アクセルが若干強く踏まれて、イグサは加速に身体がもっていかれそうになった。

「モデルガンだとわかっていたら持ち歩かないはずだ。なぜ言った通り保管しておかなかった」

「なんとなくこれが武器になるような気がしたんだ」

 リンは苛立っているのがわかる。

「もし警察にバレたらどうするつもりだったんだ。君はそれをもっているだけで捕まるんだぞ」

「あなたが渡したんじゃないか……」

「あのな」人差し指でハンドルを叩く。「俺が爆弾を手元に置いておくわけないだろ。常に身を潔白に保つのは俺たちの基本だ」

「まさか、僕に渡して隠していたのか」

「そうだ。まあ、この件に巻き込んだのは俺だし、無責任だったとは思うけどな。それでもまさかエアガンを持ち歩く男だとは思わなかった」

 イグサは舌打ちをしたかったが、堪えた。

「君は朝から晩までつまらなそうな仕事に勤しむ腐った社会人の目をしていたからね。隠すのに適している踏んでいたんだが」

 ははっ、とリンは嘲笑する。

「まあ、とりあえずカタギリキリを見つけ出してくれて助かったよ」

 後部座席でCが顔色を変えた。

「どういうことだ!イグサお前、スパイだったのか⁉︎」

「まあまあ、お嬢さん落ち着いて」

 先の信号が黄色から赤に変わった。

「俺は便利屋だ。君に用があって、この男を遣って君を捜していたんだ」リンは車を停止させた。

「斎藤一紀、でピンとくるかい?」

 Cは目を丸くして叫んだ。「イチが生きているのか!」

「今生きているかは知らない」

 リンはきっぱりと言い放つ。身を乗り出していたCは落胆した。

「五日前に斎藤一紀が金の入ったトランクケースを持って俺に会いにきた。カタギリキリという女に渡せと言ってね」

 信号が青に変わってボルボを発進させる。

「最初は一種の有名人かと思って頭の中のリストを探ったが、カタギリキリという名に覚えがない。住所や連絡先を聞こうとしたら男は教えてくれないんだ。解決できそうな依頼じゃないから断ろうとした。そしたら、俺にそのベレッタを向けるんだ。もう断れないよね」

 リンはまた声を上げて笑った。バーで会っていたときと印象が違う。東洋人にも西洋人にも見え、二つをミックスしたような風貌はいつも印象を曖昧にさせた。

「はっきり言って脅迫だ。でもそのベレッタを置いて、これも渡してほしいって言うんだ。意味わからないし手がかりはないし複雑そうだったけど、まあ、漸くここまできたってこと」

 イグサは手元のベレッタを見やる。

「これって……」イグサが言いかけたことをCが口に出した。「イチの拳銃なのか?」

 頭が飽和していく。

「どうしてこの子に渡すなんて依頼をしたんだ?」

 イグサは声を荒げていた。後部座席のCも必死の形相だった。

「男は何もわけを話さなかった。もし果たせなければすべてを処分して忘れろ、と。その場合、依頼品は返すと、便利屋は信用問題だからこちらで処分できないと伝えたが、何も言わず去っていった。トランクケースの中はゆうに五百万は入っていた」

 また信号が赤に変わって、リンは停車させる。

「女に巨額の金をわけも話さず渡せ。これは確実に消える。どこの線から俺を知ったのかわからないが、とにかく困ったね」リンはブリーフケースからある新聞の切れ端が入ったファイルを取り出した。「斎藤一紀が来た翌日の朝刊にこれが載っていた」

 イグサはそれを手に取り、車内のライトを点けてCにも見えるように掲げた。二人はクリアファイルの中の新聞の切り抜きに顔を近づけた。


『多摩川に変死体、浮かぶ』

 八月四日、多摩川の河川敷に厚労省職員とみられる男の水死体が発見された。四日明け方、スーツ姿の男が浮かんでいると調布市の郵便局員が通報。警察が現場に駆けつけ、水死体引き揚げたところ、死体は変死体で、死因は不明。身元を確認できるものはスーツの厚労省所属を示すバッジのみ。腐敗状況から、死亡して時間はさほど経過しておらず、警察は現場付近の調査を行うとともに、自死、殺人事件の両面で捜査をしていくと発表した。


