第1話 出席番号男子2番・秋月蓮治 ①

 高校生になってから、繰り返し見る夢がある。

 その夢では、ぼくは中学一年の二学期に不登校になり、ひきこもりを三年以上続けていた。

 その夢の中で、ぼくが不登校になったきっかけは本当に些細なことで、中学一年の体育祭で、ぼくたちの学年は出し物としてダンスをすることになっていた。

 これは夢だけじゃなく、現実にぼくたちの学年はその年ダンスを披露した。

 夢が現実と違うのは、ここ数年風邪ひとつひいたこともないぼくが、夢の中では風邪をひき四〇度の高熱を出して大事な体育祭前に病欠してしまうということだった。夢の中のその日、体育の授業ではみんなが新しいダンスを覚えていた。

 翌日、前日にぼくが休んだことを知ってか知らずか、体育教師がぼくにクラスのみんなの前で披露するように言い、当然ぼくにはそれができるわけもなく、みんなの前で体育教師から「なぜできないのか」と、激しく叱られることとなり、ぼくは赤っ恥をかかされる、そんな夢だった。

 夢の中のぼくは、最初は一日、仮病を装って休むだけのつもりだった。

 一日休むと、体育祭まで行きたくなくなってしまう。

 体育祭が終わるまで休むと、二学期の間は行きたくなくなる。

 そうしてぼくは以来一度も学校に行かないまま、中学校を卒業する。

 夢の中のぼくは、いつもそんなダメダメの奴だった。

 そんなぼくにも行ける公立の高校があったのだから、世の中というものは不思議なもので、母さんが何度か担任の教師に学校に呼び出され、高校受験の手続きをすませると、ぼくは町内にある最底辺の公立高校を受験することになった。その高校はぼくが現実に通っている県立八十三(やとみ)高校だった。

