お題『最初に旅ありき(旅での出来事をアイデアのもとにする)』_『ベネツィアの紛失』
『ベネツィアの紛失』
石榴石という言葉を聞いて、宝石ではなくある機械人形を思い出す種類の人間が居る。
私はその種の人間、機械人形の愛好家だった。かつて財前斗真という天才人形師が手がけた機械人形を、欲しがる人は数知れず居たが、私もその一人だった。特に「宝石シリーズ」と呼ばれる人形を私は欲していた。それは、精緻で、生々しく、人形というより小さな人間だった。「宝石シリーズ」の人形たちはみな、多種多様で異様な魅力を放ち、初代の琥珀など100億の落札価格がついた。
今私の隣に居る石榴石は、その機械人形の一体だ。
法外な値段がついた琥珀、引き取り手が決まっていながら造り主を見殺しにした翡翠のように、柘榴石にもある逸話があった。
彼女は死人の手を渡り歩くのだ。
石榴石の白い手をとる。それはまるきり人間と変わらず、大きさの違いさえなければ誤認してしまいそうなほどだった。カットされた宝石の眼に、絹糸の髪、椿の唇はすべてが狂おしいほど私を満たしてくれた。そう、死人の手を渡り歩く石榴石は、今私のもとにある。手にしてようやく理解した。石榴石が死人を出すのではない。死人が柘榴石に惹かれてしまうのだと。美しい眼に看取られて死にたい。少なくとも石榴石を一目見た私はそう思い、なけなしの金をはたいて彼女を手に入れたのだ。
きしむ体をなんとか動かし、彼女の目を見つめる。
今日も石榴石は私を見つめてくれている。
私の余命が尽きるまで、その視線を外さないでいてくれることが、当時のただ一つの願いだった。
当時の事を思い返すと、自分でもなんと無謀なことをしていたのだろうかと思う。
私は余命いくばくもない状態で、海外旅行を繰り返していたのだ。それはただ美しいものを死に際に詰め込みたい、美しいものに囲まれて死にたいという渇望ゆえだったが、無論周りの人間には理解されなかった。トルコ、オーストラリア、ハワイ、バリ、ニューカレドニアと数々の国を巡り、辿りついたのがイタリア、ベネツィアだった。
ベネツィアに着いた時、私はここで死のうとそう決めた。それは水の都の美しさに圧倒されたからかもしれないし、幼い頃ベネツィアに訪れた思い出がそうさせたのかもしれない。
久々に訪れたベネツィアは、褪せず美しかった。
水路は夏の熱気に蒸したような匂いがしたが、それすらも風情として受け止められた。細い水路をゴンドラより一回り小さい船が通り過ぎていく。それを横目で見ながら、私はベネツィアングラスの店舗に入っていった。
扉を開けると、涼しい風が私の体を冷やした。棚には彩り取りのガラス細工が並んでいる。そのどれも金で装飾がされており、繊細さと豪奢さが同居していた。私はその中の一つ、深紅のグラスを手に取った。店舗の光に翳すと、それは光を薄い赤で弾き、石榴石の瞳を思い出させた。
「これを頂けますか」
英語で言ってしまって、しまったと思った。イタリアでは英語はほとんど通じない。しかし、レジの向こうの女は曖昧に頷くと会計をしてくれた。観光客も入るせいか、この店では英語が通じるらしかった。
「気をつけてくださいね」
グラスの梱包を撫でながら、石榴石のことを考えていたので、その言葉に思わずぎくりとした。
「イタリアでは、忘れ物盗まれる方、多いですから。旅行中気をつけて」
それを聞いて、幼い頃の記憶が蘇った。
小学生の私は、ベネツィアに出かけられるのが嬉しく、ある日ホテルに親に買って貰ったベネツィアングラスの時計を置いてきてしまったのだ。私がホテルに帰ると、それはまるで最初から無かったかのように消え失せていた。わんわんと泣いたが、結局その時計とはそれきりだった。大人になった今なら、あれは清掃の人間の手癖が悪かったのだと分かる。
そこまで考えて、私の顔から血の気が引いた。
私は石榴石を、ホテルのソファに座らせたままにしてあったのだ。
果たして、石榴石はもうそこには居なかった。
石榴石の着ていた、美しい着物だけがそこに残されていた。行方を捜そうと
ホテルのスタッフに英語でまくしたてても、あしらわれるだけで一向に石榴石は見つからない。探すうちに路銀がなくなり、私はすごすごと日本に帰るはめなった。ベネツィアに来た時は、石榴石に見つめられ、水の都で静かな死を迎えるつもりだった。しかし実際の私は、石榴石と引き離され、生きたままおめおめ日本に帰っている。理想と現実の落差がただただ情けなかった。
忘れよう。忘れよう。そう何度も思ったが、石榴石の美しい瞳は私の心を捉えて放さなかった。
そして、私は財前有紀という人間と出会った。
彼は石榴石を造った財前斗真の孫であり、現役の機械人形師だった。弟子を探しているという彼になんとか頼み込み、彼の元で機械人形の造り方を学んだ。私は失った石榴石を取り戻したかった。その一心でただ機械人形を作り続けた。
奇妙なことに、石榴石から離れた私の体は余命以上に長生きした。もう余命とされた年の、倍は生きている。その間ずっと機械人形を造り続けたが、石榴石に並ぶ人形は結局作れずじまいだった。
石榴石を忘れようと思ったこともある。
そのたびに、ベネツィアでの怪死事件が耳に入り、誰かが石榴石にその甘い死を看取られたに違いないと、羨ましくなってしまうのだった。
了
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