「これは……イチなのか?」

 Cはイグサからファイルを強引に奪い取った。

「君の言うイチなる人物が斎藤一紀なら、そうだと思う」

 リンはアクセルを踏み、車線を変えて高速へ向かう道に入った。

 Cは何度も紙面を見返している。そこに書かれている内容を呑み込もうとしては吐き出してしまう。

「イチは、本当に死んだのか……?」

「君は彼から何も聞いていないのか?」

 Cは首を振る。

「何も、知らない」

「そうか」

 リンのボルボは一度通った道を辿るように高架線を走った。


 後ろで横に蹲るCから何か音が聞こえた。携帯電話だ。はじめはリンもイグサも触れなかったが、しつこいくらいコールが鳴り止まない。流石に痺れを切らしたリンがバックミラー越しに「おい、出てやれよ」と言った。

 Cはもぞもぞと身体を動かして携帯を取り出して開いた。

「えっ」

 Cは飛び起きて、突然リュックを漁り出した。「無い……」携帯電話はまだ震えている。

「どうした」

 イグサが後ろを振り向いて声をかける。Cは携帯電話の画面をイグサに見せた。人の名前ではなく、見知らぬ番号が並んでいた。

「誰だ?」

 高速を走る対向車線からのライトでCの表情が見えたり見えなくなったりした。微かに見えたCの顔は引き攣っていた。

「あの赤い携帯からだ……」

 あの赤い携帯?西東京の主任が持っていた携帯電話のことだろうか。あの携帯は……「Cが僕から奪ったじゃないか」

「それをたぶんライブハウスで落としたんだ」Cは震えて歯をかちかちと鳴らした。「誰かに拾われたかもしれない」

 ライブハウスの惨劇がバレてしまったのか、それとも麻取の二人はまだ生きていたのか?

 困惑するCにリンが言う。「出なくていいのか?」

 Cは動かず黙っている。イグサも恐怖で何もできなかった。どうかこのまま逃げ去りたい……。彼方もイチも消えてしまった今、この闇の世界に何も用はない。この黒いボルボの箱舟で遠くへ行かなくては……。

 二人が無言で祈っていると、長かったコールが鳴り止んだ。でも安堵したのは束の間、今度は一度だけ携帯が震えた。Cは油断していたのか後部座席で跳ね上がった。携帯を見て、「メールだ」と言った。

「文面は?」

「……ない」

 文面がない?

「けれど、添付ファイルがある」

 ウイルスとかじゃないだろうな。イグサがそう言おうとする前にCはメールの添付ファイルを開いてしまった。携帯のライトが照らされた顔は引き攣っている。

「お前、これが誰かわかるか?」Cはイグサに再び携帯の画面を見せた。「私はこいつを知らない」

 添付ファイルは写真だった。青白く、所々に血が付着した生首だった。この顔はこないだ見たことがある、「カトウだ」とイグサは叫んだ。

「西東京の主任のリストとやらに触れた可能性があるうちの新入社員だ……。三日前にバックれた……」

 名簿の顔写真では気色の良かった男が大根みたいに白くなっていた。首の切り口はノコギリか何かで雑に切られた痕がある。死んだ目は綺麗に焦点を合っていて標本のようだった。

「こいつから漏れたのか……」Cは携帯電話を操作している。「西東京の奴は前から麻取にマークされていたんだ」

 イチの死を知って塞ぎ込んでいたはずのCがどうしてか持ち直していた。いや、Cはいつ襲われるかわからない、そんなギリギリを生きてきた人間だ。集中力が生命線なんだ。

「あの赤い携帯電話のGPSは辿れるようにしてある。今、調べる」

 どうして個人の携帯電話の位置情報がCにわかるんだ。イグサは気になったが、聞かなかった。代わりにリンが「なんの話をしているんだ?」と口を出したが、二人は無視した。

「麻取がカトウを殺したのか?」

「違う。麻取はそんなことしない。組織だ。おそらく私らへの見せしめだ」Cは目を凝らして画面に見入る。「赤い携帯の所在がわかった……。ここはどこだ……?動いている。国見SAが先にあって……」

 イグサは正面を見た。「国見十キロ」の標識。

「それ、自分の携帯電話の位置じゃないか?」

 すると、リンは二人に後ろを見ろと指を差す。

「なんか爆走してる白いメルセデスいるけど、知り合いかい?」

 後続の車に異常な速度で飛ばす白い車があった。

「あれにGPSが反応してる」とCは言った。


17


 白いメルセデスは、追い越し車線と走行車線を蛇行するように何台も車やトラックを抜き、リンのボルボに近づいた。時速二百キロは出ているように見える。Cは、間違いなくこの車から発信している、と携帯を見ながら言った。

