額縁に飾られた

犬歯

第1話 車窓から

 僕は今、東京駅から博多に向かって、体感速度が弾丸より少し遅い速度で走る新幹線に身を置いている。速度の実際は雲泥の差があるが、僕らにとっては一定の速度を超えた瞬間、同じようなものだ。違いが観測できなかった瞬間データは意味を為さない。窓の外には今、富士山を捉えたところだ。富士は自然を超越したから文化遺産になったんだろう。富士山の背後に写る人間の尊厳が垣間見えた気がする。


 何故僕は博多に向かっているのか。ある招待状が届いたからだ。


「人生やり直しませんか」手紙と共に届いたメール便のポップな文字が人生の行き詰まりを感じていない人間による同情にも感じた。鋏でメール便を切り、「人 直しません かりや」というアナグラムを作る遊びをして自尊心を埋める。かりやって誰だよ。


 招待状の宛名は何の因果か、「かりや」だった。


 中には「久しぶりです。覚えていませんか?中学の時よく話していた佐藤です。大学以来会っていませんね。実はこの度結婚することになりました。最近は連絡とっていませんでしたが、私の半生を共に過ごしてくれた藤君には是非結婚式に来て欲しいです。結婚相手は当日まで秘密です。きっと驚きますよ。あぁそういえば場所も言ってませんでしたね。場所は博多の○○という場所で挙式を挙げます。実は今は博多に住んでいるんですよ。働いてもいました。あなたは今どこに住んでいますか、まだ名古屋ですか?それとも東京に行きましたか?あなたは常々東京に行きたいということをこぼしていましたしね。(この手紙は山田さんに送ってもらいました。住所は聞いてません。会ったときの楽しみにしたいので)この手紙を書いていたら益々あなたに会いたくなってきました。是非来てください。会えるのを楽しみにしています。」


 懐かしい名前が出てきたな。そう僕は感じた。特に生きる意味も持ち合わせておらず、暇を持て余す僕にはいい気分転換になるだろうと、すぐに行く旨を佐藤に告げた。山田を通じて。


 電車は僕の故郷でもある名古屋を越えた。故郷には何が残っているのか。もう故郷にはかつての仲間も、血の匂いも感じない。まるでドラム式洗濯機の中ですべてが洗われ、ラッセンによって新たに描かれた。そんな場所になっている。きっと外の人間にはわからないだろう。外から見れば変わらない都会の風景であり、どこか人間味に欠ける、機械都市。町を行く人間は皆それぞれ俯き、蒼白とした人間によく似たアンドロイド。でも僕にとっては違う。一人ひとり人間であり、褪せない色を持っていた。


 しかし久しく帰った名古屋は廃れた、機械の国だった。それも廃棄された機械たちの。故郷というのはいつもそうだ。頭の中でだけ色鮮やかに描かれ、脚色される。実際に見る風景に対してはその差異から来るモノクロ感に人は涙をこぼすのだ。


 僕の隣を歩く家族連れ。父親と思しき男の涙には、感動か哀愁かそれを推し量ることは出来ない。しかし子供たちのはしゃぎ姿と対照的に映るその姿は僕の脳裏にこびり付いた。


 そんな名古屋を越え、京都に着くと、僕の隣に老婆が乗り込んできた。どうやら一人のようだ。


「どこまで行くんですか?」


 彼女は話しかけてきた。年の功なのか、前現代的な価値観ゆえなのか。現代を生きる人間は他人に干渉しない。それが個人主義であり、新自由主義だ。隣のあいつは敵であり、味方だ。そして何より他人だ。無理やり話すこともない。なによりネットの誕生は僕らを内側へ内側へと導いたのだ。だからこのように話しかけてくるのも老婆の心の余裕、違う価値観故だ。


「博多ですよ。友人の結婚式に御呼ばれしましてね。」


「あら、それはおめでたいわね」


 僕はそこで初めて彼女の顔をしっかりと見た。


 均整に整った皴は、正しい年の取り方を示しており、子供じみたような悪戯心の宿った、黒いあどけない瞳は黒真珠のように見えた。口元には藤峰子も彷彿とさせるような笑みが零れ、若い時の絵をまじまじと見ることが出来た。老婆と形容するのはおかしい。今までの自分の言葉が嘘に感じる。それほどの容貌だった。


「私も博多に行くの。それまで一緒ね。」


「そうですね。一緒だ。」


 新幹線というのは揺れが極端に少ない。そのため騒音もほどんどなく、快適に過ごすことが出来る。しかしそれが生む負の面を犇々と感じる。


 遂に電車は岡山を越して、博多まではもう停車しない。隣の女性は相変わらず文庫本を片手に暇を弄ばせていた。


「もう、終わるのね。」


 ふと彼女の漏らした吐息と流れ出した言葉は静寂な空間に響いた。一瞬時が止まったかのように、僕の鼓膜はその言葉を反芻する。これがクロノスタシスというものか。


「何が終わるんですか?」


「あら、聞こえていたの?」


 彼女はすこし顔を赤らめた。まるで夏祭りに好きな人と来る、あの特有の匂いを持つ十代の少女のように。


「私の息子がね。結婚するの。」


「息子ですか」


「そう息子がね。」


 もう一度僕は顔を上げ、彼女の姿を見た。それは老婆と言っても差し支えない。均整に整っていた皴は、荒波のように、その悲哀を強く顔に掘った。その形はさながら小学生の彫刻刀の授業で作られた、練習用の版画のように。

 その眼は黒ではなく、血の通った赤を黒に混ぜ合わせ、まるで馬楝のように歪な丸を写す。口元は其の死期すらも嘲り、死神すらも揶揄うような老獪さを溢した。


「もしかして、息子さんの結婚相手って「佐藤」ですか?」


「さぁね。佐藤なんて苗字、日本中にあふれているのではないの?それに貴方はそれを知ったところで何が変わる?」


「そうですね。何も変わらない。でも人の好奇心なんてものは際限がないと僕は思いますよ。人はぬるま湯に浸かり過ぎた。非日常を感じることが人間の特権なんですよ。」


 彼女は笑みを溢した。またあの少女のような翳を写しながら。


「私は苅谷」


 あぁ「かりや」だ。きっとこの人はあの人の結婚相手の母。


「苅谷さんですね。ここであったのも何かの縁ですし、博多で会えるかもしれませんね」


「そうね」


 終点に着く新幹線には疎らに人が乗っており、各々の喜怒哀楽をここまで運んだ列車は、達成感という昂揚すらも感じさせた。駅に降りたち、改札を抜け、今日の寝床に向かう。彼女とは駅に降り立った後、それぞれ別々の方向へ進んだ。特に挨拶などはしていない。


 ここは博多だ

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