メメントモリ
桜雪
第1話
あの日以来、あたしは「オトナ」になった。
いや、「ならなくてはいけなかった」と言った方が的確だろうか。
住む場所も身寄りの親戚もいない、永遠に醒めない悪い夢を見ているかのようで
涙すら出なくなった。誰も「わたし」のことなど気に留めてくれるわけでもなく、
「モノ」としての誘い文句しか言われず、
「悪いコト」をすれば怒られ、それなりの「償い」を求められる。
なんて世知辛い世の中なのだろう。
もうわたしは「存在していない」はずなのに。
わたしは大きく口を開け紙袋いっぱいに入ったりんごをひとつ取り出し、一口齧る。
季節外れのりんごは蜜もなければ独特の甘さなぞもなくただただ酸っぱい。
それでもわたしは去り行く人びとを横目に
一つ、また一つとりんごを無駄に喉に通していく。
「ねえ、おとーさん!きょうはれんしゅうがんばったからおかしかってもいいでしょー?」
「しょうがないなぁ。いいぞ、頑張ってたもんな。だけど、お母さんには内緒な」
「うんー!ももとおとーさんとのふたりだけのひみつー!」
通り過ぎていったテンションの高い子供の甲高い声とその父の低い声を耳にした途端
昔日が鮮明に甦り、直様わたしの喉の奥が拒絶反応を起こしていた。
ああ、あの頃は「幸せ」だったっけか。
ごく当たり前の日常がいかに幸せなことなのか、そしてそれがいかに難しいことなのか、わたしはひどく痛感した。
もうあたしはオトナになったんだ、2度と昔のことなんて思い出すもんかと
言わんばかりにわたしは首を横に大きく振る。
わたしの長い髪が靡き目前の景色が黒く染まった。
そういえば、人類の始祖が楽園を追い出されたのは「禁断の果実」を口にしたから
だとか親から教わったことがある。
そもそも禁断の果実が何を指しているのかこんなちっぽけな脳では理解できないし、楽園の意味すらわからない。
わたしは食べ終わったりんごの芯を路上に投げ棄て、
ポッケの中に片手を突っ込みながら夜に代わろうとしている空を眺めた。
楽園についてわたしはしばし熟考する。
汚れのないセカイ、以前のような笑い合い、衣食住が揃っている生活、無償の愛。
これらが全て満たされた時に「楽園」という存在が成立するのだろうか。
違う、
そもそも誰かの机上の空論が伝承されてるだけで楽園なんてものは存在しない。
もし仮にそんな場所が存在するとしたら
その「楽園」は「本当の」楽園ではないはずだ。
平凡な日々を「楽園」と指すのだとしてもどのみちわたしは「通報」されている。
救済の術が一つとして見つからないとしてもどうにかしようと必死に打開策を見つけ出し、何かに縋りつきそれを固執する、どうやらそれが人間の性らしく、
そのためか無意識のうちにわたしは祈り続けることを自分自身に誓っていた。
人通りも増え、そろそろ日も暮れてきた。
「行くか。」わたしは誰かに聞こえてしまいそうなほど大きな声で呟いた。
わたしは紙袋を抱えたまま座っていたベンチから立ち上がり、荒廃した隣町へと足を運ぶ。
今晩は珍しく天気が良いらしく、雲一つない空で無数の星たちが煌々と輝いている。
手持ち無沙汰に袋からりんごを一つ取り出しては回し、わたしはすうと息を吐く。
ああ、神さま、この空の下でどうかわたしを終わらせてはくれないですか。
わたしは声を押し殺し、空を見上げながら、静かに涙だけを流した。
メメントモリ 桜雪 @REi-Ca
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