「こいつ僕たちを追ってきたのか?」

 リンはメルセデスに気づいた段階で危険を察知し、走行車線にボルボを移動させていた。

 メルセデスはついにボルボに追いつくと、スピードを下げ、並走すした。メルセデスの中からこちらを覗く視線があった。十秒ほど並んだあと、またスピードを上げて、走行車線のボルボの前に走り出た。車間距離が非常に狭く、ボルボを威圧し妨害していた。リンが追い越し車線に移動すると、メルセデスはウインカーも点けずに車線を変更する。こりゃまずいな。リンが耳の裏を掻きながら笑っていた。

「もっと飛ばせないのか?」

「実はガソリンがやばいんだ」リンは顎でメーターを指す。「仙台で君たちを探すのに手間取って給油してないんだ。どこかのSAのガソリンスタンドに寄るつもりだった」

 イグサは頭を抱えた。「なんで給油しとかないんだよ」

「仕方ないだろう。こんなことになるなんて知らなかったんだから」

「後ろ!」とCが大きな声を出した。白いメルセデス同様、爆走する黒いメルセデスがいた。

「仲間か?」

 黒のメルセデスは、時速二百キロで車体を揺らしながら車線を行ったり来たりし、やがて速度を落としてボルボの後ろをぴったりとつける。リンの運転するボルボは白黒のメルセデスに挟まれてしまった。

 イグサの視界に前方の白いメルセデスの助手席から腕が伸びるのが見えた。そして、その手に黒い物体が握られているのが確認できた。

「銃を持ってる!」

 マジか。リンが呟く。今度は笑い飛ばさなかった。イグサはとっさにアノラックを捲し上げて腿に乗せていたベレッタをズボンのベルトに挟んで隠した。

 メルセデスの左のウインカーが点灯する。助手席の腕が「国見二キロ」の標識を拳銃で指していた。

「国見SAに誘導してる」

 イグサはリンを見た。

「なんとかならないか、リン。奴らに捕まると非常にまずいんだ。どうにかここを切り抜けたい」

「無理だ。仮にトップスピードで振り切れたとして、次の補給地点までガソリンが持たない。ガス欠で追いつかれる」

 リンはウインカーを点けた。諦めろ。バックミラーに目を伏せるCの顔が見えた。

 国見SAへの細い道に三台の車は速度を落として入っていった。売店やレストランは閉まっており暗い。トイレと自販機、ガソリンスタンドの照明が視界に飛び込む。深夜だからか国見SAの日中の賑やかさは影も形もない。がらがらの駐車場に白線を無視して前方の白いメルセデスが停車する。それに合わせてボルボ、黒のメルセデスも止まった。

 助手席からスーツの男が降りた。短髪でサングラスを掛けている。手には拳銃を持っている。ボルボに近づくと車内を見渡し、リンの窓ガラスを拳銃のグリップでノックした。

「降りろ」

 無機質な声がしっかりと車内まで伝わる。イグサは男が目に入らないように前方を見ながらリンに「助けてくれ」と懇願した。リンは大きくため息をついて、「中国人がみなカンフーできると思うなよ」と毒突いて、ドアを開けた。

 中国人だったのか。イグサは内心で呟いた。後ろを振り向くと、顔を伏せるCと、白のメルセデスに乗っていた男と同じような面をした二人のスーツの男が黒いメルセデスから降りてくるのが見えた。

「もうだめだ、C。行こう」

 手を伸ばしてCの手を握った。

「ここにいても無理矢理引き摺り下ろされるだけだ。素直に奴らに従うほかないよ」

 Cは目を伏せたまま、「そうだな」と言った。けれど、Cは動かない。イグサは仕方なく先に車を出た。

 男がサングラスの奥でこちらを見ていた。何を考えているのかまったくわからない。リンは一人の男に連れられてサービスエリアの隅に向かっていた。キーを持って両手を上にあげている。男はイグサの腹に銃口を押し付けた。「歩け」と銃口で腹を押される。Cが足取り重く車から降りた。そして、Cも銃口を突きつけられていた。


 車から降りて十数メートルほど敷地の端へ歩いた。サービスエリアのトイレと反対側の高速道路から離れた隅には、トラックも自動車も停まっていないため、逃げも隠れもできない。SAの外は暗闇が広がっていた。

 イグサら三人は男たちに銃を向けられて身動きが取れなくなった。何か尋ねようものなら殴られてしまうかもしれない。イグサとCには絶望と緊張が、巻き込まれたリンには苛立ちが顔に浮かんでいた。

 ライブハウスで銃撃を経験したからか、この男たちが持つ拳銃が決してレプリカでないことがわかる。これらはトリガーを引いたら、イグサがそうしたように、硝煙を吹き出して肉壁を貫く。一触即発だ。びくびく震えもできない。

