第2話 出席番号男子2番・秋月蓮治 ②
ぼくたち一年生の教室は校舎の三階にあり、屋上から降りるとすぐだった。三階から屋上へと上る階段には「立ち入り禁止」と書かれた札がプラスチックのチェーンでかかっている。
「ゆうきは たてふだを よんだ。しかし こちらは うらがわだった!」
裕葵のつまらない冗談を無視して、ぼくたちはチェーンをひょいと乗り越えた。
立ち入り禁止とあるように、本来屋上への立ち入りは禁止されていた。階段を登っても屋上へ繋がるドアには鍵がかけられていた。数ヶ月前、その鍵を針金一本で開錠したのは他ならぬぼくだった。自慢できるようなことではなかったけれど、ぼくの特技のちょっとしたひとつだった。その鍵は五分とかからなかったから少しもの足りなかった。
一応ぼくたちが屋上を利用したあとは鍵をかけなおすようにしていて、ぼくは今では一分もかからずその鍵を開けたり閉めたりすることができる。お前、音楽より泥棒の方が向いてるんじゃね? と裕葵が毎日のように言う。その度にぼくはぼくの作る曲がそんなにいけてないのかと不安にかられる。わたしは好きだよ、秋月くんの歌。鮎香がたまにフォローしてくれるのがうれしかった。歌詞は変だけど、と鮎香が余計なことを言った。
三階に降りた瞬間、ぼくは何か違和感を覚えた。ぼくたちの教室の方が騒がしい。けれどいつも通りの授業が始まる前の騒がしさとは全く異質の騒がしさがそこにはあった。よく知っている声の怒鳴り声や悲鳴が聞こえた。
「なんだ? なんか騒いでんな。喧嘩か?」
裕葵も異変に気づいたようでそう言った。
教室に近づいていくうちに、怒鳴り声や悲鳴の内容が聞こえた。
「てめえ、何やってんだよ!」
「お願い、先生、やめて!!」
どうやらただ事ではなさそうだった。それにしても先生とは誰のことだろう?
棗先生は行方不明だし、副担任のちづる先生は聖母マリアかナイチンゲールかマザーテレサのような人だ。生徒からあんな言葉をかけられるような人じゃなかった。だとしたら五時間目の数学の、学年主任の牛田だろうか? どちらも違う気がした。
「行ってみよう」
そう言ったぼくの手を鮎香が握った。
「鮎香、どうした?」
「何か嫌な予感がするの。わたしたちの日常が壊れていくような音が聞こえるの」
彼女はこれ以上歩みを進めるのを、いやいやと拒否して、その場に立ち止まってしまった。
ぼくは彼女の頭をなでてやった。
「大丈夫だって。鮎香にはぼくがついてるから」
「本当?」
鮎香は心から不安げな顔をしていた。
「大丈夫だよ」
鮎香の顔を見ると、ときどきぼくは奇妙な感覚にとらわれる。
それは、自分の命をかけてでも彼女を守らなければならない、というものだった。
守りたいではなく、守らなければならないという、まるで誰かにそうプログラムされたアンドロイドにでもなったような気持ちになることがある。
もしかしたら、前世かどこかでぼくと彼女は知り合いで、そのときのぼくは彼女を守れなかったりしたのだろうか。あるいはぼくは彼女にずっと守られっぱなしで、来世ではその恩返しをしようと心に決めていたとか。そんなことを考えて、考えすぎだよな、きっと、とぼくは笑った。
前世とか来世なんてものがあるわけがない。
行方不明の棗先生の日本史の授業で、織田信長がどこかの寺を焼き討ちしたとき、僧兵相手に苦戦を強いられたと聞いたことがあった。普通の兵士は死ぬことを恐れ、仲間が死ねば気が動転する。しかし、生まれ変わりを本気で信じていた僧兵たちは、死ぬことを恐れず、仲間の死にも動じず、ただひたすらに信長の軍にぶつかっていったという。恐ろしい話だ。宗教は時に人を簡単に人でなくさせる。鬼に変える。けれど、神も仏も、生まれ変わりも、人間が作り出したものにすぎない。
一度きりだから人生はおもしろいんじゃないか。青春も一度きりだから、ぼくは今全力で楽しんでいる。
「イチャイチャしてる場合じゃなさそうだぜ」
裕葵が言った。
「あれを見てくれ」
彼が指差す先、教室の前には、ちづる先生と、それから久しぶりに見る顔の女生徒が立っていた。
「山汐凛?」
「確かにあそこにいるのはちづる先生と山汐だが、俺が言ってるのはそれじゃない。ふたりの足元を見てみろ」
祐葵に言われ、ふたりの足元を見ると、白いペンキがそこらじゅうにこぼれていた。こぼれているだけじゃなく、今まさに教室の開いたドアからバシャッとちづる先生や山汐の足元に大量のペンキが飛んでいた。
「やめて! 先生! お願い!!」
教室から悲鳴が聞こえた。
「今の声は……」
「服部絵美だ。行くぞ」
祐葵が先頭に立ち、続いてぼく、鮎香の順に教室の中を覗いた。
「なんだこれ」
そこには異様な光景があった。
まるで不良たちが大喧嘩でもしたように机や椅子が倒れ、教科書が散乱していた。
しかし、そんなことは些細なことでしかなかった。
異様だったのは、壁も床も、窓も黒板も、ぼくたちの机や椅子も、後ろの壁に貼られたぼくたちの書道や美術の作品といったものまで、何もかもが白く塗りつぶされていたことだ。
いや、塗りつぶしている真っ最中だった。
行方不明だった棗先生の姿がそこにはあり、たくさんの白いペンキの缶が床には転がっていて、先生が教室中の何もかもを大きなハケで上から白く塗っていた。
