第10話 2013年10月9日、水曜日 ⑤

 ぼくは加藤麻衣から逃げるようにして部室を出ていた。

「ご主人様? 待ってください」

 アリスが慌てて追いかけてきた。

 逃げ込んだ先は部室棟の男子トイレの個室だった。

 八十三高校の校舎は古く、何年か前に耐震のための改築が行われたけれど、洋式トイレはあまりきれいとも言えなかったが、ひとりで落ち着ける場所がここしか思いつかなかった。

「そんなぁ、ご主人様殺生ですぅ。男子トイレになんてアリス入れませ~ん」

 トイレの外で、アリスが何か言っていたけれど、ぼくの耳には入らない。

 気が気じゃなかった。世界の再構築を免れている奴がいるなんて。

 今朝姉ちゃんはぼくが不登校のひきこもりだということを忘れてしまっていたけれど、弟は覚えていた。毎朝ぼくを迎えに来てくれるSとあやのことを知らないようだったし、ぼくが学校に行くと聞いて驚いていた。

 姉ちゃんと弟の違いは、携帯電話を持っているかいないか、正確にはRINNEをやっているかいないか。

 ぼくがした世界の再構築は、RINNEユーザーにしか影響がないのだ。

 Sとあやの存在、それからぼくの登校は、RINNEユーザーには受け入れられるが、それ以外のガラケー所持者や携帯電話を持たない者には受け入れられない。

 今日は気づかなかっただけで、ぼくたちのことを不審に思っている連中もクラスにいただろう。その連中は目の前で今起きていることが現実なのか、自分の記憶こそが正しいのか、一日不安にかられていたことだろう。何しろ彼らの方が少数派であるのだ。ぼくは今日ほとんどのクラスメイトと会話を交わしたけれど、彼らはみんなRINNEユーザーだったのだ。

 ぼくは味方と敵を区別しなければいけない。味方や敵といった表現がこの際正しいのかどうかわからないけれど。

 スマホ持ちのRINNEユーザーは全員ぼくの味方だ。Sやあやをはじめ、彼らはぼくとアリスの世界の再構築の影響下にある。いくらでも改変が可能な、ぼくに都合のいい「友だち」だ。必要に迫られれば「友だち削除」だってできる。けれど、それ以外の連中は敵だ。あの加藤麻衣という女の子はたぶん敵だ。ぼくの普通の高校生になりたいという平凡な夢を邪魔する可能性がある。

 加藤麻衣の他に、一体誰が敵なのか、ぼくは知っておく必要がありそうだ。

 ぼくは携帯電話を取り出そうとして、気づいたことがあった。手に真約聖書・偽史倭人伝を持ったまま部室を出てきてしまっていた。ここに捨ててしまってもよかったが、ぼくは一応鞄にその本をしまって、携帯電話を取り出した。

 Sとあやに「クラス全員、できれば学年全員の携帯電話番号かRINNE IDを教えてほしい」とRINNEでチャットメッセージを送信した。「教師たちのものもわかればできれば頼む」


──どうしたんだ?急に。


 と、S。

 誰が味方で誰が敵か調べたい、なんて言えない。頭がおかしくなったと思われかねない。いや、大丈夫か、と思いメッセージを入力しながら、そう思われたらアリスに頼んで再構築して元通りにすればいい、と一瞬思ったが、それは間違っているとすぐに気づいて、メッセージを消去した。

 クラスの人気者らしい台詞で何とか納得させなくてはいけない。


──わたしは友達少ないから、あまり頼りにならないと思うけど、頑張ってみるね。


 あやは何も疑問を持ってはおらず協力的だったけれど、たぶんあまり役には立たないだろう。

 Sなら人気も人望もある。今頼りになるのはSだ。

 Sを何とか説得する言葉を考えなければ。

「あの~、ご主人様。差し支えなければアリスが考えた言葉でもいいでしょうか?」

 トイレの外からアリスが言った。

「なんだ、言ってみろ」

 役に立つとは思えなかったけれど、ぼくは聞いてやることにした。

「ご主人様の高校デビューにあたって、アリスがいくつかの学園ドラマを観て勉強をしたのは、今朝お話しした通りなんですが、その中に学園モノの特撮ヒーローっていうかなり異色なものがありまして……」

「能書きはいい。早く言え」

 自分でもイラついているのがわかった。みっともないということもわかっていた。

 ぼくは、自分の性格を自己分析するなら、かなり内弁慶な性格で、人前では言いたいことを何ひとつ言えない根性なしだ。けれど、家族とか身内にはそうじゃない。母さんや弟を汚い言葉で罵倒したりする。内弁慶なんて表現は生易しいくらいの性格破綻者だ。はっきり言って性格が悪い。不登校のひきこもりなんてみんなそんなものかもしれないけれど、ぼくはテレビアニメやライトノベルの主人公には絶対なれないだろう。