「クスリと武器を渡せ」

 マトリックスみたいな男が機械的で平坦な声を出した。Cはリュックからクスリの袋を取り出し、コンクリの地面に置いて、両手を挙げた。

「武器も出せ。さっさとしろ。殺すぞ」

 男の言葉のイントネーションが日本人のそれではない。身長やガタイはこの国にいてもおかしくはないほどだが、日本人ではないな、とイグサは思った。リンも中国人だったし。

 ベレッタを持っているのはイグサだ。イグサは、自分が隠し持っていることを悟られぬよう、動かなかった。これを渡してしまうと完全に抵抗ができなくなる。しかしベレッタ一丁ではこの三人の男に対抗できないだろう。まだメルセデスに残っている奴らもいる。渡さなくても絶望的だが、イグサにはイチのベレッタが生命線のように思えた。それに、

「ピストルは渡せない……」

 一人このベレッタに執着する女がいる。

「渡す渡せない、じゃない。持っている武器を捨てろ。さもなくば殺す」

「このピストルはイチの形見だ。イチを殺したお前らには渡せない」

 男はほんの少しだけ顔を傾けた。

「斎藤一紀は自殺だ。勝手に死んだのだ」

 Cは息を呑むのがわかった。

「我々は殺していない。思い違いだ。さっさと武器を寄越せ」

「お前たちが殺していなくても、お前たちがイチを苦しめていたのは変わらない。誰が殺したかなんてもうどうでもいい。私もイチもお前らが死ぬほど嫌いなんだ!」

 Cは目の前の男の腹めがけて飛びかかった。男は反応が遅れて地面に叩きつけられ、拳銃を手放してしまった。他の二人の男たちはCに銃を向けたが、Cが男に覆い被さっているので発砲しなかった。

「まてまてまてまて」

 リンが両手を広げて銃を構える男たちとCの間へ立ち塞がった。

「俺の車のトランクに五百万がある。それで取引をしよう。五百万でベレッタはこちらのもの、そして安全にこの場から逃げさせてもらう。もちろんクスリは返す。どうだ?五百万だぞ?」

 張り倒された男は乱暴にCを退かして立ち上がった。

「いいだろう。トランクから出してこい」

 拳銃を拾い上げ、リンの腰辺りに銃口を突きつけながらボルボへと二人は向かう。

 残った男たちは立ち上がるCに銃を向けていた。「取引するんだ。フェアだ。銃を下ろせ」、とイグサはなるべく低い声を出した。男たちは銃を下ろした。まさか素直に従うとは思わなかったので、少し驚いた。

 すぐリンはジュラルミンのケースを持って戻ってきた。あれが、イチがCに残した五百万か。Cは何も言わないけれど、勝手に取引に使われていいのだろうか。しかし、今はこうするしかないだろう。

 リンはケースを置いて両手を挙げ、足で男へ蹴り寄越した。「君たちも手挙げろ。そして、気をつけろ」と言う。イグサとCは手を挙げた。男がジュラルミンのケースの金具に触れる。ふと、一瞬だけリンが目交ぜした。

 なんだあの視線は。まるでまだチャンス、希望があるみたいな……。

「開けるぞ」

 男がそう言ってケースを開けた。すると、後ろで轟音が響いた。駐車場のボルボが爆発したのだ。車体が爆炎に包まれ、ガラスが粉々に砕け散り、ボンネットが吹っ飛び宙を舞った。リンが爆破に合わせて勢いよくしゃがみ込み、目の前にいた男の脚を払った。男が転倒する。

「走れ!」

 爆破に気を取られ、男たちの発砲が一瞬遅れた。イグサたちは慌てて走り出して、「外に出ろ」と叫ぶリンの声に従い敷地の垣根を越え、SAの外の光一つない真っ暗闇の中へ飛び込んでいった。


18


 敷地を出るとすぐ急な勾配の坂が続いていた。飛び出して踏み込んだ先が斜面になっていて、思わず前のめりに転びそうになった。木々の枝が顔面を引っ掻く。後方から乾いた発砲音が何度も何度も鳴る。男たちの激昂する声も聞こえる。また爆発音がした。おそらくメルセデスに引火したのだろう。すぐにもう一度、爆発した。二台とも燃えたみたいだ。

 Cとリンがどこにいるのかわからなかった。確認する余裕もないし、暗くて何も見えない。声を出したら男たちに見つかりそうで、名前も呼べない。

 宙を翔けるように前へ前へ全力で坂を下ると急に足元の具合が変わった。斜面ではなく平になったが、沈んでいくような膨よかな土で、思い切り足を取られて転倒した。大きな植物が身体を支え、茎が折れる音がした。ここは畑か。暗闇に少し目が慣れてきて、目の前に自分と同じくらいの背丈のひまわりが無数に咲いているのがわかった。