先生は怯える生徒たちの顔や制服にもペンキを塗り、先ほど悲鳴を上げた服部恵美という名の生徒は頭からペンキをかぶせられていた。
「心の病気だって噂だったが、そんなちゃちなもんじゃなさそうだな。頭がどうにかなっちまったのか」
祐葵が言った。本当にそうとしか思えない光景だった。
「ちづる先生、これは一体?」
ぼくは後ろにいたちづる先生に尋ねた。
しかし、その瞬間、ぼくの体にバチバチッと電流が走り、ぼくは倒れた。ちづる先生の手に、テレビでしか見たことのないスタンガンが握られているのが見えた。もう片方の手には拳銃が握られていた。銃口は山汐の脇腹に向けられていた。
「鮎香、逃げろ」
ぼくはそう言うのが精一杯だった。祐葵の制服のズボンの裾を握り、鮎香を頼む、そう言おうとして、ぼくは意識を失った。
消えゆく意識の中、ぼくはバチバチ、バチバチ、という音を二度聞いた。
ぼくが目を覚ましたとき、ぼくの視界に入ったのは、白。白。白。
教室は完全に白く塗りつぶされていた。
鮎香は? 祐葵は?
ぼくは左右に首を振り、
「秋月くん」
「蓮治」
すぐそばにいたふたりの無事を確認して安心した。
「俺たち、ちづる先生にスタンガンで気絶させられてたんだ」
祐葵が言った。確かにぼくも見た。ちづる先生の手にスタンガンが握られているのを。そして、山汐は銃を向けられていた。彼女は自分の意志ではなく、ちづる先生に無理矢理学校に連れてこられたということだろうか。
「秋月くん、なかなか目を覚まさないから心配したよ」
泣きそうな顔で鮎香が言った。ぼくは彼女を守るって約束したのに、一番に気絶させられるなんて情けない話だった。
教室は耳が痛いほど静かだった。
教室の真ん中にいたぼくたち以外には誰もいないんじゃないか、そう感じるほど。
しかし、クラスメイトたちは教室の隅で息をひそめるようにして、ぼくたちを見つめていた。
そのとき、タップダンスの軽快な足音が静寂を破った。
教壇の上で踊るのは棗先生だった。
先生は変な眼鏡をかけていた。眼鏡やコンタクトレンズを作るとき、自分に合った度を見つけるために二、三枚のレンズを重ねる眼鏡があるだろ? なんていうのか知らないけれど、先生がかけている眼鏡はあれによく似ていた
「起きましたか秋月くん。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
踊りながらそう言った。
「先生こそ元気そうで何より。みんな心配してたんすよ」
先生は踊るのをやめると、
「そうですか」
と言って、ぼくに近づいてきた。
「みんなとは誰のことでしょう?」
手でぼくの両頬をグッと掴んで言った。
「裕葵とか鮎香とか……」
魚のように飛び出す形になった唇でぼくは答えた。他に思い当たる者がいなかった。先生が手を離す。そしてまたタップダンスを始めた。
「たったふたりですか。それを君はみんなと言ったわけですね。しかしこのクラスには三十人生徒がいます。そのうちのふたりだけを指してみんなとは普通言いません。秋月くん、君はもうこどもじゃないんですから、嘘つきはいけませんよ。泥棒のはじまりです」
ぼくには返す言葉もなかった。
「泥棒といえば、君たち三人は立ち入り禁止の屋上に毎日のように出入りしてますよね。施錠してあるドアを君が針金で解錠してるそうじゃないですか」
まさかそれを先生に知られているとは思わず、ぼくは疑ったわけではないけれど、祐葵と鮎香の顔を見た。もちろんふたりとも首を横に振った。
「榊くんから聞いたわけでも、市川さんから聞いたわけでもありませんよ。先生は皆さんのことなら何でも知ってるんです」
先生は言った。
「君、ひょっとしたら本当に泥棒じゃないんですか? みなさん、あ、もちろんこのみなさんは榊くんと市川さんだけのことじゃありませんよ、高校に入学して半年、何か物をなくしたということはありませんか? ひょっとしたらそれは彼に盗まれたかもしれません」
この人、一体何を言って……。ぼくが抗議する前に、祐葵が立ち上がっていた。
「蓮治がそんなことするわけないだろ」
「そうよ、秋月くんは泥棒なんてしない」
鮎香も立ち上がってそう言ってくれた。
「くくくくく」
先生は、
「はははははははははは」
心底楽しそうに笑った。
「この世界の秋月くんがどうやら良い友だちに巡り合えたようでよかったです」
それは何か含みのある言い回しだった。まるでぼくが毎日のように見ている夢の内容を先生が知っているみたいだった。
ぼくは夢の話を祐葵と鮎香にしかしていない。先生が知るはずはなかった。
「先生さ、元気っていうより、何だか気でも違ったみたいに見えるよ。これは一体何の真似だよ? 教室中白く塗りたくって、一体何がしたいんだ?」
ぼくは言った。
先生は言う。
「血が良く映えるからですよ」
それはこれからこの教室で血が流れるということだろうか。一体誰の血が、どうして? わけがわからないことばかりだった。わけがわからないことだらけだったけれど、これ以上先生と話したところで、わかることはひとつもない気がした。
ぼくはちづる先生のそばに立っていた山汐凛に目を向けた。彼女は制服ではなくワンピースだった。フリルのたくさんついたかわいらしいその服は、大人しそうで儚げな彼女によく似合っていた。制服じゃないところを見ると、やはり無理矢理連れてこられたのかもしれない。けれど、どうして?