 中学校にもろくにいかず、当然内申点はボロボロ、おまけに受験勉強なんてまるでしてなかった夢の中のぼくが合格するとは母さんも姉ちゃんもまさか夢にも思わなかったろう。

 その高校には姉ちゃんも通っていた。現実でも、姉ちゃんも同じ学校に通っている。

 本当はN市のもっと内申点の高い高校に行くこともできたのだけれど、姉ちゃんは電車やバス通学がしたくないからという理由でその高校を選んだ。これも現実のとおりだった。

 だから、学力テストではいつも学年一位だ。これもまたしかり。

 夢の中のぼくが、高校生活に期待に胸を膨らませていたかどうかと言えばノーだった。

 高校には最初の三日だけ通い、今日から授業が始まるという四日目に、ぼくは行きたくないと駄々をこねて、また不登校になった。

 今回は特に理由なんてなかった。

 夢の中のぼくは、たぶんぼくはもう学校には行けないのだろうなと思う。

 母さんは受験費用や、制服や教科書代に十万円以上も使ったのに、とぼくを罵ったけれど、ぼくはもうなんとも思わない。

 ぼくは高校に行きたいなんて一言も言ってなかったから。最低な奴だった。

 ぼくは近くの病院の精神科に連れていかれ、診断を受けたけれど、何の異常もないと言われてしまう。

 母さんとしては、それはきっと不本意だったことだろう。

 自分の教育が間違っていたとは思いたくないだろうし、ぼくが何かしら精神病を患っているとわかれば、それを息子の不登校の理由にできる。

 けれどそうはならず、母さんはもう、ぼくに学校に行けとは言わなくなる。

 夢の中のぼくは、母さんがようやく諦めてくれたのだと思う。

 夢の中のぼくは、学校に行かないなら働け、とでも言われるかと思っていたけれど、それも言われることはなかった。

 ただ母さんは泣きながらぼくの部屋のドアの前で、

「あんたのことは母さんが生きてる限り一生面倒を見ていくから」

 と言った。

 それに対し、夢の中のぼくは当然だと思う。

 ぼくは生んでくれとも頼んだ覚えはないのだから、と。

「お願いだからもう死んでちょうだい」

 とも母さんは言った。

 それに対し、夢の中のぼくは「ひどい話だ」と思う。

 勝手に産み落としておいて、勝手に期待されて、勝手に失望されて、ぼくはずっといい迷惑をしていた、と。

 そんな夢を、毎日のようにぼくは見ていた。


「それはあれだよ、前世の記憶って奴だよ」

 友人の榊祐葵(さかきゆうき)が言った。

「でも、時代は現代で、秋月くんは秋月くんなんでしょ? だったら前世じゃないんじゃない?」

 そう言ったのは市川鮎香(いちかわあゆか)だった。

 十一月十八日、月曜日の昼休み。

 ぼくは祐葵と鮎香と三人で、校舎の屋上で鮎香が作ってきてくれた三人分の豪華な弁当を食べていた。

「所詮夢だろ。別に気にするようなことじゃないんじゃないか?」

 祐葵が言った。確かにそうかもしれない。ぼくは夢の話は切り上げることにした。

 ぼくたちは中学校も別々で、たまたまこの高校、県立八十三高校の1年2組のクラスメイトになっただけだったけれど、席が近かったこともあってすぐに意気投合した。ゴールデンウィークになる頃には3人でつるんでこの屋上で昼食をとるようになっていた。

 祐葵には内緒だけれど、ぼくは夏休みに何度か鮎香とデートらしきものもしていた。まだ付き合うとかそういうんじゃないのだけれど。そもそもぼくは初恋もまだで恋というものがよくわかっていない。ただ鮎香といっしょにいるのは楽しい。もちろん祐葵と三人でいるのも楽しい。そんな感じだ。

 ぼくと祐葵は元々購買で買ったパンとジュースで昼食を済ませていたのだけれど、いつも自分の手作り弁当を持参していた鮎香が二学期に入るとぼくたちの弁当も作ってくれるようになった。最初はぼくも祐葵も大喜びでその弁当を食べた。それが何日も続くと、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、鮎香に言わせると一人分も三人分も作る手間は変わらないという。花嫁修業にもなるしね、と鮎香は言った。

 ぼくは料理は一切できないから本当に手間が変わらないのかどうかはわからなかったけれど、祐葵と相談してせめて食材分だけでもお金を鮎香に渡すようにしていた。彼女は最初それを受け取るのもいやがったけれど、どうしてもと何度もお願いして、「じゃあ一日百円ずつ」という破格の値段で弁当を作ってもらっていた。

 ぼくは昼食代に母さんから毎朝五百円ずつもらっていたから、毎日四百円浮くことになる。

 十日で四千円。百日で四万円だ。卒業まで貯めたらなんと三十万近くになる。それだけあれば、中学校のときからずっとほしかったギブソンのギターが余裕で買える。

 けれど、ぼくは貯金ていうものがどうにもできないらしく、お金があるとついつい学校帰りにコンビニで漫画の雑誌や単行本を買ってしまい、一週間とか二週間、なんとかそれを我慢できても今度は新作のゲームなんかに手を出してしまって(九月、十月にモケモンやモンスターイーターの新作が立て続けに出たのは痛かった)、この二ヶ月でできた貯金は0円だった。そんなわけで、ぼくは今月から毎日五百円全額を鮎香に渡し、そのうちの四百円をぼくの代わりに貯金してもらうことにしていた。すると祐葵もどうやらぼくと同じだったらしく、彼も鮎香に貯金をお願いしていた。彼はサッカー部で、日本代表の何とかっていう選手と同じ何とかっていうスパイクを買いたいらしい。何とかが並んでいるのは、ぼくがサッカーにまるで興味がなく、選手の名前をカズくらいしか知らないからだ。カズの本名も知らない。それにしても、ふたりとも高校生にもなって、貯金をガールフレンドにお願いするなんて、まったくもって情けない話だと思う。