「主人公は転校生で、今時リーゼント頭で短ラン姿っていうありえない高校生なんですけど、その子が毎週のように言う決め台詞があるんです」

 そしてアリスはこんな台詞を口にした。


『俺はこの学校の生徒全員と友達になる男だ』


 それだ、とぼくは思った。

 ぼくには決してふさわしくないけれど、クラスの人気者にはふさわしい台詞だ。

 ぼくは一言一句違わず、Sにメッセージを送信した。


──なるほどね。了解。すぐに調べて送る。


 Sはあっさりと了承してくれた。

 ぼくはトイレから出ると、

「ご主人様、ずっとトイレに篭ってたからなんだかトイレ臭いです」

 鼻をつまんでおどけてみせるアリスを見て、こいつもなかなか役に立つじゃないかと思った。

 それにしても、『俺はこの学校の生徒全員と友達になる男だ』か。そんな台詞を言えるような性格だったらどれほど人生が楽しいだろう。ぼくはそういう人間になりたかった。そういう人間の設定だけが世界の再構築によってぼくに今与えられている。ぼくはその役割を果たせる人間になれるだろうか。

 たぶん、無理っぽいな、とぼくは自嘲して、帰路についた。




 世界の再構築によって、ぼくの部屋に昨日までなかったものがある。

 作文や絵で何とか大臣賞をとったことになっており、警察からは捜査協力の感謝状が送られていた。スポーツ関連のトロフィーもたくさん並んでいる。

 昨日までなかったもののひとつにクラス名簿があった。

 夜遅く、Sから送られてきたクラスメイトの携帯電話番号とRINNE IDを、ぼくはそこに書き写していた。

 クラスメイトで携帯電話を持ってはいるが、RINNE IDを持っていない者はいなかった。全員スマホ持ちで、ガラケーじゃなかったことはたぶん奇跡に近い。しかし携帯電話を持っていない者が7人もいた。そいつらはアリスの世界の再構築の影響下にない。ぼくの敵になりうる存在だ。


 神田透(かんだとおる)

 氷山昇(ひやまのぼる)

 真鶴雅人(まつるまさと)

 宮沢理佳(みやざわりか)

 山汐凛(やましおりん)

 大和省吾(やまとしょうご)


 そして、加藤麻衣。


 同じクラスに7人もいることにぼくはため息をついた。クラスの4分の1だ。しかし、逆に言えばクラスの4分の3、20人あまりはぼくの味方だということだ。

 学年全体や学校全体で考えても、教師たちも含め、おそらく4分の3程度はぼくの世界の再構築の影響下にあるだろう。ぼくの担任の教師、確か棗弘幸という名前の男がそうであったように。

 Sとあやを友だちに追加したおかげで、アリスの設定の無理強いもあり、ぼくはクラスの人気者になることができた。

 しかし、これで満足していてはいけない。その4分の3を完全にぼくの影響下、支配下と言ってもいいかもしれない、に置くために、ぼくは書き写したIDを今度はRINNEで検索をかけ、次々に友だちを追加していった。

 普通の高校生でいるために。

 ぼくは出来うる限りのありとあらゆる万全の準備をしておかなければいけないのだ。最悪いつでもその4分の3の誰かを「友だち削除」ができるように。

 けれど、本当に普通の高校生はこんなことをしなくてもきっと普通でいられるのだとも思う。ぼくは普通じゃないから、不登校になり、ひきこもりになった。普通じゃない者が普通であるために努力するということは、結局は永遠に絶対に普通にはなれないということかもしれない。だけど普通にはなれなくても、普通であるふりをしなくちゃこの世界では生きていけない。

 たとえアリスの力を最大限に使ったところで、ぼくのような人間が普通である世界に、世界を作り変えることなどできはしないのだ。たとえそれができたとしても、世界は混沌としたものになるだろう。

 父さんの書斎にあった犯罪関係の本で前に読んだことがあった。

 一概に言えることではないが、短絡的な理由による殺人は低学歴や無職の者が犯す場合が多く、快楽殺人や猟奇殺人を犯す者ほど高学歴であったり社会的地位があり、犯罪が露見するまではごくごく普通に生活していると。テレビでもよく猟奇犯罪者が逮捕されると、マスコミの近隣住民へのインタビューで「あんないい人がまさか」と言った言葉を聞く。彼らはきっと普通であるために絶え間なく努力を続けているのだ。

 ぼくはまだ犯罪者ではないが、アリスに出会わなければ、いつか母さんを、非表示やブロックではなく、殺していたかもしれない。そのときはきっと弟も殺しただろう。姉ちゃんを犯していたかもしれない。ぼくはいつ犯罪者になったとしてもおかしくなかった。ギリギリの精神状態で生きていた。ぼくはそこからようやく解放されようとしているのだ。

 友だちがたくさんいた学校はとても居心地のいい場所だった。あの場所を失いたくはない。学校だけじゃなく、街と家にもぼくの居場所を作らなければならない。だからぼくは努力を続けなければいけない。

 まだ使い勝手の悪い携帯電話を手に、ぼくは朝まで努力を続けた。

「ご主人様、そんなのアリスに言ってくださればすぐにやりますのに」

 アリスの言う通り、彼女に命じてIDを登録させることもできた。その作業はきっと一瞬で終わったと思う。けれどぼくは自分の手でその作業をしたかった。

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