 イグサはひまわり畑の中に屈んで紛れ込む。派手に音が出ないように茎や葉をかき分けながら進む。ここがひまわり畑なのはわかるが、自分がどの方向へ進んでいるのかさっぱりわからなかった。発砲音はもう止んでいた。しかし安心はできない。奴らも坂を降りて探しにくるかもしれない。もしこのひまわり畑を見つけられたら、確実に隠れているのがバレる。この畑に留まるのは危険だ。ここを抜けてもっと遠くへ逃げないと。

 そのとき、伸ばした手にひまわりではない衣服のようなものが触れた。わっ、と声を上げそうになったとき、土まみれの手で口を塞がれた。びっくりして口の中に入った砂利を飲み込んでしまった。喉がいがいがした。

「静かにしろ」

 Cの声だった。

「よかった……生きていたんだ」イグサは小さく囁いた。「リンは?」

「わからない。違う方向に逃げたか、撃たれたか」

「そうか」

 Cはひまわりをかき分けて進み始めた。イグサは彼女の後ろへ続いた。

 畑を出ると農道を挟んで、またひまわり畑が続いた。農道は猫のように素早く駆け抜け、二人は再びひまわりをかき分ける。

 ひまわり畑は無限に広がっているように思えた。長い時間屈んでいたため、腰に限界がきていた。それでも撃ち殺されるよりはマシだ。メルセデスに挟まれ、男たちに囲まれ、そして全力で走り、ひまわり畑を這う。いろんな種類の汗が身体じゅうから吹き出してきて、自分がひどく臭う。いや、先を行くCの臭いかもしれない。嗅いだことのないような獣のような臭いがした。

 二人はひまわり畑を抜けた。どれぐらい時間が経ったのかわからない。もしかしたら数分かもしれないし、数時間に及んでひまわり畑にいたのかもしれない。目の前は森だった。上を見上げると空は若干明るんでいて、夜明けが近づいているのを感じる。薄く霧も出ていた。遠くで車が走る音が聞こえる。だいぶ遠くへ来たはずだ。Cがイグサの左手をとって、引いた。

「山を登る」

 Cの顔が確認できた。頰が切れていて血が出ていた。服や髪に泥もついていた。イグサの足腰はほとんど限界だったが、それはCも同じだろう。二人とも満身創痍だった。

 Cは山の斜面に足をかけた。もう片方の手で木の枝を掴み、踏ん張る。でも濡れた草木や土で滑って体勢を崩してしまう。イグサはCの手を引き、右腕で支えた。

「大丈夫。ゆっくり登ろう」

 Cは、こくんと頷いて身体を起こした。今度はイグサが山の斜面を登って、上からCの手を引いた。

 山はそんなに高くなく、山というより丘だった。それでも上からは、ひまわり畑と遠くにハイウェイが見えた。山の木々に溜まった夜露が、二人に揺らされて落ちる。時々、雨が降ったみたいに二人は濡れた。

 しばらく険しい山道を登っていくと、だんだん急な勾配が落ち着いた。ちょっとした山道が形成されている。その道に沿って二人は歩いた。整備されていない自然形成の山道はどうしても歩きにくい。大きな石に躓きそうになってはお互いの手を引く。ごつごつした山道に足が悲鳴をあげていた。

 霧で先が見通せないのと足場が悪いので下を向いて歩いていた。だから日が昇ったことにお互い気がつかなかった。鋭い閃光が地面を照らし、仄かな暖かさを感じて、やっと気づいた。そして、二人はだいぶ高いところまで登ってきたのだとわかった。

 山の上からは、濃霧の立ち込めるひまわり畑に差し込む朝陽が見えた。遠く向こうにSAがあって、あそこから逃げてきたんだと我ながら感心した。

 イグサはバッグからラッキーストライクを取り出して、二本つまんだ。箱の中は二本きっかりで、あとは空になった。一本をCに渡して火をつけた。

「これからどうしたらいいんだろう」

「わからない」

 Cの煙草の吸い方は早くも様になっていた。それがおかしくて、イグサは少し笑った。

「でも、君はもう自由だ。嫌になるほどつまらない世界へ僕が連れていってあげるよ」

「なんか彼方みたいな言い草だな」

 彼方みたいなイイグサ。それは存在しない幻。あるいは……。Cも笑って煙草をふかした。

「また心のどこかで会えるだろうよ」

 朝霧の中に煙が浮かんで、霞の向こうにハイウェイが光っている。

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霞の向こうに おイモ @hot_oimo

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