 鮎香の弁当を食べ終わったぼくたちが残りの昼休みにするのは、その日によって様々だった。

 中学生のときからギターを練習していて、一度もライブをしたことがないどころか、バンドを組んだことさえもないけれど、ロックバンドでメジャーデビューするのが夢のぼくが新曲を書き上げると、ふたりにそれを披露することもあったし、祐葵のサッカーの練習にぼくと鮎香が付き合うこともあった。祐葵曰く、ぼくは音楽よりもサッカーの才能が結構あるらしく(失敬な)、度々部に勧誘されるのだけれど、体育会系のノリっていうか厳しい上下関係はたぶんぼくには合わないような気がしたので、いつも勧誘を断っている。鮎香のおすすめの少女漫画を三人で読んで、こんな恋がしてぇぇぇ! と祐葵と学校の屋上で愛を叫ぶこともあった。君に届けは傑作です椎名軽穂先生。もちろん、他愛のない話をして過ごすこともある。

 最近の話題はもっぱら、ぼくたちの担任の先生のことだった。

「今日も先生、こなかったね」

 鮎香が卵焼きを箸で切りながら言った。

 県立八十三高校1年2組の担任教師、棗弘幸教諭が失踪して二週間が過ぎていた。

 噂だけれど、先生は夏休みにこのクラスの生徒が起こしたふたつの事件の事後処理に忙殺され、精神を病んでいたらしい。

 言われてみれば確かにそう見えなくもなかった。

 夏休みが明けてからの2ヶ月で、先生の体は見る見るうちにげっそりとやせ細っていっていた。

 自分が受け持つ生徒が売春強要事件や薬物による集団レイプ事件を起こしたのだ。無理もなかった。

 いつも笑顔を絶やさず、時にはくだらない冗談を飛ばしていた先生は、笑顔を一切見せなくなり、二学期に入ってからはずっと暗い顔をしていた。声もか細く、教室の後ろの席のぼくには授業がまったく聞こえなかった。

 昨日まで暗い顔をしていたかと思えば、翌日から数日間ほどまるで性格が変わってしまったかのように、明るい顔で冗談を飛ばしたりもした。けれどそれがすぎるとまた暗い顔に戻ってしまい、それから二度と明るい顔で冗談を飛ばすようなことはなくなっていた。

 鮎香によれば、精神を病んでいたのだとしたらそれは簡単に説明がつくという。先生はうつ状態にあって医者にかかり、精神安定剤か何かを処方され、それが最初の数日間効きすぎてしまって、いわゆる躁状態になってしまったのかもしれないらしい。その後薬が先生の体に馴染み、うつ状態を緩和する程度の効果にとどまった、そう考えれば納得がいくそうだ。鮎香が何故そういうことに詳しいかというと、彼女のお父さんが会社でもう何年も上司からパワハラを受けていて、以前同じようなことがあったそうだ。最近は病状も落ち着いているそうだけれど。心の病なんて、たまにテレビで特集を組んでいるのを見たことがあるくらいで、ぼくは遠い世界の出来事のように思っていたけれど、結構身近な問題みたいだ。

 先生については、お気の毒としか言い様がなかった。

 しかし、バスケ部内で起きた薬物による集団レイプ事件はともかく、売春強要事件についてはぼくたちにも責任はある。売春を強要したのもされたのもぼくたちのクラスの内藤美嘉、山汐凛という生徒だった。内藤はクラスの女子の中心的グループのリーダーで、山汐はそのグループのひとりだったが、一学期の終わり頃には山汐は内藤たちからパシリのようなことをさせられていたし、いじめられているようにも見えた。夏休みの間に何があったのかは知らないけれど、いじめの延長として売春を強要されたのは間違いなかった。ぼくたちが一学期のうちに山汐をいじめから助けてあげることができたなら、もしかしたら事件を回避できたかもしれなかった。