「山汐は、元気には見えないな。でもまた会えてよかった」
ぼくはずっとうつむいたままの彼女にそう声をかけた。
「ぼくたち、何にもしてやれなくてごめんな。お前がいじめられてるの知ってて見てみぬふりしてた。最低だった。反省してる」
山汐は聞いているのかいないのか、顔を下に向けたままだったけれど、ぼくは言葉を続けた。
「今更かもしれないけど、約束させてくれ。もうお前を誰にもいじめさせない。ぼくが絶対にさせない」
彼女は一度だけ、こくりとうなづいてくれた。それだけでぼくは心からよかったと思った。同時に、大変なことを自分から願い出てしまったという重責も感じていた。けれど、これでいい。彼女には友達が必要なんだ。同じグループなのにいじめをしたり売春を強要したりするようなクソみたいな奴じゃなく、普通の友達が。ぼくたちのグループには女子がひとり足りないと思っていたところだったし、ちょうどいい。これからはきっと、祐葵と鮎香と山汐とぼくの四人で楽しくすごせる。
先生は、パチ、パチ、パチ、とぼくをからかうようにゆっくり拍手をした。
「秋月くんも目を覚ましましたし、彼の感動的な告白? も終わったところですし、それでは授業をはじめましょう」
教壇に立ってそう言うと、
「ではみなさん、机と椅子を元通りにならべて自分の席に座ってください」
先生はそんなことを言った。教室中、机や椅子がひっくり返ってしっちゃかめっちゃかなのは先生のせいなのに。
けれどぼくたちは先生の言葉に素直に従うことにした。従わなかったらどんな目に遭わされるかわからなかったからだ。ちづる先生はスタンガンと拳銃を持っていた。棗先生も持っているかもしれない。反抗的な態度をとるクラスメイトもいるにはいたが、すぐに他の生徒が机と椅子を運ぶよう促していた。
「まさかそんなことをするひとはいないとは思いますが、この教室から逃げようなんてことは考えないでくださいね。もっともドアの前には先生と、青先生がいますので、絶対に逃がしませんけど。先生たちは拳銃を所持しています」
スタンガンといい、拳銃といい、一体この国のどこでそんなものが買えるのだろうとぼくは思った。コンビニやスーパーじゃ見たことがない。amazonとか楽天で売ってるのだろうか。たぶん売ってないだろうと思う。
「射殺はなるべくしたくありませんからね」
そう言う先生の声は、射殺したくてたまらないように聞こえた。
ぼくたちが机と椅子を並べ終わると、先生がまるでホームルームでも始めるようにしゃべりだした。
「みなさんもご存知の通り、このクラスではいじめがありました。内藤美嘉さん、佳苗貴子さん、八木琴弓さん、藤木双葉さんの四人が、山汐凛さんをいじめていました。みなさんがいじめを見てみぬふりをしたせいで、いじめはエスカレートし、夏休みには内藤美嘉さんたちは山汐凛さんに売春を何度も強要し、山汐さんが体を売って得た何十万という大金を巻き上げていました。内藤さんたちは本来なら少年院に入れられ、何年かは臭い飯を食べるはずでしたが、内藤さんのお祖父様はこの町の町長で、おまけにお金持ち、どれくらいのお金が不正に動いたかはわかりませんが、内藤さんらは無罪放免、何の罪の償いも謝罪もせず、今こうしてみなさんといっしょに学校に来て普通の高校生のふりをしています。こんなことが許されていいのでしょうか? いじめを見てみぬふりをしたみなさんも同罪です。みなさんもまた罪を償わず何の謝罪もしないまま許されていいのでしょうか? 先生は考えました。みなさんには、人を思いやる心が足りないんじゃないか」
先生は息継ぎをするのを忘れたかのように一気にまくしたて、
「そこで先生はこんなゲームを開催することにしました」
そう言うと、ペンキのせいで真っ白になってしまった黒板に、黒いマジックでこう書いた。
──いじめロールプレイ
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