 山汐は二学期に入ってから一度も学校に来てはいなかった。これも噂だが、何度も繰り返された売春の強要で、彼女は妊娠してしまったと聞いていた。もしそれが本当なら、ぼくたちがいじめを見て見ぬふりをしたせいで、取り返しのつかない結果を招いてしまったことになる。しかし、ぼくたちにはどうにもできなかったのだ。内藤に逆らえば今度は自分が山汐に代わっていじめられるかもしれない。このクラスの誰もがそう考えていたに違いなかった。だから見て見ぬふりをした。けれどそれは言い訳にすぎない。ぼくたちは山汐にいくら謝っても謝り足りない。ぼくたちには勇気も覚悟もなかったのだ。

 誰の子かわからないような子だ。彼女はもちろん堕胎するだろう。しかしそれは男のぼくの考えに過ぎないのかもしれないと鮎香は言った。彼女はもしかしたら自分のお腹の中に宿ったこどもを愛し、産もうとするかもしれないという。

「そんなことありえるのか? だって誰のこどもかもわからないんだぜ」

 祐葵が言うと、

「父親が誰かはわからなくても、でも自分のこどもには違いないじゃない」

 鮎香は言った。

 確かにそうかもしれない。

 彼女はこのままもう二度と学校には来ないかもしれない。事件のことを誰もしらないような県外の学校に引っ越して転校してしまうかもしれない。ぼくは祐葵と鮎香と、もし山汐がまた学校に来ることがあったなら三人で全力で彼女を守ろうと話していた。棗先生がいなくなってしまったあと、副担任のちづる先生とも一度ぼくたちはその話をしていた。

 1年2組は行方不明の棗先生の代わりに、副担任だった青ちづる先生が今はぼくたちの担任を臨時で務めていた。

 ちづる先生はぼくたちの話を聞き終えると、「あなたたちにならまかせても大丈夫そうね」と言った。「もちろん私も全力で山汐さんをフォローするつもりよ」とも言ってくれた。「でもまた学校に来てくれるかどうかはあの子次第ね」私にはどうしてあげることもできないわ、あんなことがあったのだもの、と先生は言った。

 山汐に売春を強要した内藤美嘉たちは、本来なら少年院送りにでもなるべきだが、内藤の祖父がこの町の町長で大金持ちだったこともあり、何食わぬ顔をして二学期も学校に来ている。所詮世の中は金なのだ。内藤は相変わらずクラスの中心、というより女王様きどりで、彼女が従えるグループの佳苗貴子、八木琴弓、藤木双葉の三人はまるでその親衛隊のようだった。こいつらをどうにかしなきゃ、山汐の復学は難しいだろうなと思う。

 鮎香が三角形の形をしたお気に入りの不思議な腕時計を見た。文字盤には文字ではなく奇妙な絵が描かれていて、何度見てもぼくにはその時計がうまく読めない。

「もう時間?」

「ううん、もうちょっと」

 鮎香はぼくの問いにそう答えると、最後にひとつ残っていたからあげにフォークをさして、ぼくに向けた。

「え、何?」

「あーん」

 彼女はそう言って、ぼくに口を開けろという。

「無理無理無理、祐葵が見てるし」

 ぼくはきっと顔が真っ赤になっていただろう。鮎香はときどきこういう意地悪をぼくにする。

「お前がいやなら俺がもらうぞ。あーん」

 祐葵は祐葵で、そんなことを言って、大口を開けて見せた。

 鮎香は、ちぇっ、と言って自分の口に唐揚げをいれると、もぐもぐと咀嚼しながら、食べ終わった弁当を片付けはじめた。

 ぼくは祐葵の顎に手をやって、あんぐりと開いたままの口を閉じてやった。

 そろそろ昼休みも終わりだ。

 楽しい時間はいつもあっという間に終わる。

 けれど、高校に入学してから二回席替えがあったけれど、ぼくたちは毎回席が近く、今もぼくの隣りが鮎香で、前は裕葵だったから、授業中も休み時間の延長のようなものだった。

 放課後も、帰宅部のぼくと鮎香は裕葵のサッカー部の練習を毎日見学して、そのあと三人でいっしょに下校する。

 今日も午後はそんな風にして過ごす。

 変わらない、でも楽しい毎日、それが昨日までのことだったなんて一体誰が想像しただろう。

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